千葉雅也 『センスの哲学』 : 「見る前に跳べ」と言われても…。
書評:千葉雅也『センスの哲学』(文藝春秋)
「売れっ子」千葉雅也の本としては、売れない本になりそうな臭いがプンプンする。
なぜなら、本書は「哲学」と題しているけれど、いわゆる「学問としての哲学」ではなく、自身の興味があるテーマについて、哲学的知識を援用して「哲学して(考えて)みました」という内容の本であり、言うなれば「哲学的エッセイ」でしかないからだ。
したがって、「哲学」の権威をありがたがりたい「哲学オタク」たちには、少しも「ありがたくない本」なのだ。
これまで千葉雅也が「売れっ子」であり得たのは、「主流の現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」人だったからであり、端的に言えば、そんなことを期待する読者は、千葉自身の「哲学」なんかには、あまり興味がない。
千葉の「哲学」が面白いというのは、あくまでもそれが「大思想家の哲学を、わかりやすく噛み砕いたもの」と理解されていたからであって、千葉の「オリジナル哲学」なんてものは「いらない」と、そう考えるのだ。
しかし、この程度のことは、千葉だって承知しているはずなのだが、ではどうして、今回は自分自身を前面に出してきたのかというと、それは無論、これまでの本が「売れた」から、自分というブランドだけでやれるんじゃないかと、そう考えたからである。
「有名哲学者」の権威を後ろ盾にしなくても、正直に、自分の考えていることをそのまま語るだけでも、それだけでも、もうそろそろ売れるんじゃないか、という見込みを持ったのだ。
そもそもどうして「有名哲学者の解説屋」であることから下りようとしているのかというと、それは無論、他人の褌で相撲を取るようなことは「つまらない」と思っていたし、なにしろ「学者」としては、「オリジナル」から大きく離れて「自由な解釈」をするわけにもいかないので、それは「窮屈で仕方ない」と感じるようになってきた、ということだ。
で、またもやそもそもの話なのだが、千葉としては、これまでの「大哲学者の解説本」でだって、「学者」としての基本線は守っていたとはいうものの、しかし「わかりやすく噛みくだいて書く」というのは、結局のところ「自分の解釈」を語るということであり、それは取りも直さず「自分の思想」を語るということでもあったからだ。
つまり、これまでだって、千葉は「大哲学者の解説本」の中で「自分の思想(世界観・世界理解)」を語ってきたのだし、読者の方も、それを「面白い」「わかりやすい」と歓迎してくれたのだから、そろそろ「大哲学者を扱っている」という「金看板」を下ろして、「自分のブランド」だけで、「自分の腕一本」で勝負しても、これまで支持してくれた読者であれば、喜んで支持してくれるのではないかと、そう考えたのであろう。
一一だが、この考えは「甘い」と思う。私の言い方で言えば、「願望充足的な読み」である。「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」というような、思考の流れの結果にすぎないと思う。
しかしながら、これまで千葉の本をありがたがってきた読者の多くは、「ものの考え方」を学びたい人たちではなく、あくまでも「大哲学者の権威」を、ワッペンを貼りつけるように、お手軽かつ手っ取り早く(ファスト)に「身につけたい」と考えているような人たちだったのだから、そのワッペンの絵柄が、ドゥルーズなどの「外国の著名な哲学者」ではなく「日本人の千葉雅也」であっては、ダメなのだ。
肝心なのは、「哲学を会得する」ことではなく、哲学のことを「知っているぞと見せびらかす」ことなのだから、その見せびらかすものは、「一流のブランド品」でなければならない。
いくら、実用的にはそれで十分であり、むしろ「大哲学者の哲学」なんて、そう簡単には使いこなせないのだから、機能の限定された「千葉雅也」の方が、むしろ「機能的で、使い勝手が良い」のだが、「哲学オタク」たちが欲しいのは、自分の能力では使いこなせないほどの「多機能かつ贅沢な高級品」という「分不相応なもの」なのである。
要は、その高度な多機能が使いこなせなくたって、かまわないのだ。大切なのは、見せびらかすための「ブランド」なのだから、それが「千葉雅也」では物足りない。「大ブランドの代用品」にはならないのである。
で、これくらいのことは、千葉だって、薄々は感じているはずである。ならば、どうして「大哲学者の金看板」を下ろそうなどとするのかというと、それは「大哲学者の金看板」は、千葉にとっては、もはや世間を渡るための「便利な道具」であるよりも、「重い枷」だと感じられてきたからである。
本当は「もっと自由に、自分を表現したい」のだが、「大哲学者の金看板」を掲げている以上は、「学者」として「適当なこと」はできない。
