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空(くう)とは何か?有るのか無いのか?世界は全て「心の投影」?『フワッと、ふらっと、仏教深層心理学』

『フワッと、ふらっと、仏教深層心理学』


1. 「空」とは? 

 大乗仏教深層心理学ともいえる唯識論ゆいしきろんについてみていきたいと思います。

 それを知るために、その前にまずは、大乗仏教の重要論理であるくうについて考えてみたいと思います。

(本稿は、主に以下の書籍の内容を参考にし、その仏教パートを要約的に記述したものです)

 例えば、パソコンの自作を考えてみましょう。

 パソコンを自作する場合、まず、ショップにいって、マザーボードやメモリ、

ハード・ディスク、ケーブル、コンセント、キーボード、ディスプレイなどの部品を買って用意する必要があります。

 この部品ばかりが並んでいる段階で、パソコンがそこに「ある」といえるでしょうか?

 普通に考えれば部品があるだけで、まだパソコンがあるとはいえないことでしょう。(空の状態

 しかし、部品を組み立てると、

パソコンとなり、パソコンはそこに「ある」ということになります。

 そして部品をバラせば、またただの部品に逆戻りということになります。

 結局、パソコンはそこにあるのか? 

 部品を使って、組み立てればあるし、解体すればないということになります。

 つまり、「組み立てる」という因縁によって、

(この場合、『』は、組みたてようとする人間の意志、『』は、各種の部品を指す)

あり」もするし、「ない」ともいえます。

 空は確かに無ではあるのですが、

因縁」によってパソコンという「」を生みだす(空即是色)ことができる

(『色』とは『形あるもの』という感じの理解でよいかと思います)

ということになります。

 さらに、パソコンという「」は、

解体すればまた部品に戻り「」となります(色即是空)。

 無でもなければ有でもない、

無でもあるし、有でもある、

組み立てる・解体するという因縁を介在すれば、

有にでも無にでもなるというのが、

空論であり、

空論においては、

全ての実在するかのごとくに見えるものは、

このようなであるとします。

 よって、全てはであり、

現象を認識する人間の(心)

意識・未那識まなしき阿頼耶識あらやしき顕在意識・無意識・深層心理のようなものと仮にしておきましょう)

以外に実在はないとします。

 このように実在するものは、以外にないにもかかわらず、

実在すると思うがごとくの妄想をするために、

苦悩が生じ、

煩悩が生じるので、この妄想を取り払えば、

静寂を得られるということになります。

 これを机上の論理だけではなく、

体感した上で理解するためには、

瞑想等の修行が必要になる場合もあるということになります。

 必要になる場合もあるということですから、

必要でない場合もあるということになるわけですけれども、

ちなみに修行などしなくても、空を体感し煩悩を除くことができた人のことを「独覚どっかく」といい、

維摩経ゆいまきょうという大乗仏教経典に登場する、

維摩居士ゆいまこじヴィマラキールティ)が「独覚」の見本です。

2. 唯識

 人間の識

意識・未那識・阿頼耶識

以外に実在はないとするものが、

仏教の深層心理学と呼ばれる場合もある、

唯識論ゆいしきろん」です。

 人間の識以外に実在はないということは、

私たちが「実在」と思っている世界が実は「心の投影」であるということになります。

 外の世界は、自分の認識が生み出している幻想であり、

映画『マトリックス』や、

臨場感が極度に高まったVR、メタバースのようなもので、

「世界のすべては自身の心の働きである。」

とするものです。

 現代のシミュレーション仮説などにも似ているかもしれません。

(シミュレーション仮説については以下をご参照ください)

 「すべてが心の働きである」であるならば、自分の心を修正することで現実に対する態度や受け止め方を変えていくことも可能となります。

 以下にその心の変容の方法をみていきます。
 
 前述のようにわかりやすいように、

唯識論でいう「識」の構造を、

現代深層心理学にたとえ、

意識・未那識・阿頼耶識顕在意識・無意識(個人的無意識)・深層心理(集合的無意識)

と仮にしておきます。

(現代深層心理学でいう個人的無意識・集合的無意識については以下をご参照ください)

 ちなみに、上記中、阿頼耶識あらやしきは、肉体が滅した後も残り、輪廻(六道輪廻ろくどうりんね)するとされています。

 しかし、阿頼耶識あらやしきは、種子しゅじ(人間の行為の痕跡)が蓄積する(これを薫習くんじゅうという)ことにより、

薫習は「実生活で得た後天的な心の習性が抑圧され、無意識の中に閉じ込められ蓄積される」とする現代深層心理学に類似する考え方です)

