◆読書日記.《大谷弘『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』》
<2025年1月20日>
<年頭のごあいさつ>
※冒頭は直接本書の内容に触れておりません。本アカウント自体に興味を持っている方以外の、本書の内容に早く触れたいと思っておられる方は読み飛ばし、次節からお読み下さい。
ってことで皆さま、あっけまして、おめでとーーーーーーーーーーーーーーーーございまーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっす!!!!!!!!!!!
年末年始にお酒を飲みすぎてぐだぐだとしていたら、年始の挨拶がこんな時期になっちゃいました♪
で、ぼくの本アカウントの「前回までのあらすじ」ですが、2024年の年間のメインテーマはウィトゲンシュタイン思想の研究でした。
それで昨年はガッツリ『論理哲学論考』を精読して前期思想だけで良いかと満足していたのですが、いろいろな解説書を読み、さらに後期思想の主著『哲学探究』の良さげな訳書までめっけてしまったので、こちらも読みたくなってしまったという次第。
せっかくねっちりと時間をかけて『論理哲学論考』なんていう難解な哲学書を読んだのですから、ここで後期思想だけお預けして終わるというのも何だか勿体ないという貧乏根性が出てしまい、仕方ないので『哲学探究』の読了までを、ぼくの「ウィトゲンシュタイン研究」の最終目標と言う事にしました。
ただ、さすがにこの分厚くてワケのワカラン哲学書を年末に読み切れるわけもなく、これは2025年の前半までに終わらせようと考えています。
ぼくはウィトゲンシュタイン以外にも読みたい本や研究したい哲学者など腐るほどいるのですが、『哲学探究』の後はとりあえずぼくの中のテーマとして「民主主義思想の古典を読む」というのを考えています。
というのも、最近ロック『市民政府論』、ルソー『社会契約論』、ミル『自由論』等と、それらの解説書が古本屋でお安く手に入ったので、この機会にこちらをまとめて読んでみたくなってきたわけです。
ぼくは以前、何気なく読んだハロルド・ジョセフ・ラスキ『近代国家における自由』に非常に感銘を受けまして、「やっぱり古典で示されたもともとの考え方を知るっていうのは重要なんだな」と認識しまして、それでいつか、これらの古典を読む事で「絶対王政だった時代から民主主義思想が育まれてきた過程の思想を追ってみよう」と考えていたわけです。
もちろん、これらの古典的な思想書の「概要」は知っています。
が、重要なのは学校で習った受験用の「概要」によってその思想を理解したと思い込む事ではなく、その「思考プロセス」を理解する事ではないかと思ったわけです。
昨今の日本では「民主主義」という考え方を理解していない言説が多く見られるので、ここでいったん、原点まで戻って「民主主義とは何か?」と言う事を考えてみようかと。
そして、その後は何故かぼちぼち色んな著作がぼくの手元に集まってきているロシアの思想家トロツキーについて勉強してみたいと思っています。
以前から思っていたのですが、ぼくは「共産主義」についてはマルクスの著作くらいしか読んだ事がないので、ここでもう少し詳しくなっておくべきかな、と考えたわけです。
特にぼくが以前から疑問に思っていた事は「スターリンとトロツキーは同じ共産主義でもどう違っていたのか?どう違っていたからああも敵対する程にまで至ったのか?」という点でした。
更に「それではトロツキズムがソ連の主流思想になっていたら、スターリニズムよりもいくらかマシになっていたのか?それでも駄目だったというのなら、具体的に共産主義のどういった部分が問題だったのか?」といった事も知りたい部分でした。
今年中にそこまで勉強できるかどうかは分かりませんが(思想哲学以外にもいろいろ読みますので……)とりあえず、思想・哲学方面の今年の方針はそんな感じで考えております。
ってことで皆さん、今年もどうぞ御贔屓にしていただければ幸いです♪
<本書について>
……と言う事で、やっと本題である。
今年はなるべく早い段階で後期ウィトゲンシュタイン思想の主著『哲学探究』を読んでしまいたい、と思っていたので、手っ取り早く後期思想の概要が知れる本を読んでおこうと思っていたところ、書店でそれらしき本を見かけたのでこれにしようと手に取ったのが本書である。
何しろ本書は第一章から「アウグスチヌス的言語像」から話し始めているので、これはガッツリと『哲学探究』に的を絞った解説書なのだろうと目星をつけたわけである。(※ちなみにウィトゲンシュタイン『哲学探究』で最初に言及されるテーマがアウグスティヌスの言語観なのである)
