水曜日の窓辺

*ため息まじりに、俳句であるような、ないような、句帖兼日記。俳号「空茶」、読みは「からっちゃ」でも「でがらし」でも、お好きに。田舎暮らしの俳句を愛好する爺ィです。文意の錯誤、誤字脱字等々の追っての修正どころか、翌日には大幅な改変もよくありますので、笑ってお許しを。

水曜日の窓辺

*ため息まじりに、俳句であるような、ないような、句帖兼日記。俳号「空茶」、読みは「からっちゃ」でも「でがらし」でも、お好きに。田舎暮らしの俳句を愛好する爺ィです。文意の錯誤、誤字脱字等々の追っての修正どころか、翌日には大幅な改変もよくありますので、笑ってお許しを。

マガジン

  • 「ため息俳句番外」綴り帖

    本編の「ため息俳句」には、ちょっと収まりそうもなかった日常の思い、紀行文、展覧会の感想、俳句以外の文芸にかかわることなど、それと、自分の作品作りへの姿勢など、あれこれです。要は、句にするにはちょっと面倒な感じくさぐさです。 笑って、読み捨ててください。

  • 「古今十七文字徘徊」帖

    古今のふれあった俳句作品についての所感を記録しておくノートのまとめです。作品にふれあうというのは、きわめて個人的なことで、古典として名高い名句とか、コンクールの優秀作品とか、そういう評価には関係なく、いわば全くの個人的な経験となる「ふれあい」です。ですから、一切の評価的な判断からは無縁です。

  • ため息俳句 花々に会えば・・・。

    折々に出会う花々に寄せた句日記。 野草・野菜の花から名木と云われる一本桜まで、花にもいろいろ、人と同じのように思います。

  • ポロリと俳句・「句日記」

    俳句は、とりとめなくうつろう日々の一こまを、とどめておくにはまったく便利な器である。ポロリポロリと言葉がこぼれて五七五、そんな風でよいというのが、信条です。できるだけ、体と頭から力を抜いて、穏やかに。

最近の記事

ため息俳句 啄木君

 思わぬ時、時折、石川啄木の歌を読みたくなる。  自分の目から見ると、啄木の歌は古びることがない。  この頃は、短歌も口語で読むことが当たり前なって、それが近頃の短歌ブームの一つの要因だと思う。  啄木の口語は、謂わば明治の口語であるが、今時の若者が読んでもわかりにくいところはないだろうし、共感できるところが多いだろうと思う。 いと暗き 穴に心を吸われゆくごとく思ひて つかれて眠る 浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心 草に臥て おもふことなし わ

    • ため息俳句番外#59 玉ねぎの苗を植えた日

       玉ねぎの苗を植えているのだが、今年も苗がうまく育たないので、なんとか恰好がついたものから植えているので、なかなか植え終わらない。  今日も、今日の分は午前中に植えてしまおうと苗床から抜き出して準備したところ、準備が終えるのを待っていたように雨が降り出した。    仕方なく雨が止むまで待とうと、部屋に戻って、炬燵に入った。テレビィは、北海道やら青森やらで大雪になっていると報じていた。  そのテレビィは、どの局も今度の兵庫県知事選挙をめぐって、キャスターたちが自分たちの選挙報道

      • ため息俳句番外#58 今、「秋の暮」と

         昨晩から西高東低の季節風が吹いている。  風の一日が暮れようとしている。    それにしても昨晩にはまいった。  口では老人だ年寄りだといいつつ、本当のところはあまり自覚がないことが時折暴露される。  昨晩、旨さのあまり調子にのって餃子を食べすぎた。近所の町中華の餃子であるが、餃子の皮がしっかりとしている。その生の餃子を買って持ち帰り、家で焼くのだが、その焼き方が上手いので(勿論、焼いたのは小生である)、いい具合に仕上がって至極旨い。そこで、ついつい残さずに食べてしまった。

        • ため息俳句番外#57 山茶花が咲いていた

           山茶花が咲く季節になっていた。  それなのに小春日和どこころぽかぽかの陽気で、半袖Tシャツ姿の若者を何人も見かけた。  明日から寒くなるという予報で寒暖差に気を付けてほしいとあるが、それでも平年並みになっただけということだ。 今朝の朝日新聞(2024・11・17)に掲載された谷川俊太郎さんの連載。 (『どこからか言葉が』 谷川俊太郎)より 感謝    目が覚める 庭の紅葉が見える 昨日を思い出す まだ生きているんだ 今日は昨日のつづき だけでいいと思う 何かをする

