小川哲 『ユートロニカのこちら側』 : 〈後期クイーン的問題〉の作家・小川哲のユートロニカ
書評:小川哲『ユートロニカのこちら側』(ハヤカワ文庫)
小川哲の作品を読むのは、短編集『嘘と正典』に続いてのまだ2作目なのだが、小川の関連したものとして、リモート会議本『世界SF作家会議』での発言と、アンソロジー『異常論文』の収録短編小説「SF作家の倒し方」を読み、樋口恭介・東浩紀との鼎談「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」」を視聴してはいる。
予備知識なしに、最初に小川の短編集『嘘と聖典』に接した私は、この作品集のレビューを「小川SFにおける〈静かな諦観と叙情性〉」と題して、おおむね肯定的に評価した。
しかし、その後に接した、『世界SF作家会議』、『異常論文』所収短編「SF作家の倒し方」、鼎談「『異常論文』から考える批評の可能性」については、いずれも、あまり良い印象は受けなかった。
こうした現在の視点から、デビュー作長編である本作『ユートロニカのこちら側』を読み、併せて本書刊行時のインタビュー記事を読んでみると、奇妙な振れ幅を持つ小川の「個性」のようなものを、ある程度は理解することができたように思えた。
その個性とは「どうにもならない世界ならば、せめてこちらがコントロールする側に立とう」という「消極的な意志」である。
本稿タイトルの「〈後期クイーン的問題〉の作家」とは、そういう意味だ。
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平たく言ってしまえば、作中の「アガスティアリゾート」とは、個人情報を売る見返りとして「生活上の便益と安心」が保証された実験都市、だと言えるだろう。
だが、これはもう「未来」の話ではなく、中国などではかなり進んでいる「現実」の、半歩先でしかない。
本作単行本の刊行は2015年だが、2019年に刊行された、梶谷懐、高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)について、私はレビューで、次のように書いている。
そして、本作『ユートロニカのこちら側』の肝となる部分である「下から望んで管理下に入る、ボトムアップのディストピア」という側面について、次のように論じている。
まさに「アガスティアリゾート」こそが、それではないだろうか。
しかし、そうした「下から望んで管理下に入る、ボトムアップのディストピア」というビジョンに対して、小川哲は悲観的に批判的であると同時に、一種の「憧れ」に近いものをにじませている。
まず「悲観的に批判的」な側面だが、これは私が『幸福な監視国家・中国』のレビューで指摘した、人々の「易きに流れる」傾向に対してだ。
小川は、2015年11月24日の「第3回SFコンテスト受賞者インタビュウ」で、インタビュアーの質問に、次のように答えている(https://cakes.mu/posts/11547)。
このように、いちおうは『民意とも闘う必要が出てくるかもしれません。』と言いながらも、本音としての『諦観』が強く、『その更新についていけなかった人』たちのように、反時代的に『民意』と戦う、つもりはなさそうである。
インタビュアーが重ねて『現実世界でもこのような民意の暴走はありえるように思います。』と水を向けると、小川は、
と答えているが、要は、SFにも、そして作家である自分にも、そうした流れを『相対化してみること』しかできないであろうという『諦観』が、『僕(※ 小川)の考える(※ 呑気な)SF読者』とは違って、小川自身には抜きがたくある、ということだ。
実際、最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』のレビューでも指摘したとおり、日本のSF界自体が、一種の「アガスティアリゾート」であり、SF作家はもちろん、SFファンだって、ほぼ全員がそこでの安住を望んで、反抗など思いもよらない、本質的な批評性を欠いた人たちだからである。
では、一方で小川が「アガスティアリゾート」的な「便利な監視社会」に感じている、「憧れ」的なものとは何か。
それは、「アガスティアリゾート」の「ユートロニカ」というイメージにある。
小川は、インタビュアーの『タイトルにもなっている「ユートロニカ」という言葉です。作中では「永遠の静寂」という言葉が当てられてもいます。これは造語でしょうか。』という質問に答えて、次のように解説している。