と言う事で、本書ではウィトゲンシュタインの前期思想である『論理哲学論考』についてはほとんど言及せず、ほぼ後期の主著『哲学探究』からのウィトゲンシュタインの哲学的方法論を解説しているウィトゲンシュタイン入門書である。
著者は東京女子大学の准教授で講談社学術文庫の『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編ケンブリッジ1939年』の翻訳も手がけている。
説明の仕方は肩ひじを張らず、非常に分かり易い平明な文章で書いてある。(さすがに後期ウィトゲンシュタインの原稿のほとんどが対話型の平明な文章で書かれてあるだけに、それを解説するのに難渋な文体は使えなかっただろう)
読みやすく、分かり易く、また章ごとの末尾に「要点のおさらい」として、その章の内容を短くまとめいるという親切作りである。
これは後期ウィトゲンシュタイン思想を勉強し始める第一段階としてはありがたい作り方で、非常に参考になった。
著者によれば「ウィトゲンシュタイン研究は2000年代以降、専門的な研究が進んでいて、そのあたりの成果を押さえた本が書かれるべきであろう(P.246)」との事で、本書は2020年初版の比較的新しく執筆され、著者の言う通り2000年代以降の研究成果も踏まえての後期ウィトゲンシュタイン思想解説となっている。
が、とにかく後期ウィトゲンシュタイン思想はクセモノだ。
ウィトゲンシュタインが全て平明な文体で書いているのにもかかわらず、研究者の間でもその解釈には様々あると言われているほどで、本書はあくまでもその研究成果の幾つかを紹介し、最終的には著者自身の解釈を提示している、といった感じなのである。
結局、本当に後期ウィトゲンシュタインの思想を理解したいと思うならば、読者は最終的にウィトゲンシュタインの著書に直接挑戦せねばならないだろう。でなければ、ウィトゲンシュタインの考え方の、あの一種異様な難しささえ読者は理解できないだろう。
ぼくもウィトゲンシュタインの「後期思想『哲学探究』のための先行研究」と呼ばれる『青色本』を前回読んだ時、その奇妙な難しさに戸惑いを覚えたものである。
専門用語はほぼ使っていない。が、ウィトゲンシュタインはまず「この人はいったい何を問題にしているんだろう?」という所からして分からないような、奇妙な問いばかりを投げかけてくるのだ。そして、それについての最終的な結論らしきものさえ提示しないのである。(※この奇妙さについては、前回の記事で詳しく論じたので、そちらを参照の事)
このウィトゲンシュタインの「奇妙な問い」というのは、『哲学探究』にも継承されている。
その一端は、大谷弘の本書でも「感覚日記」であったり「箱の中のカブトムシ」といったウィトゲンシュタインの不思議な思考実験など、紹介されている。
ぼくの中では、この独特な難解さとどう折り合いをつけるかというのが課題で、そのためには後期ウィトゲンシュタイン思想が、何故そんな奇妙な問いに溢れているのか、そして、何故そのような方法論を採用したのか、という事を是非とも知りたかったわけである。
<後期ウィトゲンシュタインの哲学的方法論について>
とりあえず、本書を読んでウィトゲンシュタインの後期思想のスタイルが、何故ああも奇妙なのかと言う点については、ある程度の納得を得ることができた。
本書を読んでいて思ったのは、後期ウィトゲンシュタイン思想が、哲学を学んできた人ほど難解に思えるのではないかという事であった。
というのも、本書の著者も言っている事だが、ウィトゲンシュタインの後期思想は、通常の西洋哲学が伝統的にやってきたような「理論的な説明を拒否する(P.18))」からである。
別の言い方をすれば、西洋哲学の伝統的な学問の方法と言うのは、古代ギリシアの昔から「具体的なものから普遍的なものへ」「無秩序なものを整理して体系化(秩序化)へ」「表層的なものから本質的なものへ」という志向があった。
様々に発生する具体的な事案から、一般的・普遍的な法則を導き出して理論化しようという学問的な方法は、科学だけでなく哲学の方法論でもあったのだ。
が、どうやらそういった「具体的なものから普遍的なものへ」という考え方を拒否するのが、後期ウィトゲンシュタインの採った方法論だったようだ。
逆に言えば、前期思想『論理哲学論考』が行った事こそが、ウィトゲンシュタインには「過度な普遍化」であった……と思えたのではないか。『哲学探究』は、その反省に基づいての「普遍化の拒否」「理論化の拒否」だったのではないかとも思えるのである。
