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カルカッタで見た 「火の車」 は現実だったのか幻だったのか 〜 「全東洋街道」(藤原新也)を読み返し、最後に聴くのは クリーム "Wheels of Fire"

「火の車」 とは 〜 その 1

乞食は元々は仏教用語であって俗な差別的意味はないが、ここで言及しているのは俗に言う「こじき」。とはいえ、やはり、当然ながら、少なくとも筆者の note 投稿テキスト内において、差別的な意味合いは全くない。

それはさて置き、この note 投稿の本題に入る前、最初にことわっておくべきことがあって、本 note 投稿のタイトル上の絵は、江戸時代の画家・佐脇嵩之(さわき すうし)が残した「百怪図巻」(ひゃっかいずかん)と呼ばれる妖怪を主題にした絵巻物(元文2年, 1737年)の中で描かれている妖怪で、やや、ややこしい話になるが、この絵巻物では「火車」と名付けられているものの、絵自体は元来「火の車」と呼ばれてきた妖怪を描いたものであって、実は「火車」という名の妖怪は別にある(別の妖怪の方の「火車」は猫の妖怪)。

いずれにしても、今日の拙者(筆者のこと、確かに筆者は拙者だが、しかし拙者が書く文章が必ずしも拙文になるのかというとそんなことはないぞ、笑)の note 投稿の中で取り上げている 〜 (拙者が)37年前にカルカッタで見た「火の車」(のような乞食) 〜 はそのキャラクター自体が妖怪「火の車」なのかというと、そうでもない。そうでもないが、しかし、実はそうかもしれない。

このワケの分からんように思える「禅問答」みたいな説明は、この後の文章の中で多少ワケが分かるようなものになっていくかもしれない ... たぶん! (Maybe はレナーテの口癖。レナーテとは1983年から1984年にかけての拙者の海外「放浪」もどき旅インド編のアムリトサルとダラムサラで一緒だったインド系ドイツ人女性バックパッカーの名前なんだけど、これは該当 note 投稿複数の全てを丁寧に読んだ人には覚えのある人物で ... 丁寧に読んだ人いないか、笑)(兎にも角にもいつもの「脱線」話)

というわけで(どういうわけだ?)、今日のこの note 投稿テキスト内の「火の車」(のような乞食)とキャラクター的にイコールというわけではないし(でも意味はあるのかもしれないのだが、と書いてる本人は思っているのだけれども)、インドの乞食でなくて日本の妖怪の「火の車」が何なのか、この際(ここでは)それほど深く知る必要ないわけだけれども、とりあえず、ウィキペディアから引いておくと、

「火の車(ひのくるま)は、日本の怪異(妖怪)。平安時代に成立した『今昔物語集』を始め、いずれも江戸時代前期の文献である『奇異雑談集』『新著聞集』『譚海』『因果物語』などに記述が見られる」。

「悪事を犯した人間が死を迎えるとき、牛頭馬頭などの地獄の獄卒が、燃えたぎる炎に包まれた車を引いて迎えに現れるというもの。また文献によっては死に際ではなく、生きながらにして迎えが現れるといった事例も見られる」。

「百怪図巻」については、

「百怪図巻」で「火車」と題された絵(本 note 投稿のタイトル上の絵)に描かれているのは、元々は「火の車」と呼ばれていた妖怪で、ややこしいが、それとは別に「火車」という名の妖怪(猫の妖怪)が存在する。

「火の車」 とは 〜 その 2

ウィキペディアに説明があるが、家計とか経済状況などの苦しさ、経済的な困窮に関して、それを「火の車」と表現するのは、前章で取り上げた日本の妖怪「火の車」または「火車」からの転用。「火の車」に乗せられた人間が苦痛を味わうことや、苦に満ちた世界(娑婆)を仏教用語の「火宅」(火事、火災に遭った家という意味)と関連づけたことが由来とされているとのこと。

因みに「火宅の人」は、檀一雄の遺作の長編小説。こちらでの(ウィキペディア「火宅の人」)説明によれば 〜 「火宅」とは、仏教説話(正確には「法華経 譬喩品」より)の用語で、「燃え盛る家のように危うさと苦悩に包まれつつも、少しも気づかずに遊びにのめりこんでいる状態」。

