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御園敬介 『ジャンセニスム 生成する異端 近世フランスにおける 宗教と政治』 : 幻想の 〈純粋信仰と 教会絶対権威〉の対決

書評:御園敬介『ジャンセニスム 生成する異端 近世フランスにおける宗教と政治』(慶應義塾大学出版会)

『ジャンセニスム(Jansénisme)は17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想。ヤンセニズム、ヤンセン主義ともいわれる。人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。ネーデルラント出身の神学者コルネリウス・ヤンセン(1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス』の影響によって、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。』(Wikipedia)

「異端」信仰と言うと、キリスト教信者ではない多くの日本人は、なんとなく「淫祠邪教」だの「黒魔術」だのといった禍々しい印象を受けるのではないだろうか。

しかし、そうではない。
「異端」とは、「キリスト教」内部における「正統」から外れた信仰的立場やその集団を指す言葉であり、言い変えれば「教会によって規定された正統教義以外を奉じる者は、すべて異端」であり、さらに言えば「教会が気に入らない教義理解や解釈は、すべて異端」なのである。

だから、非クリスチャンから見れば、「異端」は、外見上は「正統」キリスト教とまったく区別がつかない。悪魔を祀っているとか、変なものを拝んでいるとか、そんなものではなく、ごく真面目に「聖書」に示されたイエス・キリストの教えに従って信仰を行なっている人たちなのである。

だが、「聖書」と言い、そこに示された「教え」や「教義」と言っても、それをどう「理解・解釈」するかは、人それぞれである。
例えば「隣人を愛しなさい」(マタイ福音書)という、だれでも聞いたことくらいはあるだろう有名な教えがあるけれども、この言葉に言う『隣人』とは、具体的には「どの範囲」の「誰」を指しているのか、そこまで詳しくは聖書には書かれていない。また「愛しなさい」と言うけれど、この「愛する」というのは、具体的にはどういう態度のことなのか?

例えば、「愛すればこそ、厳しく対する厳愛」というものもあれば、「相手の弱さや過ちも含めてすべてを受け入れる、寛容としての愛」もある。
つまり、「隣人を愛しなさい」と教えられて、それを真面目に実践しようとした場合、それぞれが「隣人」とは誰のことで、「愛する」とはどのようにすることなのかを、それぞれに「解釈」した上で、その「解釈」を実践することになる。

ところが、ある人は「隣人」を「同じ信仰を持つ仲間(キリスト教徒)」だと解釈し、別の人は「異教徒や異端者も含めて、すべての人」と解釈するかもしれない。その場合、前者は、後者が「異教徒や異端者」までも、同じ「キリスト教信仰を持つ仲間(身内)」と同じように「愛する」という態度を見て、それは「間違っている」と考え、批難するのではないだろうか。また、逆から見れば、「隣人」を「身内」に限定してしまう前者の人たちを、後者の人たちは「キリストの愛がわかっていない、偏狭で心の貧しい人たち」だと批難するのではないだろうか。
これは「愛する」の解釈も同じで、「愛する」が故に「死刑に処すべきだ」と考える人もいれば、「他人を裁いてはいけない」と考える人もいる。当然、両者の意見は多くの場合に対立するだろう。

しかしこうなると、もう「キリスト教(の教義)」には「多様な解釈」があるだけで、「決まった教義はない」ということになってしまう。ある意味では「何でもあり(どうとでも解釈して良い)」ということになってしまって、それではそもそも「キリスト教信仰」というものが成立しないだろう。「何でもあり」では、もはや「宗教・宗派」でも「教え」でも、あり得ないからだ。

ならば、誰かが「解釈」の権利を独占して、「これが正統教義だ(これ以外はすべて間違いであり、異端だ)」と決定しなければならない。では、それは誰がやるのか。
無論「教会」である。

カトリックの場合は、ローマ教会が、その教義理解や解釈を独占して、信者に対して「正統教義」に従うように指導・強制する。
一方、プロテスタントの場合は、「信仰理解を強制する、地上の絶対権威」を否定するので、「解釈」が分かれれば、最後は分裂して分派を作るしかなく、どんどん分裂していくわけだが、しかし、少なくとも、その分派内部では「正統教義」があるからこそ、またその「解釈」を巡って、論争批判が絶えず、新たな分派が生まれていく、ということになる。

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さて、本書で扱われる「ジャンセニスム」も、カトリック教会の内部に発生した「異端」であり、「教義解釈(信仰解釈)」をめぐって争われた、キリスト教信者同士の紛争である。

簡単に言えば「ジャンセニスム」とは、正統なる神学者コルネリウス・ヤンセンによって書かれた「偉大なる教父アウグスティヌスの教え」についての著作で語られた、純粋なアウグスティヌス主義を奉じる人たちだと言えるだろう。
では「純粋なアウグスティヌス主義」とは、どんなものかと言うと、これもごく簡単に言うと「神の力は絶対的であり、不完全な人間の努力は無力である。だからこそ、人間は謙虚に、神に寄り頼むことにすべてを賭けるべきだ」といった考え方だ。言い変えれば「人間が、自分の努力で天国に入れるなどと考えるのは、傲慢である」といった考え方だとも言えるだろう。

なるほど「完全無欠で絶対の神」を信じている「キリスト教」であるならば、この考え方は非常に「原理原則に忠実であり、純粋な信仰理解」だと言えるだろう。しかし、ローマ教会は、これを「異端」だとしたのである。一一なぜか?

