なぜ石田三成は関ヶ原で勝てなかったのか。
西軍は、東軍に対して兵力的に優勢でした。
徳川軍の別働隊、秀頼率いる3万が上田に籠る真田勢に手を焼き、合戦に間に合わなかったからです。
関ヶ原の布陣図を見ても、西軍が圧倒的に有利です。
徳川家康の本隊を3方向から包囲できる体制にあります。
北に追い込まれると相川が流れているため、それこそ背水の陣となります。
映画「関ヶ原」でも、家康が合戦前に「何とうかつな事よ。」とうそぶいています。
豊臣家にとって大誤算だった徳川家康の存在
内府とは内大臣のことで、太政大臣・秀吉が死去した際(1598年)には、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者でした。
その当時は封建社会ですから官位というのは非常に重要な意味を持ちます。
ここで当時の官職を整理しておきましょう。
関ヶ原合戦の時点で大納言 前田 利家は没しています。
よって中納言、毛利 輝元が西軍の大将になったのは当然のことでしょう。
なお石田三成、大谷吉継の官職は従五位下です。
従五位下は、石高の低い大名に与えられる官職です。
内大臣・徳川 家康と比較すると7階級程度の差があります。
石田三成は家康に匹敵する能力的はありましたが、最後は官職の差で負けた形です。
普通に考えても、大納言・中納言クラスの大名が従五位下の大名の指示に従う事はありません。
東軍は徳川家康が豊臣家恩顧の武将、福島正則・黒田長政らを陣営に取り込めた事が勝因につながりました。
関ヶ原の布陣図
あらためて関ヶ原の布陣図を見ていきましょう。
まず動向の定まらない小早川に対し、大谷吉継が対陣しています。
ただし兵力は小早川16000、大谷4000と圧倒的に不利です。
合戦時で最大の西軍勢力・宇喜多秀家の正面に展開するのは、東軍の福島正則の兵7500です。
宇喜多軍は最後まで福島正則の陣を抜けず、小早川軍に側面を突かれ壊滅しました。
石田三成の前面には、黒田長政が立ちはだかります。
黒田長政の関ヶ原における戦いは凄まじく、三成の家老・島左近を討ち取り西軍の左翼を壊滅させています。
福島正則・黒田長政をしのぐ武力を持っていた「鬼島津」こと島津義弘でしたが、石田三成の再三の督戦にも応じず、戦場を離脱します。
島津軍が戦場を離脱したため、西軍は東軍の中央突破を許し敗走しました。
西軍の敗因
ここで西軍の敗因を分析してみましょう。
西軍・毛利輝元の大失敗
この当時は身分制社会だったので、トップにいるから優秀とは限りません。
その差がモロに出たのが関ヶ原と言ってもいいでしょう。
石田三成、大谷吉継からすれば毛利輝元、小早川秀秋が動けば必ず勝てるという必勝の信念があったはずです。
西軍大将の毛利輝元は中納言とはいえ凡庸な人物でした。
小早川秀秋もまたしかりです。
一方、徳川家康は桶狭間や三方ヶ原の戦いを経験し、戦(いくさ)は一瞬で決まるということを知っていました。
関ヶ原における致命的な判断ミスから毛利家は、その後400年間徳川幕府に組み敷かれます。
弱すぎた宇喜多秀家軍
宇喜多秀家軍は17000と西軍最大の勢力でした。
しかし、自軍の半分にも満たない福島正則軍の陣を破れませんでした。
もしも、宇喜多軍が早めに福島軍を壊滅できていれば小早川秀秋も西軍に味方していたかもしれません。
宇喜多家は1599年にお家騒動があり、戸川達安・岡貞綱・花房正成と言った優秀な家臣が出奔しています。
なお戸川・岡・花房と言った家臣は後に、徳川家康の家臣となっています。
多分徳川家康の調略があったのでしょう。
戦略的な失敗を犯した島津軍
島津軍の戦略は石田三成の下知に従わず、戦況をみて独立して戦うというものでした。
1500という兵力の少なさを考えると、島津義弘らしからぬミスを犯しています。
特に野戦では寡兵で大兵力を迎え撃つのは愚の骨頂です。
戦場を離脱するくらいなら最初から参陣する必要はなかったはずです。
なお島津軍は南宮山と松尾山にある伊勢街道を通って戦場を離脱しました。
最終的に薩摩に帰り着いた者は100名未満だったと伝えられています。
まとめ
関ヶ原合戦の帰趨は、すでに戦う前から決まっていたのかもしれません。
それだけの準備を徳川家康がやっていたということです。
対して西軍は、誰が総大将かもはっきりしない烏合の衆でした。
いくら兵力が多くとも、バラバラに戦っていては勝てる戦(いくさ)も勝てません。
豊臣方の集団としてまとまりのない状態は、慶長20年・大坂夏の陣(1615年)まで続きます。
トップの重要性を認識させる故事です。
最後まで記事を読んでいただきありがとうございました。
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