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小川哲 『スメラミシング』 : これは私たち自身の戯画である。

書評:小川哲スメラミシング』(河出書房新社)

本書は、「宗教」をテーマにした短編集だが、最後の「ちょっとした奇跡」のみは、「奇跡」と題されてはいるものの、「宗教もの」ではない。
収録作品は、次のとおりである。

(1)「七十人の翻訳者たち」
(2)「密林の殯」
(3)「スメラミシング」
(4)「神についての方程式」
(5)「啓蒙の光が、すべての幻を祓う日まで」
(6)「ちょっとした奇跡」

本書の帯を見てみると、『陰謀論』『サイコサスペンス』『京極夏彦』『弩級』という言葉が目につくのだが、ここでポイントとなるのは、もちろん『陰謀論』である。後の三つは「凡庸な惹句」に過ぎないからだ。

しかし、ここで注意すべきは、なぜ『陰謀論』であって「宗教」ではないのかなのだが、その理由は、『陰謀論』と言っておけば、所詮は「他人事」であり、「頭のおかしい人たちの話だ」と、多くの人が安心して、エンタメとして消費できるためである。

言い換えれば、「宗教」と言ってしまうと、結婚式や葬式や墓参りまで含めて、本当は、誰にとっても無縁なものなのではないとわかってしまい、気楽にエンタメとして消費できなくなってしまうためである。
頭を使える人だけに買われるのでは、商売にならないからだ。

しかし、本書のテーマが「宗教」であるというのは、著者の小川哲自身が明言していることであって、私が勝手に言ってるわけではないし、そもそも本書を読めば、それは明らかなことだ。
本書で、はっきりと「陰謀論」を扱っているのは、表題作である(3)の「スメラミシング」だけなのである。

ともあれ、小川哲は、次のように明言している。

『そもそも、今回の短編集は、神や宗教をテーマにしようと執筆前から話していました。現代において神や宗教を考えるうえで、陰謀論は避けて通れないだろうと考え、作中に登場させました。』

(インタビュー「人間の根本には「陰謀論的なものの見方」がひそんでいる…直木賞作家・小川哲が「陰謀論」に惹かれる理由」より)

つまり「神や宗教」がテーマであって、「陰謀論」はその「道具立ての一つ」に過ぎないということであり、多くの人が「陰謀論」に注目するというのは、もうその段階ですでに、「読者大衆が受け入れやすいだろう情報だけを強調して与える」という、出版社側の「情報操作」によって、「手もなく踊らされている」ということに他ならない。
つまり、そんな平均的な読者の「ものの考え方」は、極めて「宗教的」だということである。

『一一人間が陰謀論的な枠組みの中で生きている、というご指摘はとても興味深いです。日常の中で、実際にそう感じられることはありますか?

小川 身近な例でいえば、恋愛は陰謀論的な行動を引き起こしやすいのではないかと思っています。たとえば、片思いをしている相手から連絡が来ないときに「相手は今こんなことをしているのでは」と想像したり、メールの一節に過剰に意味を読み込んで「僕に気があるのかも」と期待したりする。』(前同)

『一一なるほど、とてもおもしろいです。今回の短編集に収録されている「密林の殯」の登場人物は、天皇を崇拝していたり、宅配をスムーズに行うことに快感を覚えていたりと、その多くが何かに熱中し、耽溺しています。これも、陰謀論と関係しそうな気がしますが……。

小川 そうですね。僕は、誰もが何かしら、無批判に信じたり受け入れたりしてしまうものや、不条理なまでに耽溺してしまう対象をもって生きているのではないかと思っている節があります。人はその耽溺を中心にして、ストーリーを組み立てたくなる。そのような意味で、僕らは人間である以上、陰謀論的なものから完全に距離を取ることはできないのだと思います。

いわば、みんなが心の中に「天皇」を抱えている。でも、その対象はそれぞれ異なっています。そうしたことも、今作を通じて書きたかったことの一つです。』(前同)

このように見ていけば、小川哲の狙いは、もはや明らかで、「陰謀論」などというケチな話ではなく、本稿のタイトルで示したとおり、「陰謀論」とは私たち自身の発想の「誇張された戯画」であり、私たちは皆「薄い陰謀論者」だということなのだ。