それは「人間の努力を否定するもの」となってしまっているからなのである。
これは、現実の信仰生活においても、「教会経営」の観点からも、あきらかに不都合なものであろう。「キリスト教信仰」は、間違いなく「この地上」の「現実」において営まれるものであって、単なる「思想」や「観念」ではない。だから「人間的な努力」を否定するようなことは、現実問題として、この世の信仰を破綻させる「極端な思想(教義解釈)」として否定されなければならない。だから「異端」なのである。

そして、さらに言えば、こういう「現実」否定の「原理主義的信仰」というのは、当時の政治世界を支配していた「王権」にとっても、非常に不都合で危険な存在であった。
もちろんその理由は、純粋な信仰主義とは、「王権の権威」など(少なくとも本音では)何とも思わない類いの思想だったからである。

このようなわけで、フランスにおいて、コルネリウス・ヤンセンの著作『アウグスティヌス』の影響を受けた、主に「ポール・ロワイヤル修道院」を中心にして集ったキリスト教徒たちが、「ジャンセニスト」と呼ばれ(他称され)、「異端」認定されて、その考え方を捨てるようにと、言葉と力による迫害を受けたのである。

したがって、「ジャンセニスト(ヤンセン主義者)」と呼ばれた人たち自身は、自分たちを「正当なるキリスト教徒」だと信じていたし、「異端」呼ばわりは、誹謗中傷以外になにものでもないと固く信じていた。

こうした齟齬において、自分たちの「純粋な信仰」を守ろうとする人たち(ジャンセニスト)と、「教会の教義解釈の決定権という絶対権威」を守ろうとする人たちとの、キリスト教における「信仰解釈」をめぐる、主に論争を中心にした闘争が繰り広げられたのである。

しかしながら、信仰において「純粋主義者」と「バランスのとれた現実主義者」が論争をした場合、どっちが有利かと言えば、それは無論、前者である。
後者は、どうしても「不純」であり「ご都合主義的」な信仰に見えてしまうから、「原理原則のキレイゴト」一本で押してくる前者を論駁することは困難だ。そこで、どうなるかと言えば、最後は後者が「教会の教導権」という印籠を持ち出してきて、「とにかく服従せよ」という強制のかたちになってしまう。そうなると、教会側はどう見ても「権力を振りかざしす悪役」とならざるを得ない。

しかしまた、「純粋」だとか「原理原則」であれば、それでいいのか、それで万事うまくいくのかと言えば、無論そんなことはない。現実は、そんなに簡単な話ではないからこそ「教会」はいつの時代にも「バランス感覚」を問われてきたし、その配慮がなかったなら、あってはならないことだが、神の教えを伝えて人々を救う使命を帯びたキリスト教会が、この地上から消えてしまっていたかもしれないのだ。
だから、話はそう単純な「善悪」には還元できないのである。

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さて、ここで、キリスト教徒の視点から離れて、私本来の「無神論」「無宗教」の立場から、「ジャンセニスム」をめぐる紛争の「根源的問題点」を、身も蓋もなく指摘するなら、ジャンセニストの「純粋信仰」が正しいのか、ローマ教会の「現実的なバランス感覚のある信仰理解」が正しいのか、と言えば、正解は「どっちも間違っている」ということになる。
「どっちも、根本的なところで間違っているから、その中で正解など出るわけがない」のである。

両者には「キリスト教信仰は、絶対的真理である」という点が完全に共有されていたし、それは両者を取り巻く世界も同じであった。
関係者はすべて「キリスト教信仰は、絶対的真理である」という点に疑いを抱くことはなく、それが「正しい土台」であるという認識に立って、「正邪善悪」の議論を戦わせていたのであるが、今の私たち「無神論」「無宗教」者の立場からすれば、そもそも「キリスト教信仰自体が、虚妄なのだから、いずれにしろ、その内部に絶対的な正邪善悪など存在するわけがない」ということになる。
つまり、あえて言うなら、キリスト教信仰は「ぜんぶ間違い」なのだ。だから、その中で、正しいの正しくないのと言っても、それは「立場」に依存する「仮構的なもの」でしかなくなってしまうのである。

本書では、こうした「無神論」「無宗教」の立場や視点といったものは、考慮されていない。
ただ、「当時の当事者たちにとって」、それがどういういう事態だったのかを後づけ、検討に付した研究だと言えるだろう。その点で本書は、専門書(学術書)としての間違いはないものの、「信仰」問題を根源的に考える場合には、スッキリしない点が残るというのも、否めない事実なのである。

初出:2020年10月5日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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