常に変化する(つまり無常)ので、

唯一の実在である阿頼耶識あらやしきもまた無常であり、

常なるものは何も無いということになります。

(その意味で、仏教では永遠不変の魂もないということになります。阿頼耶識もあくまでも種子により、変化するので永遠不変なものは何もないということになるからです)

 ただし、阿頼耶識は、肉体が滅した後も残るものですから、

あらゆるもののうち、

最も「常(不変)」に近いということになります。

 よって、不変に近いものがあるがゆえに、

人はこれを不変であると感じ、これをと思い込むわけですが、

この我に執着する心未那識まなしきといいます。

 阿頼耶識・未那識はともに、

顕在意識の下にある無意識ですが、

阿頼耶識は、この未那識よりもさらに深いところにあるもので、まさに深層心理的な部分ということになるかと思います。

 ですので、諸行無常諸法無我であることを知るには、

深く深層心理にまで降りて行くというような修行(瞑想等)などが必要となります。

(前述のように独覚は別ですが。)

 ちなみに、阿頼耶識に蓄積される種子は、生まれてこのかたのものから、

生まれる前のずっと前のものも全て蓄積されており、もっといえば、

この世界のはじめの原意識的なものまでが蓄積されているとされています。

 阿頼耶識は、ユング心理学でいう「集合的無意識」に非常に似ています。

(異なる点もあるので全く同じものというわけではありません)

 仏教では、お経等によりこれらを知り、修行等によりそれを体感することによって、

輪廻から抜け出す(これを解脱げだつという)ことができるとされています。

 そして、その行く先が、

六道輪廻から離れた涅槃ねはんニルヴァーナ寂静の境地ということになります。

 つまり、もう苦しみ多き六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)には、

二度と帰ってこないということになるわけです。

 DNAには、天地開闢てんちかいびゃく以来の記憶がつまっています。

 ですから、阿頼耶識的といってもよいことでしょう。

 また、生まれた後も、食べる、息をする、活動するという因縁によって、

私たちの身体は数ヵ月後ごとに化学要素的に全てが入れ替わるといわれています。 

 こうしている間も、死ぬ細胞、生まれる細胞があり、一瞬一瞬に死んで生まれているということになります。

 量子(電子や光子等の素粒子)的レベルで見ても、同様ということになります。

 私達には、自己同一性(アイデンティティー)があるのですが、私達を構成している量子にはなぜかそれがありません。

例えば電子同士が衝突し、Aという電子がBという電子にぶつかり、その後離れたとします。

しかし、衝突後、どちらがAだったのかBだったのかわからなくなります。

 また量子は生成消滅しています。

 例えば、電子はマイナスの電荷を持つのですが、プラスの電荷を持つものもあり、これを陽電子といいます。

 電子と陽電子がぶつかるとともに消滅し、光子を発します。

 逆に、真空中に飛んでいるこの光子が突如消滅し、代わりに電子と陽電子が生まれる場合もあります。

 一瞬一瞬に死んで生まれているといえることでしょう。

 心も一瞬一瞬変化しています。

 生まれてからずっと何一つ変わらず、同じ想いのまま生きている人などいないことでしょう。 

 このように、常なるものは何もないということになります。

 論理的には非常にスッキリしているのが唯識論ではないかと思います。

3. 中観派

 仏教理論についてもう少し話を進めてみたいと思います。

 重ねてになりますが、

 パソコンの部品を使って、組み立てれば、パソコンはあるし、解体すればパソコンはないということになります。

 つまり、「組み立てる」という因縁

(この場合、「」は、組みたてようとする人間の意志、「」は、各種の部品)

