ジョン・ヒューストン監督 『マルタの鷹』 : 「非情」とは、こういうことさ。
映画評:ジョン・ヒューストン監督『マルタの鷹』(1941年・アメリカ映画)
本作も、本来なら見ない作品なのだが、ジャン=リュック・ゴダールを理解するための基礎教養として「勉強のために見た」と言っても、まったく過言ではない。
私はもともと「ミステリー小説=ミステリ」のマニア的な読者だったから、「ミステリ」のサブ・ジャンルの作品は、好き嫌いは別にして、ひととおりは読んでいたので、『マルタの鷹』の同名原作小説そのものは読んでいなくても、どういう作品かは、大筋で知っていた。少なくとも、本作を見ただけの、映画ファンなんかよりは、よほど本質的なところで理解している、という自負さえある。
「ミステリ」という小説ジャンルを、その下位のサブジャンルに大別すると、「本格ミステリ」「ハードボイルド」「冒険小説」ということになる。
無論、これは便宜的な分類であって、それぞれの要素が合わさったものや、中間的な作品もたくさんあるのだが、原型的な形式を取り出せば、だいたいこの3つに分けることができる、ということだ。
例えば、ここに「スパイ小説(エスピオナージュ)」を加えても間違いだとは言えないけれど、結局のところ「スパイ小説」というのは、「主人公がスパイである」とか「主人公がスパイ行為を行う」というだけのことであって、作品の構造としては、「冒険小説」の構えの上に、「本格ミステリ」や「ハードボイルド」の要素が組み込まれた作品だと言っても良い。
「スパイ小説」が流行ったのは、世界が「自由主義(経済)陣営」と「社会主義陣営」の二派に分かれて勢力争いをしていた「冷戦」時代であり、そうした世界構造がソ連の崩壊によって終焉すると、途端に「スパイ小説」の作品数が激減した事実からも、それは明らかだ。つまり、「スパイ小説」とは、本質的な形式ではなく、所詮は「フレーバー」にすぎなかったのである。
したがって、「ミステリ」の原型的なサブジャンルは、「本格ミステリ」「ハードボイルド」「冒険小説」の3つだと、そう言っても良いのである。
そして、この3つのサブジャンルが、どのような「原理」を代表しているのかというと、「本格ミステリ」は「知性」、「ハードボイルド」は「スタイリッシュさ」、「冒険小説」は「活劇的興奮」だと言えるだろう。
言うなれば、「本格ミステリ」は「論理の美学」、「ハードボイルド」は「(主に、男の)カッコよさ」、「冒険小説」は「活劇的なハラハラドキドキ」が売りなのだ。
そして私自身は、完全に「本格ミステリ」のファンなのだが、それでも「ミステリ」というジャンルをひとわたり理解しようとして、「ハードボイルド」や「冒険小説」の代表的な「傑作」にも触れてみたのだけれど、やはり「面白いとは感じなかった」のである。
結局のところ、私にとっては、「ハードボイルド」は、「カッコつけ過ぎのキザ小説」だし、「冒険小説」は「こういうのなら映画で見た方がいい」としか思えず、文字で書かれた活劇の世界を面白いとは思えなかったのだ。
さて、では本作『マルタの鷹』がどういう作品なのかというと、「ハードボイルド小説」を代表する、その始祖的な作家ダシール・ハメットの代表作のひとつであり、ハードボイルド小説における「私立探偵」の典型となった、主人公サム・スペードの登場する作品である。
つまり「ハードボイルドの中のハードボイルド」。
のちに、「ハメット的な非情の美学」を超える私立探偵像を創造したとして、ハメット以上の人気と評価を博するようになったレイモンド・チャンドラーの、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とするハードボイルド小説なども登場したが、チャンドラーがハメットのハードボイルドに何を付け加ええたのかと言えば、私の見るところ、それは所詮「男の感傷」でしかない。
つまり、ハメットは「感情を覗かせない非情な男」を描いたのに対し、チャンドラーのマーロウは「非情そうに見えても、いつも甘い自分語りがある」のだ。その甘い部分が「男性の内面的なロマンティシズム」を刺激したために、ハメット以上の人気を博したのではないかというのが、「本格ミステリ」ファンである私の「分析」である。
で、結論としては、「感情を抑えて非情を装う」ハメット式であれ、ハメットよりは「ウェットで(男の)感傷的」なチャンドラー式であれ、いずれにしろ、私はそこに「ナルシスティック」なものを感じて、好きになれない。
