文禄4年(1595)7月20日は豊臣秀吉が秀頼の後見役を前田利家らに命じた日。5日前の秀次切腹で動揺する諸将に連名で誓紙を書かせた。利家と宇喜多秀家は在京し秀頼を守ることを誓う。後に家康も上京し連名で誓紙を出し東は徳川、西は毛利輝元・小早川隆景が責任分担するよう体制を見直した。
明治になってその子息に対する赦免を取り計らわれたという のもあまりに悠長すぎるといえる限りだし敵方だった相手に 屈したくないと思うものもあった一方前田家による支援を 受けられた結果今の時代にもその系譜は連綿と受け継がれて いるけどぼかぁそれほど認められるものもないわけで…
そんな島津家と前田利家に諭された結果斬首刑をまぬがれたと しても何もないところに数十年も身を置かれるような無様な こととなろうものなら海の藻屑になってもいいといわん ばかりに身投げしたくなるような限りでしかないのだよな…
しかし関ヶ原に対しては否定的でそこを石破…じゃなかった 石田三成に提言したものはあるにしろそれを棄却されたもの だったし彼奴もまた偏屈だったため小早川のことも含め敗退 したところで秀家は島津家側に亡命後流罪の憂き目にあった というものだよな…
宇喜多秀家というところにはなるけど中納言との肩書き みたいなところはあるとして何者かというところで云えば 秀吉との関わりも強く五大老の一角となったものの20代で 大老というのも何だかなというかね… そのため西軍側についたのはいうまでもないものとして。