によって、

パソコンは「あり」もするし、「ない」ともいえます。

 空は確かに無ではあるのですが、

上記例の場合ですと、

「因縁」によってパソコンという「有」を生みだすことができるということになります。

 また、パソコンという「有」は、

解体すれば元の部品に戻り「無」となります。

 上記でいうとは、ものごとに変化をもたらす主要因のことをいいます。

 は、補助要因です。

 そして、これらが相互連関中観派ちゅうがんはというインド大乗仏教・哲学学派の解釈)し、

全ての現象が作られるということになります。

 なお、相互連関、相互依存の例としては、実母と子との関係があります。

 自然的存在としては直線的な因果関係によって、実母があって子が生まれ、その逆はありえません。

 しかし、母子の在り方という見方をすれば、子が生まれたから母となった、子が生まれる前は母ではないとなり、

母は子に依って母となる、子も母に依って子となるというように、母と子は互いに相依る相互連関、相互依存関係となります。

 母子関係だけでなく、世界のすべての物事は、相互連関、相互依存の関係にあり、

そのような明確に切り分けられないはずの世界をこれとあれとに無理やりに切り分け、

物事があるかのように見えるだけであり、独立固定的な確固たる実体のようなものは実はどこにもないということになります。

 世界は明確に切り分けられないと前述しましたが、この点についても母子関係で考えてみたいと思います。

 子は母から生まれることにより子となり、それにより同時に母なるものも生まれることになるわけですが、ではいつ母子となるのでしょうか?

 これも明確にすることができません。

 明確にすることができないので、法律上も刑法では胎児の身体が母体から一部露出したときに人すなわち子となるとし、

(これを一部露出説といいます。一部でも露出すると、犯罪に巻き込まれる可能性があるからです)

民法では胎児の身体が母体から全部露出したときに胎児は人すなわち子となるとしています。

(これを全部露出説といいます。民法は私人間の財産関係、身分関係に関するルールですので、刑事面につき考える必要がないためこのような考え方になっていると解されます)

 母子関係がいつからはじまるのか法律上見解が分かれるということは、

母子関係はそもそも明確に切り分けられないものであり、

しかし人がそれを無理やりに切り分けている、つまりフィクションであるという一例を示すものです。

 もしパソコンに心があれば、

「自分は独立固定的な存在である」

と思っているかもしれないのですが、

実はそうではなく、

因縁に因っているわけですから、独立して何かができる存在ではないということになります。

 あるときは、パソコンになっている状態、あるときはバラバラな部品の状態、あるいは未完成品的な状態にすぎない、

もともと独自固有・固定性のない「無我」「無自」「無常」であるということです。

 そうであるのに、「自分は独立固定的な存在である」とパソコンが思って妄想し、

そこに執着すると、その執着は誤りであるということになります。

 そもそも当のパソコンは、

独立固定的な存在ではないわけですから、

執着すべき原因(独自固有・固定性)がもともとありません。

 えてして、

独自固有・固定性(それはもともとはないですが)に執着するとそれが種子となり、

阿頼耶識に蓄積され、

(認識が真理からずれるので苦しむということになります。真実と実際が違う、あるいは希望と現実が違うと悩みを生みますが、それがここでいう苦にあたります)

という結果を生むわけですが、

本来、独自固有・固定性はなく、

よって執着するものもなく、

したがって本来は苦もないということになるわけです。

 擬人化されたパソコンがもし、

独自固有・固定性に執着し苦しんでいるとしたらならば、

(ずっと今の新品パソコンのままでいたいとか錆びたくないとか、古くなりたくないとかで悩んでいる)

「自分は単に因縁により、あるときはパソコン、

あるときは、バラバラの部品、

あるときは、未完成品状態にあるだけの、

無常・無自・無我である。」

と心底気付き、

それを体感できれば、

悩む必要性もそもそもないということになります。

 このような、緻密な空論論理に比べ、

原始仏教はもう少し素朴だったのですが、

諸行無常等をより精緻に説明するために、

原始仏教よりも後世の人達

(とりわけ龍樹りゅうじゅナーガールジュナ))

が、深い瞑想をしたうえで心の動きをとらえ、

それを体系化・理論化して記述したのが、空観空論)です。

 空観をまとめあげたものが、

龍樹著の『中論ちゅうろんで、

龍樹を祖とする一派を中観派ちゅうがんはといいます。

 中観派は、大乗仏教の教理を知的追求した一派で、

学究者でもあったといえましょう。

 ですので空論は、哲学的・学問的といってもよく、

その上、より深く体感するためには、

瞑想等の修行も必要になってくるため、

一層、庶民には理解困難となります。

 とりわけ仏教が日本に伝来した当時には詳細な翻訳書などもなく、

全てテキストは漢語で書かれていたわけですから、

文字の読み書きができなかった庶民が多かったと思われる当時、

仏教論理を理解していたのは、僧侶や貴族等の一部の知識人だけということになります。

(ちなみに、当時の僧は国家公務員だった)

 庶民に仏教が浸透するのは、伝来から相当後の庶民にも理解しやすい鎌倉仏教等が登場してからということになります。

参考文献)





 



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