私は、基本的に「ストイック(禁欲)」的なものが好きなので、「理性に徹する本格ミステリ」という形式においてこそ、それでも出てしまう「人間的なもの」というのならば惹かれもするが、初めから「人間的なもの」を「隠すことで見せびらかす」ような、そんな「男のストリップ」みたいな、ハードボイルド小説というジャンルが好きにはなれなかったのだ。チャンドラー式の「男の感傷」が嫌いなのは無論、ハメットの「一見したところの非情」も、あまり好きにはなれなかったのである。
ただし、チャンドラーは何作か読んだが、ハメットの方は読んだことがない。読む前に「チャンドラー引く(マイナス)感傷」的な「非情の美学」みたいなものだと推察されたので「これ以上無理をして、ハードボイルド小説を読むことはできない」とそう感じて、辞めてしまったのである。
だから、私のハメット理解は、あくまでも「ハードボイルド」ファンや「ハメット」ファンの、ハメットへの肯定的評価を元にした、それに対する「それでも好きにはなれない」「それは好みではない」という評価なのだと思っていただきたい。
ちなみに、ダシール・ハメットの小説は読んでいないが、ハメットその人には好感を持っている。
と言うのも、「ハリウッドにおける赤狩り時代」に、彼もその標的となった人の一人であり、そんな彼のことを、ハメットと30年間にわたる恋愛関係にあった劇作家リリアン・ヘルマンが、その自伝的な作品のひとつ『眠れない時代』で書いているのを読んでいるからだ。
ハメットの描くフィクションの中の「非情な男」には興味のない私も、現実世界において、巨大な権力に抗した男には、惹かれないではいられなかったのである。
ともあれ、そんなわけで、ハメットその人には多少なりとも興味はあるものの、ハメットの「ハードボイルド小説」には興味がなかったから、彼の小説は読んでないし、それを原作にした映画にも興味は無かった。
したがって、これまでは、本作映画版『マルタの鷹』にもまったく興味がなかったのだが、今回、この映画を見ることにしたのは、最初に書いたとおり、本作映画版『マルタの鷹』に代表されるハリウッドの「フィルム・ノワール」に、ジャン=リュック・ゴダールが惹かれていた、という話なので、それでは「参考に見てみるか」と考えたからである。
ゴダール自身は、当たり前の意味でのストーリー性には乏しい、ある意味では「前衛的」と言っても良いような作品を作っているのに、どうしてそんな人が映画版「ハードボイルド」でもある「フィルム・ノワール」なんて、ある意味「通俗的」なものに惹かれるのか、そこが気になったのだ。
つまり私は、「本格ミステリ」マニアらしく、ゴダールという謎についての、論理的な「謎解き」がしたかったのである。
ちなみに「フィルム・ノワール」とは、次のような作品を指したものを言う。
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さて、では肝心の、映画版『マルタの鷹』はどうだったのかというと、だいたい予想したとおりの作品で、「なるほどね」とは思ったけれど、面白いとは、まったく思わなかった。
何が良くないと言って、主人公のサム・スペードが、非情さを装っているのだけれど「本当は情の深い、いい奴」だというのが、容易に見えてしまう点である。
だからこそ、一般的な人気も博し得たのではあろうが、私にすれば、まだまだ「甘い」し、その意味で「ストイックさ」が十分ではない。
サム・スペードの「非情さ」は、言うなれば「嫌よ嫌よも、好きのうち」的なものであり、自分に惚れたらしい悪女を、最後は冷たく突き放すというのも、しかし、本音では自分だって悪くは思っておらず、しかし、ここで折れては「男じゃない(男が廃る)」という心理が働いているというのが、わたし的には「見え見え」なのだ。だから、嫌。
「俺の内心の苦しさを、察してくれ」と言っているも同然だからこそ、かえってそこに嫌悪感すら覚える。そんな中途半端な「非情ぶりっこ」なら、最初からやめちまえと、そう言いたくなるのである。
本作は、おおすじ次のような作品である。
つまり、サム・スペードの探偵事務所へ依頼人として現れる美女ワンダリーが、じつは悪女であり、スペードを利用しようとして近づいてきたのだが、謎を秘めたオブジェ「マルタの鷹」をめぐる悪党同士の奪い合いの中で、彼女はスペードに本気で惚れ込んでしまう。
けれども、この事件に巻き込まれたことで、スペードは探偵事務所の共同経営者であった友人アーチャーを失うので、そのことだけは(男として)絶対に許すことはできない。
