植木雅俊 『法華経とは何か その思想と背景』 : 釈尊 「最高の教え」としての 〈法華経〉
書評:植木雅俊『法華経とは何か その思想と背景』(中公新書)
「法華経」と言えば、現代では「日蓮」を思い浮かべる人が多いだろう。そして「日蓮」と言えば「法華経こそが最高の教えであり、末法の世においては、他の教えで人々を救うことはできない」として他宗排斥を唱えた人であり、その意味で「創価学会」による戦後の「折伏」弘教を連想し、その押しつけがましさに、嫌な気持ちになる高齢者も少なくあるまい。また、日本の近代史を勉強している人なら、戦前戦中には日蓮の人気が高く、戦争推進者の中に少なからず「日蓮主義者」がいたために、そこで悪印象を持ってしまった人もいるだろう。
つまり「法華経」は「仏法最高の教え」として、日本への仏教伝来以来、ながらく絶大な人気を博したにも関わらず、その「メジャーさ」ゆえに、戦後は、なんとなく有り難味を感じられないばかりか、敬遠されるきらいさえあったのではないだろうか。
また、仏法と言えば「釈尊の教え」であるにも関わらず、「法華経」が実際に成立したのは、釈迦滅後500年も後であり、どうしてそれが「釈尊の最高の教え」と言われるのか、その点をよくわかっていない人が、創価学会員や日蓮宗信者をも含めて、決して少なくないのではないだろうか。
かく言う「元創価学会員」である私も、そのあたりがよくわかっていなかった。
要は、僧侶や先輩信者がそう言うから、そう教えてくれたから、そういうものだと思い込んでいただけで、事実関係を知っていたわけでも、理解していたわけではなかった。まあ、創価学会員時代の私の信仰心、求道心とは、その程度のものだったということであろう。
そんな私も、「イラク戦争」を契機に創価学会を辞めて以降、初めて真剣に「宗教」や「信仰」というものを考えるようになった。
つまり、どんな宗教宗派でも「われわれの奉ずる教えが、最も正しい」とか「唯一正しい」と言うけれど、事実関係はどうなのだろうという、真っ当な疑問を持つようになった。そして「宗教なんて所詮はどれも、願望充足的な幻想なのではないか」と考えるようになり、その裏づけを取るために、独学で「宗教」の研究を始め、どこから手をつけるべきかとしばらく迷ったあげく、「最もメジャーで、宗教らしい宗教」としての「キリスト教」の研究を始めたのである。
そして、今では、そこいらの神父や牧師を相手に議論しても負けないくらいの、知識と論理を身につけたのだが、そんな私が、そうした「宗教に関する知識」をもって、原点である「仏教」にも、再度批判的に興味を持ったのは、つい最近のこと。
昔、創価学会の「教学勉強会」で聞きかじった、ごく初歩的な知識を、「宗教学」の基本を身につけた上で、再度検討してみたいと考えるようになり、最近、手に取るようになったのが、神道や仏教といった「日本の宗教」関連の書物であり、本書もそうしたものの1冊であった。
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それにしても、釈尊が亡くなって500年も経ってから書かれた「法華経」が、本当に釈尊の教えを正しく伝えるものなのか、という「疑問」は、当然、持って然るべきものである。ところが、それを持たないまま「法華経は素晴らしい」などと言ってしまえる人が少なくない。しかし、それは所詮「妄信」なのだ。
では、そのあたりの事実関係はどうなるのだろうかという疑問に、本書は論理的かつ明確に応えてくれる。
「もちろん、法華経は〈釈尊の言葉〉そのままではないけれども、釈尊の滅後、主流派となった、小乗仏教たる上座部仏教によって歪められた釈尊の教えを、原点回帰せしめ、時代状況に合わせて平易に説いたものが、法華経なのだ」と、釈尊滅後のインド仏教界をめぐる「リアルな政治状況」を踏まえながら、じつに説得力のある説明を展開してくれるのだ。
それは、宗教的な「信じる信じない」の話ではなく、「人間って、そうなんだよな、困ったことに」というリアリズムに訴える、じつに現実的で学術的な説明なのである。
知ってのとおり、釈尊自身は「人間が生きることの悩みや苦しみ」をどのように乗り越えれば良いのかという「人生哲学・生命哲学」に生き、それを説いた人であった。当然、そんな釈尊の教えは「万民」に開かれており、決して「神秘主義」的なものでもなければ「超人・超能力主義」的なものでもなかった。
