知を超えた神秘の真理。秘められた空と祈りの智慧『フワッと、ふらっと、般若心経の心理学』
『フワッと、ふらっと、般若心経の心理学』
本稿は、以下の書籍の内容を要約的に記述したものです。
原始仏教は、
現象及び心を、冷静にまた科学的ともいえる態度で観察し、
現象システムと心のシステムの関係を理詰めで明らかにし、そして、
自身の力で、乗り越えて行こうという提案を行ったものだと思われます。
原始仏教は、フワッとした捉え方ではありますが、
まずこの世の全てが「苦」であることを認め、そのことについて諦め(苦諦)、
ジタバタしない
(いい方変えると「何事にも囚われない」)
という考え方を基本とするものだと思います。
また、苦の原因は、
煩悩であることを認め(集諦)、
したがって、
煩悩(身心を悩まし苦しめ、煩わせ、汚す心の作用)
を消滅させれば、
苦も消える(滅諦)、
そしてその煩悩を消滅させるための道(道諦)が、
八正道であるとします。
なお、八正道とは、
① 正しいものの見方(正見)
② 正しい考え方(正思惟)
③ 正しい言葉を語ること(正語)
④ 正しい行いをすること(正業)
⑤ 正しい生活をすること(正命)
⑥ 正しい努力をすること(正精進)
⑦ 正しい自覚を持つこと(正念)
⑧ 正しい瞑想をすること(正定)
の、8種の徳の実践のことをいいます。
ですが、それが凡夫(平凡な人)には、容易ではないわけです。
たいていの凡夫は乗り越えることができないし、
なので、苦悩が続くということになります。
そこで現われたのが、「空」の思想を根本理論とする大乗仏教群だといってよいものだと思います。
原始仏教では、
現象及び心のシステムを理詰めで明らかにしたわけですが、
日本で最もポピュラーなお経だと思われる、
大乗仏教の経典「般若心経」で
語られる「空」の思想では、
それさえも「空」、「幻想」だといいます。
現象及び心のシステムの
奥の院の、そのまた奥の院は、
理詰めで明らかにして知ることができない「神秘」だとします。
原始仏教では、
この世界は、
基本的な要素(素粒子のようなもの)が、
常に変化しているため、
常なるものは何もない(諸行無常)、
それゆえに、
確かな自己もない(諸法無我)
と考えるのですが(原始仏教ではこれらを空と呼びます)、
ただ、基本的要素の存在と、各要素間に成り立つ法則(因縁等)については否定していません。
ところが「般若心経」の「空」の思想では、
そのような、人智で計り知れるような、
基本的要素の存在と各要素間に成り立つ法則さえも
無いとし、
本当の法則は超越的な神秘であり、
人智では計り知れない、
それが「空」だとしています。
つまり、基本的要素も非実在である、
現代的な表現をすると素粒子も実在しない、
つまりモノは実在しない、モノの実在性は錯覚である
とするのが、般若心経の「空」です。
よって、この「空」という、
世界の秘密の、
奥の院の、奥の院は、
人智ではわかりえない、
いくら法則や基本的要素を人間が研究し追っていっても、
またそこに何か見えたとしても、
その見えるものも「空」、
すなわち、幻のようなものだと考えます。
量子は、
観測するまでは「確率」でしかとらえることができない、
つまりこの世界の奥の院の、奥の院は、
原理的にわかりえないとする、量子力学に似ている考え方だと思います。
(量子力学については以下をご参照ください)
アインシュタインは量子力学を、
「物理的実在の否定(モノの実在性の否定)」とみなし、
「神はサイコロを振らない」と主張しました。
またアインシュタインは、
量子の不思議な振る舞いに関し、
量子は観測するまでは「確率」でしかとらえることができない
と結論付けた量子力学に対して、
「量子力学は局所実在性を満たす隠れた変数を考慮していないため不完全な理論である。」と主張しました。
アインシュタインの批判を受け、ジョン・ベルが1964年に局所実在性を満たす場合に成り立つ「ベルの不等式」を提案しました。
