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ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その4

※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の小道。


今回は問10と問11。

何度も言う通り実践が全てなので、あんまり長々と書いてもどうしようもないのですが、備忘録ついでに重要だと思うことを書いておきます。

問10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?

ここでタイトル回収で、それは「私は誰か?」と尋ねること、というのが回答。

この回答で終わり!閉廷!
これで万事OKだわ

なのですが、参考文献のサイトからの問答を引用して補足しておきます。

今回はChromeの翻訳機能を使った訳文まんまを載せたのですが、翻訳機能がこんなに楽チンチンだとは知らなかったヮ。

お分かりでしょうが、「バガヴァン」というのはラマナのこと。

質問:どうすればいいですか? 今のところ成功していません。

バガヴァン:「私」という思考の源を探してください。それが人がしなければならないことのすべてです。宇宙は「私」という思考のおかげで存在します。それが終われば、苦しみも終わります。偽りの「私」は、その源が探されたときにのみ終わります。

質問:心を内に向けると、私たちはまだ心を使用しているのではないですか?

バガヴァン:もちろん、私たちは心を使っています。心の助けによってのみ、心を殺すことができることはよく知られており、認められています。しかし、心が存在するからそれを殺したいと言い始める代わりに、心の源を探し始めると、心はまったく存在しないことがわかります。外に向けられた心は、思考と対象になります。内に向けられた心は、それ自体が真我になります。

質問:それでも理解できません。あなたは、「私」は今、間違った「私」だと言います。間違った「私」をどうやって排除するのでしょうか?

バガヴァン:間違った「私」を排除する必要はありません。「私」はどうやって自らを排除できるでしょう?あなたがしなければならないのは、その起源を見つけ出し、そこに留まることだけです。あなたの努力はそこまでしか及ばないでしょう。その後は、向こう側が自然に解決してくれます。あなたはそこでは無力です。どんな努力もそこに到達できません。

質問:答えずに「私は誰か?」と問い続けるべきでしょうか? 誰が誰に尋ねるのでしょうか? 質問するときには、どのような態度を心に持つべきでしょうか? 「私」とは何でしょうか、自己でしょうか、それとも自我でしょうか?

バガヴァン:「私は誰か?」という問いにおいて、「私」とは自我です。この問いが本当に意味しているのは、この自我の源泉や起源は何かということです。心の中にバヴァナ(態度)を持つ必要はありません。必要なのは、自分がこれこれの身体であり、これこれの描写を持ち、これこれの名前を持つ、などというバヴァナを捨て去ることだけです。あなたの本当の性質についてバヴァナを持つ必要はありません。それはいつものように存在します。それは現実であり、バヴァナではありません。

質問:しかし、「私」が「私」を探しているというのはおかしくありませんか? 「私は誰か?」という問いかけは、結局は空虚な定式になってしまうのではないでしょうか? それとも、マントラのようにそれを繰り返しながら、自分自身に際限なく問いかけ続けるのでしょうか?

バガヴァン:自己探求は、決して空虚な決まり文句ではなく、マントラの繰り返し以上のものです。「私は誰か?」という探求が単なる精神的な質問であれば、あまり価値がありません。自己探求の目的そのものは、心全体をその源に集中させることです。したがって、それは「私」が別の「私」を探すということではありません。ましてや自己探求は空虚な決まり文句ではありません。なぜなら、それは純粋な自己認識にしっかりと安定させておくために、心全体を激しく活動させることを伴うからです。

『‘Who Am I?’ Sri Ramana Maharshi’s teachings on how to realise the Self』David Godman

色々と引用しましたが、まとめると、

  • 思考が湧いたら「私は誰か?」という思考をして探求する。(思考だけでなく感情や行為でも同様にやればOK)

  • ただし、探求するのは「思考の主」であり、思考自体ではない。思考や感情や行為といった対象ではなく、主体を探求する。

  • 思考自体を探求すると思考に囚われて思考は止まらない。「私に思考が湧き上がっている」ということにすら気付けない。

  • 単に「私は誰か?」と考えただけでは思考は止まらない。

  • 回答不要。思考の主体を探求すれば思考は止まる。

  • できることは、ここまで。あとは恩寵により自然と問11にある「アンタール・ムカ」となる。

ということなのですが、こんなの書いたり読んだりしても何の意味もなく、実践してこそ意味があります。

ちなみにこの「私は誰か?」と尋ねる方法、1896年ラマナ16歳の時の臨死体験が元になっているそう。

1896年のある時、彼が16歳の時、彼は驚くべき精神的な目覚めを経験しました。叔父の家で座っていると、自分は今にも死ぬのではないかという考えが頭に浮かびました。彼は怖くなりましたが、パニックに陥る代わりに地面に横たわり、何が起こっているのかを分析し始めました。彼は死とは何か、何が死に、何が死後も生き残るのかを調べ始めました。彼は自発的に自己探求のプロセスを開始し、数分以内に自分自身の永遠の目覚めに至りました。