言語の構造は論理で出来ている……その「論理」の中身をウィトゲンシュタインの前期思想ではラッセルやフレーゲの「命題論理学」の理論で説明した。
しかしながら、我々が日常的に使っている「日常言語」というのは、そういった厳密性に支えられているのではなく、様々な部分で曖昧さに満ちているのが特徴とも言える。統一的な理論に還元できるような厳密な規則によって運用されているわけではないのが、我々が使っている日常言語というものだと言えるだろう。
そして、言語と言うものはそもそも、そういう曖昧な日常言語によって作り上げられてきたものなのである。
ウィトゲンシュタインが後期思想に至ってまず批判しているのは、『論理哲学論考』における、そういった「厳密性原理」の部分なのである。
そして、そういった「厳密性原理」といったような厳密な規則によっては説明しきれないような、様々な種類の「例外的な使い方」に溢れているのが、日常言語であった。
(言語学の考え方で言うなら、古典的言語学が教えるような「文法」はあくまで「規範学」であって「言語の本質」ではない、いま人々の間で話されている「生きている言語」を研究するのが言語学が研究対象とすべきものだ……というソシュールの思想と、この後期ウィトゲンシュタイン思想は近い位置にあるとも思える)
これはある意味、ウィトゲンシュタインの「命題論理学」批判でもありそうだ、と言う風にもぼくには感じられた。
つまり、命題論理学は「AはBである」といった文章を扱うが、こういった「短文」のみを切り出して、その中身の論理を検証するというのは、日常言語におけるリアルな「実践」とはかけはなれた考え方ではないか、という事である。
命題を「AはBである」あるいは「fx」として記号操作的に論理を扱うというのは、数学的なルールを検証するという意味では価値のある事であるが、それを即リアルの生活に当てはめられるわけではない。
何故なら「AはBである」等という言葉が使われる日常シーンでは、この命題が単体で現れるというのはありえない事だからである。
それは、様々な場所であり、様々時間帯であり、様々なシチュエーションであり、その場でその言葉を使う人間たちの具体的な人間関係であり、更にはその言葉が出るまでのコンテクストがあった上で「AはBである」という言葉が配置されるのであり、それらの全てを無視して「この言葉だけ」を検証する事など、もはや「リアルの場で人々が交わしている"生きた言語"」とは乖離していると言えるのではないか。
命題論理の考え方はある種の記号操作として益はあるものの、それを日常言語における「実践」を無視して、言葉の一部を切り抜いてきてそれのみで「論理的である/論理的ではない」という判断をするようであるならば、それは「言語の本質」を外しているのではないのか。
ぼくが思うに、ウィトゲンシュタインの後期思想というのは、しばしばそういった「基本的な法則を過度に重視する事」に対する警戒心が見えるのである。
例えば、本書によればウィトゲンシュタインは「科学主義」を批判したそうだが、それは現代科学の成果を否定しているのではなく、何にでも現代科学の基準を押しつけ「科学的だから」という言を金科玉条にする教条主義的な考え方を否定していたのである。
これはカール・ポパーが主張していたように「科学の成果というのは、あくまで暫定的なドグマでしかない」という事を良くわきまえる事だ、というスタンスと同じ事である。
ある種の科学的法則があれば、それが全てのシーンに当て嵌まるわけではない。
「基本的法則」には当て嵌まらない例外事例というものは、数えればきりがないほど存在する。
「基本的法則」を信じすぎて、何でもかんでもその基準を当てはめてしまうのは、単なる教条主義に陥っている硬直した考え方でしかない。そうではなく、個々の事例を抜かりなく見る事だ、という事である。
後期ウィトゲンシュタインの方法論と言うのは、そういう「個々の事例を抜かりなく見る事」なのである。
これを著者の表現を借りて換言するならば、他者の不可解な実践を前にしたとき、その人々を理解するためにその実践のデティールをよく「見る」よう努める事だと言える。
だから、普通の思想家のように様々な事例から理論や一般法則を導き出すという方法を採らず、ウィトゲンシュタインは「個々の事例」や「個々の人々の実践の場」を例に挙げて、そこを執拗に分析するのである。だから、「理論的な説明を拒否する(本書P.18))」。
そして「個々の実践をよく見る事」で重要なのは、日常言語の曖昧さの解消としての「明確化」なのである。