拙者、小説の方は読んでないが(もともとあんまり小説読まない人間)、あれはテレビドラマ化も映画化もされていて、1986年公開の緒形拳主演映画は観てないものの、1979年夏から秋にかけて放送された三國連太郎主演のテレビドラマは観た記憶がある。1979年となると大学に入学した年、19歳になる1年の時のことになるが、貧乏学生の筆者、部屋にテレビなど置いてなかった。一体どこでどうやって観たのかな。思い出せない。それとも何年か後に再放送版でも観たのかもしれない。そういや学生時代、その後の海外「放浪」もどき旅の資金作りのためにバイトしていた居酒屋で、飲みに来ていた女の子(と言っても同じ歳くらいだったと思うが)に、「山本さん、三國連太郎に似てるね」と言われてた時代があった。二十歳そこそこの学生が一体どうして当時既に「還暦」目前で且つ渋い渋い三國連太郎に似ているなどと思われたのか、あれは本当に謎だ。要するにただ単におっさんくさい風貌だったからかもしれないが、そんな自分も昨年ついに還暦を迎えてしまった、ああ、またもやの「脱線」話。

さて、以下のはちょっとシンプルだが(笑)、これが妖怪の方ではなく、俗に言う方の「火の車」。

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37年前にカルカッタで見た(はずの) 「火の車」 のような乞食 〜 そして 藤原新也著 「全東洋街道」

カルカッタは現在はコルカタ。ここでいう「火の車」については、冒頭の章, 「火の車」 とは 〜 その 1, で書いたように、直接的にイコールではないが、とりあえず前章で説明したうちの「火車」(猫の妖怪)は忘れてもらって、一方で江戸時代の絵巻物「百怪図巻」では「火車」と題されているが(本 note 投稿タイトル上の絵)元々「火の車」と呼ばれていた方の妖怪、その「火の車」を頭の片隅に入れつつ ... にしてもややこしいなあ、その意味でも妖怪、恐るべし!

さて、2日前の note 投稿テキストに書いた、カルカッタでの「強烈な思い出」の中の乞食のことなんだけれども、とりあえずそこで書いたことを、このリンクの下にそのまま転載する(リンクの下の5段落分)。

カルカッタでは強烈な思い出があって、その思い出とは、街を歩いていた時に、身体不自由な人(この文脈において性別はさしたる意味がないとも言えるが男性だった)が自分のその身体をぐるぐる回転させ、同時に、美しい歌声で歌を歌いながら、道端を前へ前へと進んでいた、それを有無を言わさず(まさに!)見せつけられて、圧倒されたこと。

文字通り「凄まじく」圧倒されたこともあって、且つそもそも肢体不自由なその身体をぐるぐる前回り回転させて前方に進んでいたので、不自由は間違いないのだが、何処がどう不自由なのか正確に分からないくらいだった(少なくとも手足があらぬ方向に曲がっていたと思う)。

乞食(この漢字で書くとこれはもともとは仏教用語なのだが、まぁ彼はたぶんヒンドゥー教徒だっただろうなと思う、バラモン教のカースト的にどうだったか知る由も無いが)だったのだが、とにかく、圧倒された。

それはインドでの忘れられない思い出の一つでもあるのだが、超絶久しぶりにカルカッタ滞在時の旅日記を捲っていたら、何となんとナンと(インドのパン、ナンは美味い!)そのことが書いてなくて、これはこれで、驚いた。

間違いなくこの眼で見たのだが、はて、カルカッタでなく、インドの他の街だったのかどうか。当時の日記を捲ると、後になって遡った前の方の時期のことをあらためて書いていることがわりとあるので、もしかしたらタイや韓国で書いた日記の中に、それについて何か書いてある箇所があるかもしれないのだが。

............. (2日前の投稿からの転載はここまで)

で、その、見るもの(拙者)の目を圧倒したその乞食、これは一昨日うっかりして思い出せなくて書かなかったんだけれども、それはまるで「火の車」がぐるぐる回ってこちらに迫ってくるような、本当に実際に「燃えている」ように見える肢体不自由・前方回転・歌唄いの乞食だったのだ。

これはもちろん冗談でなく、そして今日のこの note 投稿のためにライターで火をつけたかのように、じゃなかった、とってつけたように付け足したのではなく、過去に筆者、つまり拙者が1984年1月にカルカッタで見た(見たと思っていた、そのココロはこの後に記す)乞食のことは何度か知人・友人に話したことがあって、そのほぼ全て、ほぼその都度、その手も足もあらぬ方向に曲がっていて身体不自由な乞食は、まるで炎を出しながら、つまり燃えながら、あたかも「火の車」のようなさまで、身体を折り曲げながら、歌いながら、ぐるぐると自身の身体を回転させながら前へ前へと進んでいた、そんなふうに説明してきていたのだ。