このプロセスに関する彼の書面によるコメントの 1 つに、彼は次のように書いています。
「見る者は誰か」と内心で問いかけたとき、私は見る者が消え、永遠に存在するものだけが残されるのを見ました。「私は見た」という思考は起こりませんでした。では、どうして「私は見なかった」という思考が起こり得るでしょうか。

その数分間、彼の個人的アイデンティティは消え去り、完全な自己(Self)意識に取って代わられました。その経験、その意識は、彼の残りの人生に残りました。彼はこれ以上の修行や瞑想を行う必要はありませんでした。なぜなら、この死の体験によって、彼は完全で最終的な解放の状態になったからです。

『An Introduction to Sri Ramana’s Life and Teachings』David Godman

バガヴァンが人々に「私は誰か?」と尋ねて「私」の本質を見つけ出すように言ったとき、彼は抽象的な知的なアドバイスを与えていたわけではありません。彼は、自分自身が16歳のときに自己を悟った方法を伝えていたのです。
マドゥライの床に横たわっていたとき、彼の中に「見る者は誰か?」という疑問が浮かびました。つまり、「私の中にあって、外側の何かを見ているものは何か?」ということです。彼は、その疑問への直接的な答えとして、彼の個々の「私」がハートに戻って死に、物事を見る者と見られる対象との間にもはや区別がない状態が明らかになったと言いました。
彼が「自分自身に「私は誰か?」と尋ねなさい」と言ったとき、彼は事実上、「これが私が悟った方法です。自分で試してみてください。そうすれば、おそらく同じことが起こるでしょう」と言っていたのです。

『‘Who Am I?’ Sri Ramana Maharshi’s teachings on how to realise the Self』David Godman


はえ~すっごい恩寵…

他の方法

以上なのですが、ラマナは「私は誰か?」の他に
「私」という思考にとどまりなさい
とも言っていたようだし、

何の仕事をしていようと、座っていようと、立っていようと、歩いていようと、いつも心の中で「私、私、私」と言い続けなさい。「私」とは神の名前です。それは最も偉大な原初のマントラです。「オーム」でさえ「私」のあとに生じたのです。
「私」という想念は純粋ではありません。それは身体や感覚と結びついて穢れています。誰にとっての問題なのかを見なさい。「私」という想念にとってです。それをとらえなさい。そうすれば他の想念は消え去るでしょう。「私、私、私」と考えなさい。他のすべての想念を排除して、その一つの想念だけをとらえるのです。

『真我』

ということも言ってますが、結局はどれも同じこと、「私」を起点とするマインドを真我(神、静寂、意識etc.)に置いておくことになるなのでどれでもいいでしょう。

あと念の為言っておくと、「アンタール・ムカ」というのは名前こそ付いて言葉により限定されている感じだけど、新たに獲得したり達成したりする状態などではない、身体や思考や感情や状況や肩書や人間関係や所持品のように変化するものではない、ということはこういうのを齧っている人ならご存知でしょう。知っているだけじゃどうしようもないけど。

問11 「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

  • 色々と思考が湧いても追いかけることをやめ、湧いてくる都度「この思考は誰に起きたのか?」と尋ねる。どんなに多くの思考が出てきてもかまわない。

  • 現れる回答は「私にだ」。

  • そこですぐに「私は誰か?」と探究すると、思考は源に引き戻されて思考は静まる。

というのが回答で、これまで書いてきた通り。

思考は思考に過ぎない

ここで何か付け加えるとすれば、問21と被るけど、
「どんなに多くの思考」とありますが、数や頻度と同様「内容」についても関係なく、思考は思考に過ぎないということ。

どういうことかというと、こういうのって不安や怒りや悲しみといった所謂「ネガティブ」な気分になったときにやる人が殆どでしょうが、
そうではなく、「ネガティブ」だろうが「ポジティブ」だろうが、思考が湧いてきたら即おこなう、ということであります。

キラキラ☆ハッピー系やらインチキ引き寄せやらの影響か何かしらんけど、こういう智慧を「ネガティブ」な気分からの逃避手段としか考えておらず、「『ポジティブ』で『良いこと』だけにしよう」と企む人間の何と多いことか。何か新しい概念や状態といったガラクタを獲得しようとしている人間の何と多いことか。

そういう人間が効果ゼロなのは当然のことで、自称覚者や自称マスターに騙されてザ・エンドとなるのも当然のことでしょう。

ともかく、思考が湧いてきたら「この思考は何なのだろう」「何が原因でこの思考が起きたんだろう」「この思考を静めるにはどうすればいいんだろう」などといった余計なこと(これが思考自体を追いかけること)をせず、中身の区別なしに「あ、思考が湧いた」「この思考は誰に湧いたのか?」とやればいいのです。
どんな思考であれ主語は全部「私」なんだから、「私」にキャメルクラッチをかければよろしい。

すると思考は止まり、ただ身体にその反応が残るだけ、そして…となるのです。

以上、引用が多くなった気がするけど、今回はここまで。

<参考文献>


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六郎
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