釈尊の説いた「悟り」とは、「正しく生きる態度(を身につけた)」ということであって、「悩みのいっさい無い状態」の獲得だとか、ましてや「超人的な存在」になることでも、「この世以外の楽園的異世界」に生まれ変わることでもなかったのである。
しかし、いつの時代にも、民衆というものは「手っとり早い答」だけを求めがちだし「呪文だの超能力だの」に憧れがちだ。
要は「現実逃避」を、仏教にも求めがちだったのであり、釈迦滅後の弟子たちの中には、そうした「一般的需要」に応えることで、富と権力と大派閥を形成する者が出てきて、おのずと「釈尊の本来の教え」から遠ざかってしまうことになった。釈尊が語ったような「平易だけれども、容易に身につくことでもなければ、面白くもない教え」というのは、大衆ウケしなかったので、「なにやら難しげだが、それゆえに有り難い」教えが主流となっていったのだ。
仏法を保つ僧侶たちは、同じ「生の悩みや苦しみに生きる人間」ではなく「神秘的な教えを身につけた超人的なエリート」として尊敬され、ありがたがられた。だからこそ、仏法も「特別な人だけを救うもの」になってしまった。つまり、難行苦行を乗り越えたと自称する「男性出家者」しか救わないものになってしまった。世俗的な生活の必要性に時間を割かずにはいられない「在家信者」や、まして「女性信者」など、救われない存在とされてしまった。
しかしまた、庶民は庶民で、「出家者」の権威を、ありがたがるに値する「特別なもの=非生活的な力」として、それにすがりつき、「お布施」をすることで、すこしはマシになれるだろうという、儚い希望に生きたのである。
だが、言うまでもなく「釈尊の教え」とは、そんな「ケチなもの」でも「権威主義的なもの」でも、ましてや「ご大層な学問」でもなかった。
無知で貧しい庶民であっても、一心にその生に向き合い誠実に生きれば、正しく幸福に生き、そして死ねるのだと説く「哲学」であった。
そして、仏法を、そうした原点に戻さなければならないと考えた人々が、釈尊の教えへの原点回帰として、庶民にも理解できるように書いたのが、「法華経」だったのである。
つまり、法華経とは「釈尊の言葉」ではなく、「釈尊の教え」を「物語風に解説した経文」であり、その意味において「釈尊の教え」なのである。
だから、そこでは「超人的な存在」が描かれ「超自然的な物語」が展開されていたりするが、それは「釈尊の教え」を、大衆にもわかりやすくする伝えるための「比喩」であり「寓話」であって、「釈尊の教え」に反するものではない。
また、「法華経」成立当時もまだ、上座部仏教が主流派で絶大な力を持っており、その上、バラモン教の教えに発する、差別的な「カースト制度」がすでに社会を覆っていたために、それを真っ向から批判するようなことはできず、比喩的な物語のなかで、本来のあるべき教えを説くという「迂回路」も採られたし、大衆的な要望に応えるために、「法華経」本来の教えにはそぐわない、呪術的な「陀羅尼品第二十六」以下の六品が、あとで付け加えられたりもした。
つまり、これらはすべて、「現実のこの世」における「釈尊の教えを正しく伝承するための、現実的苦闘の跡」だったのである。
したがって、現にある「法華経」は、「完璧」なものではありえない。「超越的な無謬の教え」などではない。
だが、そこには「人間・釈尊」が説いた「衆生救済の、偽りなき魂」が脈々と伝えられており、その意味において「法華経」は、「釈尊の教え」を正しく伝える「唯一最高の仏法」なのである。
もちろん、「釈尊の教え」自体が、「宇宙の(宗教的)真理」などではなく、「徹した人間哲学」である以上、それが「最高唯一の真理」だということにはならない。
しかし「法華経」が、仏法の中で「最高唯一」だと言われるのは、「民衆救済のための、差別なき生の全肯定」において、不二の教えだったからである。
多くの人々が「深く難解な哲学」や「超人変身の論理」を求める時にも、ただ「すべての民衆の生の肯定」を願ったのが、釈尊の「悟り」に忠実たらんとした「法華経」の教えなのである。
本書は、「法華経」の、こうした「歴史」と「論理」と、そして「精神」を、今に生きるものとして教えてくれる、果敢な名著だと言えるだろう。
初出:2020年12月6日「Amazonレビュー」
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