覚醒は言葉を越えているが、、、 この世は障碍だらけだから、ワンダーランドだと、この本でも語ってきたけど、 どんな解釈も越えて進行していく真実にとって、 言葉は障碍であるからこそ、その言葉を紡いで言語芸術を紡ぐことができるのだと新たに整理できたとき、 また一皮剥けた。
日本人が、日常的に使用している話し言葉の中には、古代サンスクリット語(古代インド語)の音読みの当て字が多くあり、その代表例は、シャーバ(「この世」の意)の音読み当て字が「娑婆」)であり、その他、会話には、仏教用語も使われており、たとえば、不可思議や魔訶(「偉大」の意)など。
仏法以外のものは浄土にも娑婆にも何ひとつ存在しておりません。すべてに沁み渡っております。(聞法中のお寺の片隅にて)
治療療養が終了し、俗世間に戻ってきました。 来月からの統一地方選をどれだけ取材出来るか分かりませんが、あまり無理せず出来る範囲でやっていきます。 お騒がせしました。 お陰様で、元気です。
ぼくの命は公共事業 ぼくの生活は全体への奉仕 ぼくの存在は社会資本 ワクチン接種 マイクロチップID PCR検査 マイナンバー リニアモーターカー 要らないものを必要にすることが公共事業 新幹線 道路 電気ガス水道 要らないものを必要にすることが公共事業 風物詩 花火大会 蕩尽
日常があまりに超常的だから、 私は未来と過去とを取り違える。 それが物忘れ、あるいは預言デス。 絶対価値とは「=」暫定的な定義デス。 「とは」はいま・ここだけの心の合鍵 ぼくたちさえよければいいの。ずっとね 生きてる間は自己犠牲 意識ある内は自己暗示 意思疎通とは共同洗脳。お戯れ