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        • 「ため息俳句番外」綴り帖
          56本
        • 「古今十七文字徘徊」帖
          25本
        • ため息俳句 花々に会えば・・・。
          92本
        • ポロリと俳句・「句日記」
          53本

        記事

          ため息俳句 兼六園時雨亭

           金沢旅行の二日目、兼六園の時雨亭に立ち寄り、茶を飲んできた。  午後3時半に入場したのだが、40人ほどもいたが、日本人は我ら夫婦と他に4人ほど、それ以外は外国人観光客であった。大体が若い二人連れで爺婆は我らだけ。  ここで抹茶とお菓子が呈され、茶席の真似事を体験したのである。  さて、茶席に座るとそれなりの作法ということををついつい意識するのであるが、ここでは特にそうしたことを要求するところではないようだったので、すこし安堵したのだった。  茶の飲み方の作法なんて自分はまっ

          ため息俳句 兼六園時雨亭

          ため息俳句番外#56 のほほん金沢旅行

           宿泊したホテルは、犀川大橋にほど近く部屋から犀川の流れも眺められ た。  金沢の有名な二つの川は犀川と浅野川、その犀川である。ガイドブックによれば、ホテルから橋を渡れば10分ほどで室生犀星記念館まで行けるはずだが、わざわざ出向く気は起きなかった。 「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」                      室生犀星『抒情小曲集』より  なんて、

          ため息俳句番外#56 のほほん金沢旅行

          ため息俳句番外#55 金沢お楽しみ旅行

           金沢に老人夫婦で物見遊山の旅をしてきた。  さて、兼六園は、65歳以上の人は無料で入園出来た。実に喜ばしいことであったが、時折こうした施設があるので「唯ただ嬉し」と思いつつもちょっと釈然としない気がする。  さて、金沢に着き、まずはご当地金沢に敬意を表して、宿に荷物を預けて、一番に兼六園へ出かけた。どれどほ前かも忘れたが、一度目は一人で、二度目は家族で訪ねたことがあるのだが、今度行ってみると全部が初見の如くであった。庭園のたたずまいは昔と変わっていないはずだが、ここは観た覚

          ため息俳句番外#55 金沢お楽しみ旅行

          ため息俳句 炬燵出す

           埼玉県の全国高校ラグービーの予選準決勝二試合を観戦して帰ると、妻が炬燵を出すので手伝えという。  確かにこの数日、かなり冷え込んできていて、炬燵が欲しいと甘ったれたのは、自分だ。  ついこの間まで一体秋はいつ来るのだと、暑さへの不満ばかりであったのに。立冬との声も聞かれれば今度は寒い寒いと言い出す、老人とはそういうものである。  熊谷ラグビー場は、さきの日本開催ワールドカップの開催会場の一つになった際に、立派なスタジアムに変わった。今は、埼玉ワイルドナイツのホームになって

          ため息俳句 炬燵出す

          ため息俳句 立冬赤城山

           晴天につられて赤城山までドライブに行ったのだ。  秩父と赤城山と榛名山辺りまでは、気軽に行けるのだ。    そうして紅葉見物の気分で行き着いた赤城大沼は、激しい風で震えあがる寒さであった。  大沼の湖面一面風波が立ち、次々湖岸に打ち寄せてくる。  湖畔に近づこうにも立っていられないほどの烈風。  こんな大沼は、初めてである。  やってくる観光客も、来てはすぐに立ち去ってゆく。  ここに来るといつも立ち寄るお蕎麦屋さんで、お決まりの舞茸天ぷらそばを食べて体を温めて、赤城神社

          ため息俳句 立冬赤城山

          ため息俳句 T氏のことをふと思い出して

          Tさんに。 文学の人であった。 もう何年たったか、遠い11月に亡くなった。 自分といえば、せめて通夜のだけでもと、身支度までしながら、結局行かなかった。  思い出したのは、Tさんの著作の一節がなぜだか思い浮かんだからだ。                                なつかしや国東訛りのエロ話 枯れ鶏頭我らふたりの猿芝居 無花果の熟れすぎたるがうまいとか 文学とお金が好きな男なりき 秋の河へ注ぎつくさむ酒一斗