しかし、実験によりベルの不等式(CHSH不等式)の破れが確認され、量子力学に軍配が上がり、現代物理学においては、モノの実在性が否定されるに至っています。
2022年のノーベル物理学賞は、アラン・アスペ氏らによるこの実験に対するものでした。
(詳しくは以下の動画をご参照ください)
ベルの不等式(CHSH不等式)の破れは、モノの実在性を否定する般若心経の「空」の考え方に近い結論ではないかと思われます。
( 対して原始仏教は、局所実在性に根ざすニュートン力学的なのかもしれません。
ニュートン力学はマクロ世界において妥当し、量子力学はミクロ世界においてより妥当するものであって、どちらかが間違いであるというものではありません。
これと同様、原始仏教、大乗仏教もどちらかが間違っているというものではないことでしょう)
また世界の秘密の、奥の院の、奥の院は、人智ではわかりえないという考え方は、量子力学者のデヴィッド・ボームが唱えた、暗在系という考え方にもよく似ていると思われます。
(暗在系については以下をご参照ください)
世界の秘密の、奥の院の、奥の院は、
人智ではわかりえないとする、
大乗仏教経典「般若心経」においては、
ゆえに、神秘もみとめよう、
ゆえに、祈ってみようというスタイルをとります。
祈るばかりではダメでしょうし、またそれだけでは危険でしょうが、努力もしてみて、また祈ってもみようということではないかと思います。
実際、世の中には割り切れないことも多々あって、全てを理詰めで明らかにできないこともあって、諦めて祈ることしかできないこともあることでしょう。
災害等によって、特定の人がなぜ、怖い目に合わなければならないんだ?
何も悪いことはしていないのになぜこんなにもひどい目に合わなければならないんだ?
こんなこと、誰が説明できましょうか?
理屈で割り切れないような現象に直面したとき、
諦めや祈りを否定されたらどうしたらいいのか?
と、いうことにもなることでしょう。
諦めや、祈りなどの神秘を認めることによって、
心に余裕がでてくる場合もあることでしょう。
だから認めようという側面があるのが、般若心経的な考え方ではないかと思います。
このようないかに苦悩から離れられるかという思想が、
古今東西に溢れているということは、
それだけ苦悩に囲まれているのが人生だということなのかもしれません。
ツイているときはいいのですが、
ツイていないときも、どうしてもあるもので、
そういうときは、それ以上もう頑張らずに、
諦めて、祈ってもいいんだよというのが、
優しさというものなのかもしれません。
般若心経は、原始仏教が明らかにした、
現象及び心のシステムさえも空であるとし、
この世界の奥の院は、
理詰めで明らかにして知ることができない「神秘」だとした上で、
最後にだから祈ろうということで、
仏・ 菩薩などの真実の言葉、
祈りの言葉、聖なる呪文である
真言で締めくくっています。
「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」
これが、その真言です。
この大いなる真言は、
うそ偽りなく、一切の苦を鎮める真言であると、
般若心経では述べています。
しかし、なぜ仏教的な世界観が、
21世紀の最先端科学や最先端の現代哲学的世界観に似ているのかということですが、
昔の人は、瞑想等によって、
人間の心と世界の本質を掴みはしたのですが、
ただ、それを論理的に示す、
精密な数学的記述等の技術や実験方法等がまだなかったために、
意味深的な表現にとどめるのしかなかったのかもしれません。
(その代わりに、文字情報で全てを伝えるのではなく、瞑想等の方法論を重視して伝えたのかもしれません)
現代は、理論を表す、表現法が多彩になったため、
そのような方法論によって、
(数学・統計学・物理・化学・心理学・哲学・論理学等の表現方法や実験方法等)
より論理的に、仏教等が伝えたかったことを表現できるようになったのかもしれません。
参考文献)