つまり「ユートロニカ」というのは、小川にとっては、必ずしも否定的な意味を持つ言葉ではないのだ。いや、むしろ一種の「憧れ」を込めた言葉だと言えるだろう。
要は、不安定でガチャガチャした「人間世界」ではなく、機械的に調節され調律された「静謐な世界」。人間の度し難い「欲望や業」によって、騒々しく振り回されることのない世界。言ってしまえば、一種の「涅槃・寂光土」的な世界。一一小川は、そんな「静謐な世界」に「憧れている」のであり、裏を返せば、小川は「人間的な、ドロドロガチャガチャした世界」に、すっかりウンザリしており、その意味で「人間世界」に望ましい未来などないと、そういう『諦観』を持っているのである。
しかし、小川のこうした『諦観』は、どこから来たものなのだろうか。
私は、そのヒントを、小川の、樋口恭介・東浩紀との鼎談から得ることができたように思う。
小川はそこで、(政治的立場を云々されるのが嫌だからと)詳しくは語らなかったが、両親が「共産党員」であったと明かしている(あるいは、支持者であったか)。
そして、前記の「第3回SFコンテスト受賞者インタビュウ」では、その両親を、次のように紹介している。
つまり、本作『ユートロニカのこちら側』第5章の語り手である「ユキ」と同様、「議員(政治家)」とまではいかなくても、小川の両親は「共産党系の進歩的知識人」だったということであり、知り合いに編集者がいたというのだから、左翼出版社にコネのある「教員」あたりだったのではないだろうか。
しかし、だからこそ小川哲自身は、「人民大衆」に対して『諦観』を持つようにもなったのではないか。
いくら民衆に期待したところで、民衆というのは「易きに流れる」存在であり、民衆による「革命」などというものは起こりえない。理想は理想であって、決して実現することはないだろう、と。
例えば、同じ『諦観』を、より厳しい言葉で言い換えれば、こんな具合にもなろう。
つまり「豚のような人民大衆」は、「恵まれた生活環境」という「餌」さえ与えられれば、それで満足してしまうような「尊厳なき存在」なのだ、ということである。
そんなふうに小川は、両親の「共産党員としての徒労」を通して、『諦観』を育んだのではないか。
だからこそ、そんな彼なら「ユートロニカ」に憧れもするのだ。
そこではすでに「革命」は失効しており、動物的欲望をほぼ満たされた「人民大衆」は、欲望に駆られて豚のように、ブーブー泣きわめくこともないからである。
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これが、あながち邪推ではないかもしれないのは、樋口恭介・東浩紀との前記鼎談において、小川が淡々と「色々と書きたいものはあるが、今は読者に届くものを書かなければならない」「ひとまず直木賞をとりたい」という趣旨のことを語っていたからだ。
言うまでもないことだが、小川が「直木賞」を信仰的に崇めているなどといったことは、まずあり得ない。小川は、もっと明晰に「醒めた人間(ニヒリスト)」であり、しばしば「メタレベル」という言葉を口にして、そうした観点の重要性を語っているのがその証拠で、事実、小川哲作品の「醒めた諦観」は、そうした視点によってもたらされている。
だから、小川が「直木賞がとりたい」と言う時、それは純粋に「直木賞」に憧れているなどといった「ナイーブ」なことではなく、直木賞が取れれば「ひとまず、作家として食っていく目処が立つ」ということでしかない。
言い換えれば、前記鼎談でも「芥川賞」作家に触れていたように、小川の描きたい小説とは、必ずしも「直木賞」の対象となる「大衆文学」ではないのだ。
何人かの芥川賞作家がSF作品を書いているように、小川だって、芥川賞の対象になるような作品を書きたいという気持ちはあるのだが、仮にそれでうまくいったところで、「芥川賞」では食っていけないからこそ、プロ作家の保証として、今は「直木賞」を取りに行っているということであろうし、ひとまずその方が、SFファンも含めた、広範な読者の支持を受けやすいと、そう計算しているのであろう。
そしてそれが、今のところ、嫌でも、この「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)の世界という「(ユートロニカの)こちら側」である「大衆消費社会」に生きなければならない、彼の『リアリズム』なのではないだろうか。