本書の著者が後期ウィトゲンシュタインの哲学的方法の特徴として上げたのが、この「明確化」であったと言えるだろう。
<「明確化」の具体例について>
この「明確化」という方法については色々とあるようなので、それについて詳しくは本書やウィトゲンシュタインの後期思想を書いた本に直接あたってほしいが、本稿では最後に、この「明確化」について本書から一例だけエピソードを紹介して締めくくろうと思う。
1939年の事である。
ウィトゲンシュタインがある時、彼の学生であったノーマン・マルコムと歩きながら話をしていた時、その年の11月8日にドイツのミュンヘンでヒトラー暗殺未遂事件が発生した事について話題になったという。
その時ナチス政権は、この暗殺未遂事件についてイギリス政府の煽動があったとして非難したそうである。
マルコムはこの事について「イギリス人は文明人だから、イギリス政府がそんなことをするはずはないとして、そのようなことをするのはイギリス人の国民性に反する」といった事を述べた。
そんなマルコムの意見を聞いたウィトゲンシュタインは激怒し、そんな事を言うのは自分から何も学んでいないからだと激しい口調で非難したという。
この事をウィトゲンシュタインは長く気にしていたそうで、その五年後、マルコムに宛てて次のような手紙を書いている。
――これは、ぼくが珍しくウィトゲンシュタインの言葉に大きく頷いた部分だった(笑)。
ウィトゲンシュタインの「明確化」という事に絡めて言うならば、例えばこの中でも「危険なフレーズ」という言葉は、非常に示唆的だと思う。
この手の「危険なフレーズ」というのは、非常に感染性が強いものだと思う。
以前、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』の中でも紹介したが、人は一般庶民が広く見て参考にしている「権威」的な意見をそのまま自分の中に受け入れて、それを「自分の意見」だと思い込んで主張する事がしばしばある。
例えば上のマルコムのエピソードに出てきた「イギリス人の国民性」というのは、我々日本人の間でも「われわれ日本人の国民性」といった形でよく話題になるし、それを想像するのもさして難しい事ではないのではないだろうか。
しかし、改めて考えてこの「国民性」とは、一体何なのだろうか?
我々はこの「国民性」について、いったいどうやって調べて、どうやってその全体像を知り、それが正しいか正しくないのか判断しているのか。
「国民性」の意味を調べてみれば、「コトバンク」などには「ある国民に共通してみられる気質や性格」「国民または一民族の全体が共通して持っている性質、感情。また、その特性」などと書かれてある。――だが、そんな曖昧なものを一体どうやって把握しているのか?
そして、そんな曖昧な基準で、個々人の行動について、何々をするのがイギリス人だ、これこれこういう考え方をするのが日本人なのだ、等と判断する事がはたしてできるのか?
我々はそういった曖昧な概念を、例えば「新聞で読んだ多かれ少なかれ正確な記事」を無意識に自分の意見として自分の中に受け入れて、それを「自分の意見」だと思い込んで話題や議論に使ってしまっているとは言えないだろうか。
人間はこのように、しばしば無意識に「権威的な言説」を自分の中に取り込んで、それを自分たちでは意識せずに自分の意見として「権威の言葉を繰り返すスピーカー」となってしまう性質と言うのを持っている。
これをフロムは人間にありがちな「にせの思考」として説明しているわけだが、上のエピソードでマルコムもこの手の「にせの思考」に陥っているし、ウィトゲンシュタインが「稚拙」と批判したのも、そういった思考についてであっただろう。
「国民性」などという検証不可能な、不明瞭な考え方を自分のコミットメント(本書で言う所の「その人の感情や行為のガイドとなるような考えの事」)として主張する事が、いかに稚拙であるか、という事である。
昨今のSNSなどでも「保守」を自称するやからが、日本人の「国民性」をあげて外国人を非難しているのを見る事がしばしばある。
だが、他人を批判する際に、そんな「国民性」などという、誰が調べて誰が言い出して、誰がその正当性を確かめたのかも分からないような怪しい「危険なフレーズ」を根拠にする事からして、そもそもそういったやからは間違っているのである。
ウィトゲンシュタインが日常言語の様々な具体的な「実践」の場に注目し、それを「よく見る事」を自らの方法論とした事にぼくが納得したのも、その「いささかエキセントリックな性格をしていたものの、彼のその思想には本質的に素朴な良心があった」という事を、本書を読んで理解したからでもあった。