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ローレンス・オリヴィエ 『ハムレット』 : 亡霊・復讐・狂気の ゴシック劇
映画評:ローレンス・オリヴィエ『ハムレット』(1948年・イギリス映画)
ご存知、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の映画化作品である。
一一と言っても、今の若い人は、シェイクスピアには馴染みがないと思う。かなり昔の人だから、徐々に「過去の人」として、影が薄くなるのは致し方のないところだ。
それにしても、あまりにも「過去の人」になりすぎて、日本では、シェイクスピアを研究しようなどという奇特な人がいなくなったものだから、その「隙間」にスルリと入り込んだのが、機を見るに敏な、「武蔵大学の教授」で「映画評論家」である、われらが北村紗衣である。
あんな(『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』のような)、シェイクスピアの作品についてでもなければ、シェイクスピアその人についてでもないような、昔なら相手にされなかったような研究で、「博士号」がもらえ、堂々と「シェイクスピア研究家」を名乗れるようになったのだから、「博士号もお安くなったものだ」と、そう昔のシェイクスピア研究者たちも、草葉の陰で泣いていることだろう。
福田恒存なんかは、きっと、すごくキツいことを、ズバッと言ったはずだ。
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読書が娯楽化して、読書大衆の知的水準が下がったのだから、これも仕方がないのであろう。
おのずと、今の知識人や大学教授は、昔の知識人や大学教授とは、別物なのである。あまり高度な学問だと、そもそも商売にはならないのだ。研究だけでは、食っていけない時代なのである。
まあ、こんなこと、今更なげいても詮無きことだし、北村紗衣教授だって、自分が大好きな映画俳優レオナルド・デカプリオが主演した『ロミオ+ジュリエット』(バズ・ラーマン監督)からシェイクスピアに入ったというのだから、若い人も臆せず、気楽にシェイクスピアに入ってほしい。今なら、シェイクスピア学者にも「なり時」なのかも知れない。
たしか、北村紗衣も「あなたにも書ける、シェイクスピア論文」みたいなことを、書いていたのではなかったかな?(知らんけど)
ともあれ、翻訳書だって、ちょっと前の訳文は、「文学的」に訳されているから、今の人には取っつきにくいだろうけれど、最初は、もっと新しい「口語訳」的なもので読めばいい。それで馴染みができれば、ちょっと前の「文学的な訳文」の味わいも、わかるようになるはずだ。
シェイクスピアも、「活字」で読むのなら文学なのだから、読みやすければ良いというものではないし、「文学」としての「文体」、格調のある文体というものも、ちょっと馴染めば、口語訳などでは味わえない、独自の魅力が感じられるようにもなるはずなのだ。
それに、シェイクスピアが「難しくない」というのは、シェイクスピアが、当たり前の人間の「美しさと醜さ」「高潔とあくなき欲望」といった、時代を超えた「普遍的な感情」を描いているためである。
無論、舞台となった時代特有の「社会階級」や、それゆえの「特有の感情」というものはあるのだけれど、それとて、遠未来の宇宙生物を描いたSF小説のことを思えば、所詮は「同じ人間のお話」。決して「難解」だというわけではなく、単に「慣れていない」だけなのである。
例えば、小学校や中学校や高校などに進学した当初は、知らない人に囲まれた新しい環境の中に置かれて、何が何だかわからず、緊張で「吐きそう」くらいの気持ちになった人もいるだろう。
だが、それだって、1ヶ月もすればたいがいは馴れるのと一緒で、シェイクスピアだって、無理に理解しようとせずに、ただ物語を追っていけば、自然に馴れる程度のものなのである。
一一と、ここまで、知ったかぶりで書いてきたのだが、じつは私、『ハムレット』は読んでいないのだ。
シェイクスピアはいくつか読んでいるのだが、『ハムレット』を読もうと思ったことは、一度もなかった。なんで読もうと思わなかったのかといえば、それはこの作品が、シェイクスピアの代表作として、あまりにも有名すぎて、かえって新鮮味な欠け、今さら読もうという気にはならなかったためである。
