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川面に映える漆黒の城、岡山城 [日本100名城] [日本三大平城] [岡山県岡山市]

(2020年8月の攻城記録)


今回は岡山城を攻城したお話です。赤穂城の攻城を終え、播州赤穂駅からのんびりローカル線で向かった先は岡山駅です。


実は岡山県は(通過したことはありますが)初上陸です。岡山駅前には桃太郎の銅像が、、イメージ通りですね。

さて、ここから岡山城を目指します、、というか、もう既に岡山城内にいるんですよね。岡山城は惣構えの構造で、岡山駅周辺は三之外曲輪内跡で、要は三の丸内になります。

駅から路面電車に乗っても良かったのですが、岡山城のスケールを知るために歩いて、天守がある本丸に向かいます。



どうやら二の丸(西の丸)を取り囲む石垣跡に着いたようです。



二の丸(西の丸)内に入り、本丸を目指します。
左手には旭川、対岸はあの有名な後楽園です。


本丸への入り口、廊下門へ着きました。天守が見えるとちょっとテンション上がりますね。



では、廊下門をくぐり、本丸内に入ります。



本丸内に入ったら、目の前にただっ広い空間が広がりますが、表書院です。
岡山藩の政治が行われた場所で、数棟からなり大小60の部屋があったとのこと。


こうやって間取り図があると、当時の様子を色々と妄想できて楽しいですよねー。



そして、多聞櫓跡です。



岡山城は戦国時代にこの地一帯を支配していた宇喜多直家の嫡子で、 豊臣政権時は五大老の1人だった宇喜多秀家が豊臣秀吉のアドバイスを受けて築城します。



その宇喜多秀家が築城した時の石垣が表書院の土の下から出て来たんですね。

次の城主が手狭になったからと盛土して、どんどん石垣を埋めていったのでしょう。



宇喜多秀家が築城した時になく、後に作られたものに月見櫓があります。江戸時代、池田忠雄が城主の頃に作られています。
(因みに現存している月見櫓はここと、松本城、高松城のみです。)



月見櫓下の石垣です。



さて、不明門から、いよいよ天守を目指します。



天守の礎石です。

天守にあったものをこの場所に移したとのことです。



旭川に臨む水の手から直接アクセスする六十一雁木上門で、江戸時代に整備した際にこの門に通ずる石段が61段あったことからこの名称になったとか。



岡山城天守はコンクリート製の外観復元天守です。
天守は織田信長の安土城をモデルにしたとも言われています。



天守の中にお茶屋さんがあり、美味しいかき氷が頂けるのは、外観復元天守ならでは?現存していたら流石にお茶屋さんはねえ、、。



旭川の向こうには後楽園が見えますね。
とにかくクソ暑い真夏日に公園の敷地内を歩き回るのは辛いので今回はパスしますが、、。



さて、不明門を後にして、大手門方面へ向かいます。





鉄門跡。
名前からしてすごい門だったんじゃなかろうか?と思ってしまいますよね。



この辺は築城時の宇喜多秀家時代の石垣だそうです。

高石垣が見事です。関ヶ原の戦い以前の石垣としては全国屈指の高さだそうです。
さすが、豊臣秀吉がここは石垣高く積んどけよーとでもアドバイスしたんでしょうかね(笑)


入隅とか。



この辺りは小早川秀秋時代の石垣だそうで、、

岡山城は豊臣時代の五大家老の1人、幼少の頃から豊臣秀吉の寵愛を受けた宇喜多秀家が築城したのは先に触れましたが、秀吉没後の関ヶ原の戦いで石田三成方、西軍についてしまうんですよね、、。で、結果はご存知の通りで、その後、八丈島に飛ばされてしまうんです。


その後の城主となったのは、関ヶ原の戦いで西軍についていたものの、途中で東軍に寝返った小早川秀秋ですね。寝返って大谷吉継の陣に襲いかかり、自害に追いやった呪いなのか、祟りなのか知りませんが、関ヶ原の戦いから2年後に急死してしまいます。小早川秀秋に後継ぎはいなかったため、そのままお家断絶してしまいます。そして、その後、岡山城主となったのが池田忠雄です。

それぞれの城主時代の石垣が見れるなんて面白いですよね。


さて、内下馬門跡を抜けて、本丸を後にしました。


本丸を取り囲むお堀も見事ですね。




ん?あれは二の丸の石垣の跡でしょうか?櫓台跡っぽいですね。

こうやって街中にひっそりと残る城の痕跡を見つけるのも面白いですね。


見所が盛りだくさんで、また機会があったら攻城したいお城でした。



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