もちろん私は、小川哲のこうした「計算高さ」を批判しているのではない。
家族を食わせていかなければならないプロの作家としては、このくらいの計算高さはあって当然だし、その上で、ある程度「読者を操る(意図的に誤解させる)」くらいのことはするだろう。
小川は、本作『ユートロニカのこちら側』の中で、「アガスティアリゾート」という「ユートロニカ」に適応しようとしない、いかにも「人間くさい」人物を何人か登場させており、多くの読者はむしろ、そうしたキャラクターたちに感情移入したはずなのだが、一一無論これも、作者の「計算のうち」だということである。
つまり、「ディストピアとしての管理社会に抵抗する主人公」というのが、小川が『それまでは「SFとはこういうもんだ」』と感じていた、退屈な「SF的紋切り型」だったのだけれども、そこを押さえ書かないと「一般ウケ」しないと考え『自分の中で抑制しながら書こうとしていたけど、四章まで書き進んで「もういいじゃん、自由にやって」となった』結果、生み出されたのが、「アガスティアリゾート」の基本システムである「犯罪予測システムBAP」を開発した、変態っぽい、クリストファー・ドーフマン博士だった、というわけだ。
要は、小川は「ディストピアとしての管理社会に抵抗する主人公」などというものが、「現実」には存在し得ない「絵空事」であり、しかしそれを承知で、あえて「娯楽商品として書く」というのが、商業作家としての『リアリズム』だと、そう考えたのではないか。
そして、そんな『諦観』を持っていたからこそ、第3章までは「一般受け」を意識して、嫌でも「書きたいこと」自制してきたのだが、本来、小川が書きたいキャラクターとは、そうした「紋切り型」の視点からすれば「マッド・サイエンティスト」と呼ばれるであろうドーフマンの方だった、ということなのではないだろうか。
だから、『思い入れがあるのは刑事スティーヴンソン。もともと彼が主人公の長篇を書く予定でしたから。』と答えているからといって、これがそのまま「いちばん共感できるのは刑事スティーヴンソン」だという意味ではない、と考えるべきだろう。
無論、だからと言って、読者を偽るための「フォロー」として言っているだけとも、断じられない。
言うなれば「刑事スティーヴンソン」は、「理想としての共産社会の実現を願った、理想主義者だった両親」への共感と反発、そのアンビバレンツな感情が込められた、愛着ある「敗者」としてのキャラクターだったのではないだろうか。
したがって、前記インタビューで『今後の抱負』を訊かれて、
と答えた言葉も、なかなか意味深である。
つまり『ハードな方向に振り切るのか、リアリズム路線でやっていくのかも考えています。』という言葉には、「ハード」に、この度し難い現実社会(の行く末)を描く方向に進むのか、そんなものは「ウケない」という「資本主義リアリズム」にしたがって、読者に喜ばれる小説を書くという「リアリズム」路線を続けていくか、そのあたりを、読者の反応を見ながら考えていると、そんな意味かもしれないし、前者の可能性を開くためにも、まずは「直木賞の受賞が必須だ」ということにもなるのであろう。
また、『文学の役割の一つに、世間から光があたっていない弱者や忘れられているものをとりあげることがあります。』というのも、あくまでも『文学の役割』ということであって、自分の「やりたいこと」だとは言っておらず、せいぜい『SFというジャンルで光があたっていないものを探してみたい』という、いわば「新機軸」としての狙いを語っているだけ、とも取れるのだ。
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さて、このように見れば、小川哲の「醒めた諦観」と「作家的正論」の間にただよう「齟齬」に、いちおうの説明をつけることも出来るのではないかと思う。
ともあれ、私はまだ、小川の今のところの代表作(直木賞候補作)『ゲームの王国』を読んでいないので、この作品を読めば、私のこうした「小川哲」観も、おのずと修正されるかもしれないし、逆に補強されるかもしれない。
どちらにしても、「共産党員(シンパ?)」の両親を持つことによる「屈折」が感じられる、という意味において興味深い作家・小川哲を、しばらくは追いかけてみたいと思っている。
(2022年2月28日)
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