今でこそ、日本ではたぶん『ロミオとジュリエット』の方が有名なのだろうが、昔は断然『ハムレット』だった。
なんで『ハムレット』だったのかというと、やっぱり「男性向けのお話」だったからではないかと思う。
フェミニストの北村紗衣ではないが、『ロミオとジュリエット』は、基本的に「若い男女の恋愛悲劇」で、昔でいえば「女・子供向けの作品」と見られたところがあったのではないかと思う。
ところが、『ハムレット』の方は、男っぽく「復讐劇」なのである。
主人公ハムレットの父王を暗殺し、王妃、つまりハムレットの母を妃として娶って、まんまと王座についた、憎むべき叔父に対する復讐譚なのだが、このあたりで、歌舞伎に由来する時代劇の「敵討ち」話に通じるところがあって、日本人男性には馴染みやすかったのではなかったろうか。
また、昔の男性ならきっと、『ロミオとジュリエット』では、恥ずかしいという気持ちがあったのではないかと思う。
昔の男は、「恋愛などには興味はない」なんていう顔をしたがったものなのだ。特に知識階層は。
今の若い人にはわかりにくいことだろうが、儒教的な考え方からすれば、男は「個人的な感情」で動くのはなく、克己的に「国家や家」といった「公のもの」を、大局観を持って理知的に考えるべきだと、そのように考えられていたのである。
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無論これも、一種の「男尊女卑」なのではあるが、しかし、単純にそう言って片づけてしまっては、歴史というものを見間違えてしまう。
単調で「わかりやすい図式」は、たしかに便利ではあろうが、見落とすものも少なくないのだ。
ともあれ、私個人は、文学に親しむようになってからは「今さら『ハムレット』かよ」という気持ちがあった。
私の世代にもなれば、すでに「親の敵討の復讐譚」ということ自体が「古くさい(戦前くさい)」と感じられたからだろう。
いまだ、『ロミオとジュリエット』の映画を、男一人で見に行くのは恥ずかしいという気分は残っているが、『ハムレット』の方は、ただもう「古い」という感じになっていたのだ。
またそのため、文芸評論で採り上げられることのあった、『マクベス』や『リア王』といった作品を読むことになったのだと思う。そのあたりは、そもそもその内容をまったく知らなかったから、教養として読んでおく必要が感じられたのだ。
では、知らないことでは同じなのに、どうして『ハムレット』には興味を持たなかったのかというと、それはすでに書いたように「復讐譚は古臭い」と感じていたのと、主人公の王子ハムレットの「生きるべきか死ぬべきか」というセリフが、テレビコマーシャルなどでしばしば使われたりして、有名なのはもちろん、大仰かつ「陳腐」だと感じられていたからであろう。
例えば、ある商品のコマーシャルで、「買うべきか買わざるべきか、それが問題だ」と悩んでいるお客さんに「買ってください!」なんてツッコミを入れるようなテレビコマショーシャルが、時々あったのだ。こんなものを何度も見せられ聞かされると、さすがに辟易してしまうのである。
ほかにも、ハムレットのセリフとして有名な「尼寺へ行け!」とかもあるのだが、今回は、ローレンス・オリヴィエ主演・監督の映画作品『ハムレット』を見て、初めてまともに、その筋を知ることになった。
だが、本作中には、「生きるべきか死ぬべきか」や「尼寺へ行け」だけではなく、どこかで聞いたことのあるような、名言っぽいセリフや聞き覚えのある人物名がいろいろ出てきて、この作品が、日本の文学にいかに大きな影響を与えていたのかを、今さらながら、痛感させられた。
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例えば、本作に登場する、悲劇のヒロインであるオフェリアだが、当然のことながら、私も、オフェリアの名前は知っていたのだが、それが『ハムレット』の登場人物であることを知らなかった。
私が、オフェリアの名前をはっきりと意識したのは、小栗虫太郎の「オフェリヤ殺し」や、あまりにも有名なジョン・エヴァレット・ミレーによる絵画作品だ。
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ミレーの描いたのは、狂気に陥ったあと、川に落ちて溺死するオフェリアの姿なのだが、それは、当たり前の溺死ではなく、しばらくの間、歌を歌いながら川面を流されていたということになっていて、その様子を、ミレーは異様にリアルに描いており、なんとも不気味でインパクトがあったのだ。ヘタをしたら、『四谷怪談』のお岩さんの「戸板返し」かよと言いたいほどの不気味さなのである。