最後は、ワンダリーの涙ながらの愛の告白も、自分自身の本音さえも押し殺して、スペードは、ワンダリーを冷たく司直の手に委ねる、というラストなのだ。
で、このラストのスペードの、ワンダリーへの言葉が「おまえさんは、たぶん20年はくらい込むだろう。それでもまだ、俺が好きだというのなら、待っていてやってもいい」という、いかにも「冷たく皮肉な言葉」なのだ。要は、いくら美女でも、20年後には婆さんになっているし、その頃には俺も爺さんになっているが、それでもまだ本気で「惚れた腫れた」を語れるのか?一一という言い方なのである。「おまえの今の気持ちなんて、所詮はそんなもんさ」という言い草であり、同時に、そうした言葉で、スペードは、今の自分の感情さえ、皮肉に笑い飛ばそうとしているのである。
一一だから「かっこいい」と思う「男」も少なくなかったわけだが、私に言わせれば、これは「美女から一方的に惚れられることなど金輪際ない、非モテ男のナルシスティックなファンタジー」としか思えないから、こういうお話は嫌いだし、基本的な部分で「男のナルシシズム」を抱えるハードボイルドというジャンルが嫌いなのだ。
したがってこの映画も、完成度としては「悪くはない」とは思うものの、個人的には「つまらない(興味の持てない)作品」でしかなかったのである。
では、どうしてゴダールは、こんな「マルタの鷹」的なもの(つまり、偽物の「黒」)でしかない「フィルム・ノワール」が好きなのかといえば、それはどうも、普通の意味での「好き」ということではないようなのだ。
普通の「ハードボイルド小説」ファンや「フィルム・ノワール」ファンが、この「非情な世界=乾いた世界」を心底「カッコイイ」と思っているのとは違い、ゴダールはむしろ、そうした作品の、「子供っぽさ」をこそ楽しんでいるようなのだ。言うなれば、少々馬鹿にしながらも、「喜んでいる(楽しんでいる)」という感じなのである。
無論、ゴダール自身は、「ハードボイルド小説」や「フィルム・ノワール」を、表立って、「三文小説」だとか「三文映画」だなどと言いはしない。
どういう理由であれ、つまり「その馬鹿馬鹿しいまでの、わかりやすさが好き」と言ったような理由であれ、「好きは好き」なのだから、「好き」とは言うし、わざわざ憎まれ口を叩いたりはしない。
なにしろゴダールの作品の多くは、とにもかくにも、そうした「三文小説」を原作として作っているからで、たとえ、そうした原作を、原型を止めないほど変形させたような映画しか作らず、原作をそのまま映画化したいと思うような意味での「好き」という気持ちなどカケラも無くとも、ひとまず、映画を作るための「仮枠」としては、それらの「三文小説的な形式」は便利なものなのだから、利用価値のあるそれを、わざわざ「三文小説」だとか「三文映画」だとまでは言わない、ということのようである。
つまり、ゴダールが好きなのは、「ハードボイルド小説」や「フィルム・ノワール」の「中身」や「思想」や「美学」ではなく、その「わかりやすい(パターン化した)ストーリーライン」であり、せいぜいのところ、「フィルム・ノワール」に特徴的な(=癖のある)「映像美」なのではないだろうか。
だから「フィルム・ノワール」が「好き」だというには、まんざら嘘ではないのだが、それは、私たちが一般に思うような「好き」ではないということなのだ。
内容的に「嫌いだ」とか「くだらない」などと、あえて貶すほどのものだとさえ思っていない、ということなのであろう。
ちなみに、最近読んだ、スーザン・ソンタグの評論・エッセイ集『ラディカルな意志のスタイルズ』には、「ゴダール」と題するゴダール論が収録されているのだが、そこで紹介されている、ゴダール自身が語るところの、「ハードボイルド小説」や「フィルム・ノワール」の「美徳」とは、結局のところ「語りの形式性」でしかなく、「中身には興味がない」というのを、ほとんどはっきり語るものとなっている。
ここまで断言されてしまうと、さすがのゴダールも迷惑に思うかもしれないが、ゴダール自身が、
と言ってしまっているのだから、これも仕方がないことだろう。
そんなわけで、ゴダールを理解するために「フィルム・ノワール」の魅力を、そのまま「理解」しようとする必要はない、ようだ。
だがまあ、小説とは違って、映画はたったの2時間ほどで鑑賞できるのだから、まだいくつかの有名作は、教養として鑑賞しておいても損はないと思っている。
一一本当の「非情」とは、こういうものなのだ。(Q.E.D.)
(2024年8月7日)
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