例えば、小説家の筒井康隆が有名哲学者の理論を「不正確に紹介」したとしても、「小説家だから、まあ仕方がないな」と思ってもらえる。間違いを指摘されるにしても、所詮は「門外漢の素人」がやることだから、大きな問題にならない。同様に、私が「適当に」デリダを援用して、それが大いにトンチンカンなものであったとしても、多くの人は「要は、彼はこう言いたいんだな。カッコをつけて、デリダなんか持ち出さなきゃいいのに(笑)」と、それで済むのである。
ところが、ジル・ドゥルーズの「研究者」である千葉としては、そういう「いい加減なこと」はできない。「適当に援用する」などといったことはできないのだ。そんなことをして、他の研究者から、その間違いを指摘されでもしたら、赤っ恥をかくだけでは済まず、「学者」としての信用を傷つけてしまい、自分のブランド価値を下げてしまうからである。
「あいつ、わかったようなこと言っているけど、かなりいい加減だぞ。ドゥルーズの名を借りて、自分の言いたいことを書いているだけみたいだから」となってしまったら、信用をなくした彼の本は売れなくなってしまうし、おのずと、タレントとしての価値も下がるからである。
したがって、「大哲学者の金看板」を掲げたままで、「自由になる」ことはできない。「身軽になること」はできないから、その「金看板」を下すにあたっては、自分個人の名前が、十分に「ブランド」化していなければならない。
だから「早く、そんな身分になりたいものだ」という気持ちが千葉にはあって、問題は、その時期判断の適否なのだが、私は、今回の千葉の判断を、時期尚早の拙速だったと思う。だから「売れないだろう」と言うのだ。
では、どうして、千葉はその判断を誤ったのかというと、彼は、人並み以上に「自由」でありたい人なのだ。
「千葉雅也は、学者だから、彼の語ることは、学問的に正確である(でなければならない)」という「縛り」から、早く逃れたいという意識が、他の学者などよりもずっと強く、また「自分ならそれをやれる(かも)」という意識があったからこそ、そんな「希望的観測」に流されて、拙速にも今回は「大哲学者の金看板」を下ろしての、「自分ブランド」での勝負にうって出たのである。
だが、「それほど世間は甘くないよ」と私は思うのだ。
「後ろ盾がいない、裸の千葉雅也になど興味はない」と、つれなく去っていく読者の方が多いと、私はそう見ているのである。
○ ○ ○
千葉雅也が本書で書いているのは、「センスの良い生き方をするためのセンスを身につける方法」といったようなものだ。
では、ここで言われている「センス」とは何かというと、大雑把に言えば「物の本質を、直観的に捉える能力」ということになるだろう。
言い換えれば、そうした「センス」を身につけるためには、いちいち「見かけ(見せかけ)」に捉われていたのではいけないのだ。それでは、いつまで経っても、「見かけ(見せかけ)」に振り回されてしまい、物の「本質」を直観することなんかできないからである。
だから、本書で語られる「センスを身につける方法」とは、言うなれば「自由になる方法」なのである。
人を縛るあらゆるものから、ひとつひとつ自分を解放していくならば、本当の自分らしさが素直に表現できるようになるし、その方が、その人にとっても幸せなはずだから、「そうなろうよ」という話。
これは、千葉が、もともとは「美術」創作に進もうとしていた人で、本来は、厳密さが求められる「学者」向きの人間ではないと、自分のことをそう考えているからだ。
また、近年その意識が強まってきたからこそ、芥川賞候補にもなったように「小説」を書いたり、「音楽」をやったり、もともとやっていた「美術」創作なども再開したのである。
そして、こっちこそが「自分本来の姿であり、だから楽しい」と思っているから、できるかぎり「学者」的な縛りから解放されようとして、今回ついに「大哲学者の金看板」を下ろしてみたのである。
しかしながら、こんなことが気安くできるのは、千葉がある程度は「自己実現」した人だからに他ならない。
つまり、「売れっ子」になったから、権威の後ろ盾がなくても「一人でやっていけそう」だと感じたのであり、それで、自身を解き放つ決断ができたのだ。
言い換えれば、そうした「自信」をいまだ持っていない人にむかって「自由になろうよ。楽しくなるよ。その方法を教えてあげる」と言っても、大半は振り向いてくれないだろう、という話なのである。
例えば、千葉雅也の「小説」が、芥川賞の候補作になったのは、間違いなく、千葉が「売れっ子」の「作家」の一人だと、出版関係者からも認知されていたからだ。
そもそも、彼の小説が文芸誌に掲載されたのは、彼が「異業種有名人」だったからで、その意味では、芸人である又吉直樹と同じような「話題性」があったからに他ならない。千葉が無名の小説家志望者だったら、彼の作品が文芸誌に載ることもなければ、芥川賞の候補になることもなかったというのは、わかりきった話なのである。
つまり、著名人である千葉雅也なら、本業の「哲学研究」ではなくても、それなりに注目もされ、評価もしてもらえるから、その点で、その「趣味」に満足することもできるし、「本業」のような「重さ」もないから、「そっちでやっていけるのなら、そっちでやっていきたい」という気持ちも、それは理解はできる。