          ため息俳句 T氏のことをふと思い出して

          ため息俳句 コロッケとハムかつ

           最寄り駅の駅前通りにある小さな精肉店の惣菜の揚げ物が、好物である。  子供ころ、働きに出ていた母が、夕飯のおかずにしばしば登場させた肉屋のコロッケ・イカフライ・アジフライ・メンチカツ、そしてたまにとんかつ、そのころに身についた親しみの味である。  時折、買いに行かされた。いつも客が立て込んでいて、注文して揚げあがるまで、しばらく待たなければならなかった。できあがるとお金を払い、ちょっとワクワクしながら、大急ぎで帰ったものだった。 コロッケやあきかぜなどで冷めぬよう 空茶

          ため息俳句 コロッケとハムかつ

          ため息俳句 蚯蚓

           ようやく、畑仕事を快適にできる気候となった。玉ねぎを植える準備を始めた。  まずは耕すことから始めたのだが、今年はなんだか、うれしいことにミミズが沢山いるではないか。これも、温暖化によるのなら、少しは良いこともあるのだ。  ところで、子どものころ、「ミミズ」ではなく、「メメズ」と言っていった。それがなかなか直ることができずいた。埼玉の方言だと云われているが、確かにジジババは例外なしに、メメズと言っていたような気がする。 秋耕す蚯蚓大いに跳ねにけり  空茶 道化しが蚯蚓か

          ため息俳句 蚯蚓

          #26  手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風 横光利一

           横光利一の俳句について書かれたものをみると、横光の母方が松尾芭蕉の血を引くものであることに触れらている。つまり、横光利一は、そういう流れの人であったということだ。  丸谷才一の「松尾芭蕉の末裔」という評論は、その横光の俳句にたいそう手厳しくて、興味のある方は一読してはいかがか。(国会図書館デジタルコレクションで読める)   手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風  横光利一  この句、たぶん褒める人はあまりいないだろう。ただ、ネット上ではよく見かける句である。  「手に秘めし薔

          #26  手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風 横光利一

          ため息俳句 桜の花、三つ。

           我が家の桜は、大島桜の交配種であるらしいのだが、低く矮小な樹である。  夕刻近くその樹の下に、一輪落ちていた。  そこで、ごちゃごちゃに交差する枝の内を子細に見ると、あと二輪咲いていた。  どうやら、花を三つ咲かせたようだ。その一つが、地面に落ちていたのだ。  落ちた花を拾って見ると、本来春の咲く花に比べると、なんとも貧弱に痩せた花であった。  季節外れの桜が咲いたというのは、先月まで続いた暖かい秋の異常気象に関連付けられて、話題になったのを覚えている。  が、我が家

          ため息俳句 桜の花、三つ。

          ため息俳句 小銭

           今時、ポケットから小銭をだして、買い物する人なんていませんよと、女房殿に馬鹿にされている。  スマホやらカードやらで支払いをするので、小銭なんて手にすることはないというのが、普通らしい。  自分だって、クレジットカードやらプリペイドカードぐらい持っているし、スマホに決済用のアプリだって入っている。  だが、それらをどうも信用できない。買い物は、現金で支払いたいのだ。  サラリーマンのころ、ある時給料が銀行振り込みになった。それまでは、現金で支給されていた。経理の担当から給料

          ため息俳句 小銭

          ため息俳句 カボチャ

           Halloweenは、古代ケルト人の信仰に起源をもつそうだ。ケルトの暦では、10月31日は1年の終わりの日であり、現世と来世を分ける境界が弱まる時なのだそうだ。そして、死者の魂が家族のもとへ戻ってくる日としても信じられていた、とか。  その死者の魂と一緒に悪霊もやってくるとされて、その悪霊から逃れるために仮装をするのだという。  日本でいえば、お盆に似ていると言えるだろうか。地獄の釜の蓋が開いてやってくるともいわれる、祖先を迎えるお盆には全国どこでも盆踊りにあけくれたもの

          ため息俳句 カボチャ