だから、本書所収の作品を、まるで他人事のように読んで論評しているような人というのは、まったく本書を「読めていない」、度し難い「自己信仰者」だということになる。
一一まあ、こう書いても「信仰者」が、自分の信仰を疑うことは決してないので、まともな頭のある「非信仰者」こそが、自分の「信仰」を直視する必要があるし、出来るのはそれだけなのだ。

そういえば昨夜、数十年ぶりに近所の創価学会の男性がやってきた。創価学会の男子部時代の顔見知りで、私より少し年上だから、六十代後半くらいの人で、「ああ、あの人かな」という感じであった。

で、最初は、すでに亡くなった私の父母のことから世間話に入ったので、すぐには何の用なのかわからなかったのだが、やがて「公明党」という言葉が出たので、私はそれで初めて、翌日の今日が、衆院選の投票日だと思い出した。
そして、やっとのことで「公明党を頼めませんか」と言うので「公明党は嫌いです。所詮公明党なんて、自民党の補完勢力にすぎません」とハッキリ言ってやると、「でも、維新の会はひどいですよ」と言うので「そんなことは知っています。維新は大嫌いですし、自民党も公明党も嫌いです。だから、投票は、消去法でということになります」と冷たく応じた。

そして、話題が「信心」がどうたら、「また、会合に出てきませんか?」というようなことに移ったので、「私は、すべての宗教を否定しています。しかし、ただ否定しているだけではなく、ちゃんと勉強して否定しているのです。宗教学の本も読んでいますし、元は創価学会員だから、まずは仏教からとも思いましたが、インド仏教から中国仏教、日本仏教へと、その中身の変化が激しすぎて、ひとまとめに仏教は、などと簡単に把握ですることはできないものだと知ったので、ひとまず、比較的原型をとどめているキリスト教から勉強しました。聖書も読んだし、神学書も読んだ。今なら、神学者や神父牧師を相手に論戦をしても勝てますよ。創価学会は、キリスト教も外道だと否定していますが、聖書を読んだことがありますか? ないでしょう?」と言うと、相手の男性は「大体は知っています」と言うので「じゃあ、聖書には、どんな文書が収められているか知っていますか?」と尋ねると「いや、そこまでは…」と言うので、「そういうことなんですよ。創価学会員の言う、宗教を知っているというのは、身内の中だけで知っているつもりになっているだけなんです。じつは何も知らないまま、知っているつもりになっているだけなんですよ。知っていると言うのなら、勉強してから言ってください」等と「折伏」したのであった。まさに「法華折伏破権門理」を実践しているのは、こちらだったというわけである。

そんなわけで、本書のレビューを書いて「陰謀論がどうたら」「陰謀論者がどうたら」言っているような人たちというのは、この「創価学会員」と、まったく同じなのである。
自分はわかっていて、いわゆる「宗教」の外にいるつもりなのだが、しかし、「宗教」の外にいる人間などというものは、まさに「一人もいない」のだ。
小川哲の言うとおり、私たち人間とは、何かを(無根拠に)信じないでは生きていけないし、そうでなければ発狂せざるを得ないように、できているのである。

では、私自身が、何を信じているのかといえば、「盲信は美しくない」という「自分の美意識」を信じているわけなのだが、無論、私の「美意識」など、個人的なものでしかなく、客観的な価値の保証などはない。
つまり、それを信奉するということは、個人的な「信仰」に生きている、ということになるのである。

もちろん、このくらいのことは、小川哲は理解している。だからこそ、これまでも繰り返して指摘してきたとおり、彼の書く小説には、必ず「諦観」が漂っているのだ。

「いくら言っても伝わらない。何も変わりはしない」「でも、自分にできることは、これくらいだからこれをやるだけだ」という、「消去法」による「やれること」の選択だからこそ、小川哲の小説には「諦観」ばかりがあって、「熱」が感じられないのだ。
だがまた、それが頭の悪い読者には「賢い」と感じられるのである。

しかしながら私は、小川哲の「諦観」を理解はできるし、その意味で「面白い」とは思いつつも、所詮それは、「文学」としては「敗北の文学」でしかないとも評価している。
「文学」もまた、一つの「宗教」であり、「宗教」には、よかれ悪しかれ「力」はあるのだから、それを捨てるというのは、いかにもつまらないと思うのだ。

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さて、ここからは各収録作について、簡単に論評していこう。