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そんなわけで、オフェリアについては、そういう、少々「怪奇」味のある(ある意味で楳図かずお的な)「悲劇のヒロイン」といういうイメージだけが強烈にあったのだが、では、オフェリアが何という作品に登場し、どういう経緯で発狂し、またどうして、あの不気味な川流れ状態になってしまったのか、そのあたりの前後関係を、私はまったく知らなかった。
だが、今回、オリヴィエの『ハムレット』で、ミレーの絵がそのまま再現されていることもあったし、初めて全体の構図を知ることにもなった。
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まったく、我がことながら「今頃かよ!」と、激しくツッコミを入れなければならないところである。
さて、そんなわけで、本作の「あらすじ」だが、すでにちょっと書いたように、次のような「親の仇討ち復讐譚」である。
『王が急死する。王の弟クローディアスは王妃と結婚し、後継者としてデンマーク王の座に就く。
「父王の死」と「母の早い再婚」とで憂いに沈む王子ハムレットは、従臣から「亡き王の亡霊が夜な夜なエルシノアの城壁に現れる」という話を聞き、自らも確かめる。父の亡霊に会ったハムレットは、実は父の死は「クローディアスによる毒殺」だったと告げられる。
復讐を誓ったハムレットは狂気を装う。王と王妃はその変貌ぶりに憂慮するが、宰相ポローニアスは、その原因を「娘オフィーリアへの実らぬ恋」ゆえだと察する。父の命令で探りを入れるオフィーリアを、ハムレットは無下に扱う。
やがて、「王が父を暗殺した」という確かな証拠を掴んだハムレットだが、母である王妃と会話しているところを隠れて盗み聞きしていた宰相ポローニアスを、王と誤って刺殺してしまう。
さらに、宰相の娘オフィーリアは度重なる悲しみのあまり狂い、やがて溺死する。宰相ポローニアスの息子レアティーズは、父と妹の仇をとろうと怒りを募らす。
ハムレットの存在に危険を感じた王は、復讐心を持ったレアティーズと結託し、毒剣と毒入りの酒を用意して、ハムレットを剣術試合に招き、秘かに殺そうとする。しかし試合のさなか、王妃が毒入りとは知らずに酒を飲んで死に、ハムレットとレアティーズ両者とも試合中に毒剣で傷を負ってしまう。
死にゆくレアティーズから真相を聞かされたハムレットは、王を殺して復讐を果たした後、事の顛末を語り伝えてくれるよう親友ホレイショーに言い残し、この世を去ってゆく。』
(Wikipedia「ハムレット」)
映画は、以上の原作の「あらすじ」を、ほぼ忠実になぞっている。
と言っても、原作を読んでいない私には、細かいところはわからないから、原作と比べてどうであったかということではなく、ここでは、映画として見た場合に、どう感じたかを書いていきたい。
まず、全体としては、やはり「昔の話だな」という感じで、難しいところは何もなかったものの、エンタメとしては、いささか「かったるい」部分が、無きにしも非ずだった。
もちろん『ハムレット』は、当時(昔)の「エンタメ」なのである。
で、どういうところが「かったるかった」のかというと、父王の亡霊に「私は弟に殺され、妻を奪われ、恨みを呑んで死んだために、天国にも行けないで迷っているから、お前が復讐をしてくれ」と、おおむねそのような願いを聞かされ、その父王の亡霊が「本物」だと確信しているくせに、ハムレットが、なかなか叔父王クローディアスを殺さず、狂気を装って、先王殺害の証拠をつかもうとするあたりの展開である。
つまり、そんな面倒なことをしなくても、先王の亡霊が本物だと信じたのなら、さっさと殺せばいいのに、という気分になるのだ。幽霊は嘘をつかないだろう、ということである。
もっとも、ハムレットが狂気を演ずるというところは、お芝居としては見せどころでもあれば、サスペンスを盛り上げるためのシチュエーションなのだろうが、今となっては、いささか「かったるい」というか「面倒くさい」というか「まわりくどい」という感じがする。なにしろ、お城に同居しており、殺すチャンスなら、いくらでもあるからである。
もしかすると、殺した後に、自分が王になるためには、確たる客観証拠が必要だということなのかもしれないが、しかし、クソ真面目で潔癖症のハムレットなら、父の敵討ちを第一として、敵討ちを果たした後の自分の立場までは考えないんじゃないかと、そんな印象が強い。