しかし、そういう「特権的立場」の保証されていない一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理なのだ。
もちろん、それができるような変わり者も、稀にはいる。例えば私のように「人に評価されようがされまいが、ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い」と、そう割り切れるような人間のことだか、そんな変わり者もまた滅多にいるものではなく、ほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙ってしまうものなのである。
一一で、そんな人たちに対して、「ウケなくても良いじゃない。イイねなんか気にしてたら、窮屈なだけだよ」と言っても、それは無理な話なのだ。
そうした一般人もまた、千葉と同様に「まず世間からの承認を得たのちに、自由にやりたい」のである。
つまり「世間の承認」という「縛り」は、自ら望む「前提条件」であって、それを諦めることで得られるような「良いセンス」なんて、初手から求めてはいないのだ。
千葉は、「センスのあるなし」について、次のようにわかりやすい例を紹介している。
つまり、「センスが悪い」とは「理想のモデル」に近づこうとして「中途半端に真似るに止まったパチモン(偽物)」というようなもののことである。
これは私がよく馬鹿にしている「コピペレビュー」とか「内容要約屋による知ったかぶりレビュー」的なものだと言えるだろう。
こういうものを書く人というのは、自分は「一人前のレビューを書いている」とか「要約した思想家(作家)と同様のことを、自分は考え得ているからこそ、こうして書けている」と、そんなつもりなのだが、そんなものは所詮「下手な模写」に過ぎないので、その方面に暗い一般人には通用しても、専門家や「読める人」には通用しない。
そこには、「テストの模範解答」のような要約の巧みさはあっても、その人でなければ書けないものというが無いから、所詮は劣化コピーでしかなく、その意味で「つまらない文章」だということになる。
そして、そうした事実への「無自覚さ」が、ここで言う「センスが悪さ」なのだ。
だからこそ千葉は、「そっくりそのままになれるほどの才能もないのに、それを目指したって、それは見苦しいだけのパチモン(偽物=下手な模写)にしかならないのだから、そんなことはさっさと諦め、そうした権威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ」と、大筋そのようなことを言っているのである。
「自信満々な模写」は、かえって、その無自覚ぶりが「イタい」けれど、「その人らしさが自然に出ているもの」なら、少々デッサンが狂っていようと、それも「味わい」の内になる、という、これはそういう話なのだ。
ただ、「自分らしさ」と言っても、みんながみんな「表現するに値する自分らしさ」をあらかじめ持っているわけではないのだから、では、既成の「型(権威)」にとらわれずに、「本質的な美質」を身につけるのはどうしたら良いのか? 一一それを書いたのが、本書だと言えるだろう。
そして、勘の良い人ならすでに気づいているだろうが、要は、これは、千葉自身が進みたい方向を正当化するための「議論」なのだ。そうなってしまっている。
「大哲学者の解説屋なんかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽しいし、見苦しくもないよ」と、そういうことである。
たしかに、この考え方は「正しい」とは思うし、私自身、その方向でやってきた人間でもある。一一けれども、それが「正しい」からと言っても、多くの人は、たぶんそんなことは望まないはずだ。
多くの人は「そっくりな絵が描けるようになりたい」とか「人が尊敬するような大哲学を語れるようになりたい」とか「芥川賞をとれるような小説を書きたい」とかいったような、「自分自身(の個性)」とは縁もゆかりもないような「他者の欲望」を内面化して、およそそれを疑い得なくなっているのだから、「それはひとまず置いといて、まず自由になった方が、あなたが生かせるのだ」と言ったところで無駄なのだ。
「人が尊敬するような大哲学を語れるようになりたい」とか「芥川賞をとれるような小説を書きたい」とかいったような「大切な夢」を捨ててまで、「自分らしく楽しくやれれば、それでいい」などとは、ほとんどの人は思わないのである。
したがって、本書においては、そうした「大前提」が間違っているので、その先の「センスを身につける具体的な方法」という「本論」は、読み物的に、参考にはなるだろうけれど、ほとんど実用には供しないものだと思う。
本書に書かれているのは、ある程度「社会的な承認」を得た著者であるからこそ口にできることであり、さほどの才能のない一般人からすれば、「お気楽なご高説」に過ぎないだろう。
「大丈夫だから、見る前に跳べ!」と言われても、「やっぱり、見ちゃうよね」という話なのだ。
(2024年4月10日)
○ ○ ○
○ ○ ○