(1)「七十人の翻訳者たち」
このタイトルを見て「キリスト教」の話だとわからなかった人は、その段階で、キリスト教を論評する資格はないだろう。
作中でも紹介されているとおり、「七十人訳聖書」というのは、元々がユダヤ教の聖典であったものを、初めてギリシャ語に翻訳して、キリスト教をヘレニズム世界に広める原動力になった聖書のことである。

もちろん、その程度のことは私も知っていたが、しかし「七十人訳聖書」自体には興味がなく、その意味でよく知らなかったので、本作を読んで「やっぱり、そこでも、こんなことをやっていたのだな」と、知識が増えたという点では楽しめた。
つまり、「聖書」というのは、ヘブライ語の聖書(諸文書)からして、日本の『古事記』などと同様、所詮は「作り話の民族神話」でしかない「デタラメなもの」なのだから、その後の「ギリシャ語訳」にまでは興味がなかったのだが、今回、そのあたりの事情を知らされて、「やっぱりなあ」とは思ったのだ。

で、小説としてはどうかというと、これは「タイムパラドクス」ものの「SF」作品である。
種を明かされれば、「なるほどね」とは思っても、特段、驚かされるほどのものではなく、よくまとまった「佳作」といったところだろう。

(2)「密林の殯」
この作品は、初出が、純文学誌の『文藝』ということもあってか、特段「オチ」はつけておらず、「誰もが多かれ少なかれ、信仰を持っている」ということを描いた作品だと言えるだろう。「信仰」とは、何も既成の宗教教団だけを指すものではないのだ。

(3)「スメラミシング」
表題作であり「陰謀論」を扱った作品だ。だが、前述のとおりで、「陰謀論」を「宗教」とは別の現象だと考えるのは間違いで、「陰謀論」とは、言うなれば「宗教の戯画」なのだ。まだ新しい宗教だから、世間の目を気にしたソフィスケートがなされていないだけのものであり、ある意味では「宗教の原型」に近いものなのである。
だからこそ、「陰謀論」を考察する意味もあるわけなのだが、これも前述の通りで、「陰謀論」と、例えば「世界宗教」や「歴史のある既成宗教」を比較して、前者が「バカっぽく」て、後者が「何か深そう」などと思って、お寺参りや神社参拝なんかを大真面目にやっているような者は、基本的に、同様の馬鹿なのだ。それら違いとは前述のとおりで、「見た目の洗練だけ」なのである。

(4)「神についての方程式」
本作は、数字の「零」に神を見るという、架空の宗教を扱って、なかなか面白い「どんでん返し」を仕掛けた作品だ。
本作で描かれているのは、「あることを知ってしまうと、別のことは知り得ない」という認知のジレンマとでもいうようなことであり、要は、肉体に閉じ込められた人間には「全てのこと」を知ることはできない、というようなことだ。
いずれにしろ、最後の「どんでん返し」までのもっともらしい議論は、言うなれば、読者を騙すための、前振りとしてのレトリックである。ただ、そこに凝りすぎたせいで、このオチが理解できない読者も、きっと多いことだろう。
趣向としては、中井英夫晩年の名短編「黄泉戸喫」と同じものだが、作品の洗練とそのための衝撃度では、「黄泉戸喫」の方が格段上である。

(5)「啓蒙の光が、すべての幻を祓う日まで」
これも「SF」作品である。要は「完璧に科学的に啓蒙された世界を目指している世界」を描きながら、しかしその世界は「実験場」だったということが明かされる。
要は、人間に「完璧に科学的に啓蒙された世界」の実現は可能かと問いつつ、「まあ無理だろう」という「諦観」が、この作品に色濃く漂っていて、実験台の人々は、痛ましいかぎりである。

(6)「ちょっとした奇跡」
最初に断ったとおり、本作だけは「宗教」ネタではなく、壮大な「SF的設定の面白さ」で勝負した「終末世界もの」だと言えるだろう。
最後は「ちょっと良いお話」風のオチがつけられていて、小川哲らしくない作品だと言ってもいいかもしれないが、こういう作品も入れておかないと、あまりにも「救いがない」という判断だったのかもしれない。
「ちょっとした奇跡」なら起こるが、「本物の奇蹟」は起こらない、ということでもあるのだろう。

推薦文を、京極夏彦が書いていることからも分かるとおりで、本書の結論としては、またも次の言葉に収斂されるしかないのである。

この世には不思議なことなど何も無いのだよ、関口君


(2024年10月27日)

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