ところが、そのカルカッタの街路を普通に歩く周囲の人間たちにそれだけの衝撃的な「見せ方」をしていたその「乞食」のことが、一昨日の note 投稿の中に書いたように(上に転載した部分)、当時のカルカッタ滞在中の自分の日記に書かれていない。それをまさに一昨日知ることになって、拙者たる筆者は心底驚いたわけで。

上に引いたカルカッタ滞在時に関わる note 投稿テキストの該当箇所に書いたように、筆者(筆者なのか拙者なのか落ち着かない、笑)がその「火の車」のような乞食を見たのは実はカルカッタでなく、インドの他の街、例えばデリーとかだったのか?

これまで note に何回かインド旅行中のことを書いてきたが、その都度、該当する時期の当時の日記をあらためて全文精読し直したわけではないし(カルカッタ部分だけは上記の経緯で一字一句もれなく読んだが)、また、たまたまに過ぎないが、デリー滞在中のことはこれまでのところ note 上で何も書いていない。だから、その「火の車」乞食は実際にはカルカッタ以外の他のインドの街で目撃していたのに、それをどういうわけか勘違いしてしまっていたのだ、という可能性はゼロとは言えない。

ただ、自分としてはカルカッタとあの「火の車」乞食のことが強烈に結びついていて、カルカッタのはずなんだがなぁ、という想いは現時点でも強い。

これも上に転載した一昨日の note 投稿からの該当部分に書いてあることだが、当時の旅日記を捲ると後になって遡った前の方の時期のことをあらためて書いていることがわりとあるということを、この間 note や Facebook への投稿のために日記を引っ張り出してきて読んでいて気づいたので、もしかしたら、カルカッタを発った後のタイあるいは韓国の旅の間に毎日書いていた日記の中に、「カルカッタ思い出しメモ」的にカルカッタの「火の車」乞食について書いた箇所があったりするのかもしれない。

と、そこまで繰り返し考えた後で、実はもう一つの可能性が頭に浮かんできた。

それはつまり、藤原新也の「全東洋街道」。あの 1983年から 1984年にかけてのバックパッカー海外「放浪」もどきの旅の前後、拙者は藤原新也のかなりの数の著作を読んでいて、以下の写真の中に写り込んでいる(つまり藤原新也以外の人間の本も写っているから)のはその一部なんだけれども、

全東洋街道

ところで余談、というか、またまた「脱線」話題になるけれども、何故こんな写真があるのかというと、4年前、いや年が代わったから 5年前というべきか、2016年の夏(8月26日, 備忘録!)、故あって(どんな故、ワケなのかはまたいつか note に書く機会があるかもしれないけれども)自宅の2階の狭い廊下の端っこにある小さな書棚に置いていた本、その全てではないけれども、その多くをざっくりと書棚の横にある寝室にばら撒いて写真を撮ったことがあって、その時、全体から部分部分まで、何枚も何枚も繰り返し撮っていて、上に載せた写真はその時の一枚。

アホらしく見えるだろうけれども(はっはっは)、その「ほぼ」全体像はこんな感じ(これもその時に撮影した写真のうちの一枚)。

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えーい、ついでだ(笑)、その時、結果的に(一時的だけど)書棚に残ったのは ... 2016年8月26日当時、2階廊下書棚(というわけで小さい!)に置いていた本のうち気になった本を直ぐ横の寝室に引っ張り出したところ(上記)、結果、書棚にこれだけ残った(以下)。小さな書棚とはいえ 2列にして置いていたりしたので、合計すればそこそこの冊数ではあったが、すまんです、こちらの本殿。また別の日の気分だったら、君(?)らも寝室に何時間か寝転がれたのかもしれない。

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さてさて、

とんだ(飛んだ ... 飛びます、飛びます、坂上二郎)「脱線」話だったけれども、藤原新也「全東洋街道」の写真があるはずだと思って探したら、あれが出てきて、見ていたら説明したくなってしまった(にもかかわらず、2016年の夏の終わり頃、なぜ本をばら撒いてみる気分になったのか、それを書いてない!)。