それに、こう言ってはなんだが、傍証としての「証言」を得たとしても、もともと「物的証拠」みたいなものはないんだから、言うなれば、殺してしまえば、あとは何とかなるはずで、ハムレットが、自分で「叔父が父を殺した」という確証を掴みたがるという展開は、いささか無理があるように感じるのである。
あと、オフェリアに対するハムレットの態度は、今のフェミニストではなくても、酷いと感じるだろう。
しかしまた、明確な階級社会における男女関係とは、こういうところもあったんだろうなとは思う。
差別は、なにも男女間だけにあったのではなく、貴族王族であることがそもそも「差別」であり、その意味では、貴族王族は、男女ともに、その自覚は無くとも、差別者だったのだ。
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ともあれ、潔癖なハムレットとしては、オフェリアが、ハムレットの「愛」を疑ったことに腹を立てたのだが、今の目で見れば「そりゃあ、疑いもするだろうよ」と思うし、まして、そのことをして「尼寺へ行け!」つまり「一生、誰とも結婚するな」ってのも、酷い言い草だと思う。
しかしまたこれも、昔ならではのことで、「女性の貞潔」とは「生涯、一人の人を思い続ける」みたいなところを、男から期待されていたのであろう。
なにしろ、ハムレットの最初の「憂鬱」は、父が死に、日をおかず母ガートルードが、彼女の悲嘆を慰めた叔父クローディアスと、再婚したことに対してなのである。
まだ、父が殺されたのだとは知らない段階では、ハムレットは、そのことに腹を立てて悩んでいたのだ。「なんて、貞節のない、見下げ果てた、わが母なのか」と。
ましてこの時代は、義理の弟との結婚でも「近親相姦」に近いニュアンスがあったようで、今と比べると、キリスト教的な「性的潔癖」を求める意識がそうとう強かったということなのであろう。ハムレットが母に感じた苛立ちとは、今の言葉で言えば「チャラすぎる尻軽女め」というようなことだったのではないだろうか。
あと、ハムレットの「狂気」の演技が、あまり狂気に見えない。
オフェリアの狂気は、目線があらぬ方を向いていて、意味もなく歌を歌い始める、みたいな、いま見てもわかりやすい狂人ぶりだったのだが、ハムレットの場合は、一見したところまともで、何やら小難しいこと言ったりするのだが、よく聞いてみると「言ってることが変」みたいな、地味な狂人ぶりなのだ。
これは多分、ハムレットの狂気は、あくまでも演技で、ハムレット役者(この場合、オリヴィエだが)は、狂人を演じているハムレットを演じているという「二重構造」のために、本物の狂人となったオフェリアを演じるのとは違って、いかにも狂いましたという演技ではなく、正気なのか狂気なのかわかりにくいという、そんな微妙なあたりを狙った結果なのかも知れない。
だがこれも、今の「リアリズム」の感覚からすれば、狂人を演じようとしたのであれば、もっとそれらしくやれたはずだ、という感じになってしまうのである。
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そんなわけで、今の感覚で見てしまうと、なんとなく納得できない部分も多々あるのだが、これはこれで仕方ない。このことにより、今と昔の違いを知ることもできるのだ。
そんなわけで、物語としては今ひとつ説得力を欠くこの作品が、シェイクスピアの代表作と呼ばれたのは、私が思うにはたぶん、「亡霊」「復讐」「演じられた狂気と本物の狂気」そして、最後はメインの関係者が、全員死んでしまうという「悲劇性」において、「ゴシック」な重みを持ったからではないか。
先般鑑賞した、オリヴィエの『ヘンリー五世』(1945年)は、カラーで撮られていたのに、後の本作が、あえてモノクロで撮られたのは、やはり本作の持つ「ゴシック」的な味わいを狙ったせいなのではないだろうか。
また、そう考えると「オフェリアの川流れ」の不気味さも納得できるし、そこにゴシック好きの小栗虫太郎が惹きつけられたのも、さもあらんと納得できるのである。
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(2024年12月4日)
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