で、話を戻すと、今日、上に書いてきた経緯でもってふと頭に浮かんで気になって、いま、今は2階廊下の書棚ではなくて、1階居間にある小さな、小さな、とてもとても小さな本棚の方に置いてある、その「全東洋街道」2冊のうちの(上)編を捲ると、さらに中表紙を捲った見開き2頁の大きな文字サイズの文章、その左側の頁の冒頭に、次の一文を見つけた。

雨期の街、カルカッタを流離う(さすらう)鬼火を追う。

これは! 直ぐにそう思った。これは「火の車」ではないのか。ますます気になって、次の見開き頁(タイ〜ギリシャ間の地図が掲載されている)を捲り、その後の目次に目を落とすと、「第六章 東洋のジャズが聴こえる カルカッタ」。

そうだ、ここにヒントがあるのではないかと悟った。

で、その第六章(252頁から)の中の「流離う鬼火」について書かれている部分、第六章の最後、そして「全東洋街道」(上)編の最後にもなる「火の航跡」という見出しがある文章を、三十数年ぶりに読んでみた。

面白かった。書いてあることが面白いということは最初から分かっていたことだが、拙者(筆者)がカルカッタで見たはずと思っている「火の車」乞食と、藤原新也がここで書いている「鬼火」乞食は、同じではない。だが、何処か似ている。

見るものを圧倒するという意味合いを含めて似ているのだが、しかしこの「鬼火」は、火のように見える、ではなくて、本物の火だった。「全東洋街道」のカルカッタの乞食は、本当に「火」を咥えているのだ。

藤原新也は、こう締め括っている(該当する6頁分の 5枚の写真を下に掲載)。

ふとその時、私にはそれらの街の灯のすべてが、あの男の噛む生営の業火(ごうか)のようにメラメラと燃えているように見えた。

業火とは、これは「乞食」同様に元は仏教用語で、その本来の意味は「罪人を焼く地獄の火」。

さて、ここで今日のこの note 投稿の冒頭の章に拙者(筆者)が書いたこと(その部分、ウィキからの転載だけど、笑)に一瞬だけ戻ると、「火の車」とは日本の妖怪の名前であって、「悪事を犯した人間が死を迎えるとき、牛頭馬頭などの地獄の獄卒が、燃えたぎる炎に包まれた車を引いて迎えに現れるというもの」。

どうやら「火の車」は、藤原新也が「全東洋街道」(上)編の最後の一文に書いた言葉「業火」に通ずるものがあるようだ。

ま、たまたまではあるんだろうけれども。

拙者がむかし買って今も持っている「全東洋街道」(上)編、その巻末を見ると、昭和57年11月25日第1刷、昭和57年12月25日第2刷、と書かれていて、昭和57年と言えば 1982年、筆者が日本を発ったのは 1983年4月26日だから、やはり旅に出る前に買って読んでいたんだと思う。

と、ここまであらためて意識したところで、その後、1983年12月なのか、あるいは 1984年1月なのか、筆者がインド(おそらくはカルカッタ、もしくはインドのその他の街)で見たはずの、見る者(拙者、筆者)を圧倒する、まるで「火の車」がぐるぐる回ってこちらに迫ってくるような、本当に実際に「燃えている」ように見える、肢体不自由・前方回転・歌唄いの「乞食」は、日本を発つ前のほんの3, 4ヶ月の間に筆者が読んでいた「全東洋街道」(上)編の最後の章「第六章 東洋のジャズが聴こえる カルカッタ」のそのまた最後に登場する「鬼火」「業火」を咥えて前に進む「乞食」から影響を受けて(正確には藤原新也の文章からの影響というべきか)、現実に自分が見たものとその後、自分の頭の中で記憶として留まったものとの間で、何らかの化学反応のようなものを起こしているのかもしれないと感じる。

これはもう、少なくとも今日のこの時点では、厳密には分からない!当時の旅日記をカルカッタ滞在以外のところを含めてひたすら読み続ければ何か分かるだろうか。何か分かったからって、それでどうこうなるものでもないのだろうが。

因みに日本の妖怪「火の車」は、「文献によっては死に際ではなく、生きながらにして迎えが現れるといった事例も見られる」ということだが、筆者、拙者ながら特にその時に「悪事を犯した人間」だったわけでもなく、その後もずっと、既に37年ほど生き続けているわけで、まぁあれが「火の車」だったとして、彼(彼女? 少なくとも記憶にあるあの「乞食」は男だった)は誰を迎えに来ていたのか。当時その通りを歩いていた、地元のインド人の誰か?(笑)。

なお、「全東洋街道」(上)編は、本稿の上記、引用した一文、すなわち下に掲載する「ふとその時、私にはそれらの街の灯のすべてが、あの男の噛む生営の業火(ごうか)のようにメラメラと燃えているように見えた。」で終わる 281頁の後、インドで撮ったと思われる見開き写真2枚の4頁分を挟み、最後の見開き2頁分がもう1枚の藤原新也によるインドの街の一角の写真で、その見開き頁の右側に以下の 6行の文章が(写真の上に)印字されていて、それで終わり。そこから「全東洋街道」(下)編に続くことになる。

やって来る街
・・・・・ 遠ざかる街
街は
人は
そして旅は
二度とりかえしがつかない

以下は、今日午後、夕刻近くに慌ててスマホで撮った写真なのだが、藤原新也「全東洋街道」(上)編の 276, 277頁、次の見開きの写真(278, 279頁に当たる)、280, 281頁、計 5枚の写真。近頃当たり前のように日の入りが遅くなり、日差しが入ったままの居間で撮って、一部ぼやけてるが、まぁ読める。

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火の車, Wheels of Fire 〜 Cream 1968 album

前章の後段で取り上げた藤原新也「全東洋街道」(上)編の第六章は「東洋のジャズが聴こえる」(カルカッタ)だったけれど、これは普通、ジャズとは呼ばない。

1968年のブリティッシュロック・シーンが生んだ、ブルーズとロックを融合させ、且つジャズにも通ずる即興, 即興演奏, improvisation (彼らのライヴはそのもの)のスーパー・バンド、クリーム(Cream: Ginger Baker, Jack Bruce, Eric Clapton, 2021年1月8日の今日現在、存命はクラプトンのみ)の 3枚目のアルバム、当時、日本では「クリームの素晴らしき世界」なんぞという妙ちくりんな邦題が付けられて売られてしまったのだが、原題は "Wheels of Fire",

無理矢理に直訳すれば「火の車」。

Wheel には「車輪、(回転する)輪」(自動車や自転車の車輪)、「(自動車の)ハンドル」、「回転花火」、「回転、輪転、旋回」、それに「(中世の)拷問用車輪」(!)なんて意味まである。

Wheels と複数形にしての意味では他に、「推進力、動力」、「自動車」、「車」。

当時の LP, ダブル・アルバム、1枚目は A面・B面ともスタジオ録音、2枚目は A面・B面ともにライヴ録音。

Side three の "Crossroads" は Robert Johnson が1936年に録音した "Cross Road Blues" を Eric Clapton がアレンジしてライヴで演奏した、ギター弾きを目指す子がどんな理由であれ泣いていたらその「泣く子も黙る」、あの有名なライヴ・ヴァージョン。これが収録されているだけでも、一家に一枚、家宝として持ちましょうの名盤となったのが、このアルバム。 

Wheels of Fire 〜 Cream (Ginger Baker, Jack Bruce, Eric Clapton), their third album, released on August 9, 1968

Side one
1. "White Room" (Jack Bruce, Pete Brown) 4:58
2. "Sitting on Top of the World" (Walter Vinson, Lonnie Chatmon; arr. Chester Burnett) 4:58
3. "Passing the Time" (Ginger Baker, Mike Taylor) 4:31
4. "As You Said" (Bruce, Brown) 4:20
Total length: 18:47

Side two
1. "Pressed Rat and Warthog" (Baker, Taylor) 3:13
2. "Politician" (Bruce, Brown) 4:12
3. "Those Were the Days" (Baker, Taylor) 2:53
4. "Born Under a Bad Sign" (Booker T. Jones, William Bell) 3:09
5. "Deserted Cities of the Heart" (Bruce, Brown) 3:38
Total length: 17:05

Side three (with Live recording date)
1. "Crossroads" (Robert Johnson, arr. Clapton) March 10, 1968 at The Fillmore, San Francisco, CA (1st show) 4:13
2. "Spoonful" (Willie Dixon) March 10, 1968 at The Fillmore, San Francisco, CA (1st show) 16:43
Total length: 20:56

Side four (with Live recording date)
1. "Traintime" (Bruce) March 8, 1968 at Winterland, San Francisco, CA (1st show) 7:01
2. "Toad" (Baker) March 7, 1968 at The Fillmore, San Francisco, CA (2nd show) 16:15
Total length: 23:16

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