ウンベルト・エーコ 『文学について』 : その〈愛〉の故に、論理的であり率直であり正直である。
書評:ウンベルト・エーコ『文学について』(岩波書店)
このようにして書かれた論文集なので、かなり専門的なものもあるし、もともと博捜博識をもって知られるエーコの論文なのだから、決してさらりと読めるようなしろものではない。
しかし、それにもかかわらず、本書はけっして難解ではない。なぜなら、エーコは「論理的」であり、きわめて親切に説明してくれるからで、少々専門的な言葉や事柄が書かれていても、読み飛ばさずに読んでいけば、ひととおりの理解が可能な文章となっているのである。
エーコについては、私は現時点で、小説作品としては
『薔薇の名前』『フーコーの振り子』『前日島』『ヌメロ・ゼロ』の4作、理論書としては『開かれた作品』『エーコの読みと深読み』の2冊、エッセイについてはいくつか拾い読みした程度だが、本書を読んで、エーコという人の「特異な輪郭」がハッキリして、とても興味深かったし、それは好意のもてる肖像だった。
エーコについて、なぜ私が好意的なのかということについて書こうとすると、おのずと自分自身のことも多少は書かざるを得なくなる。「好き嫌い」というのは、対象となる作品に内在するものではなく、作品と読者の対応関係において生じるものだからだ。
にもかかわらず、多くのレビュアーは「自分はこのような人間なので、ここに惹かれた」といった書き方はしない。「対象作品が素晴らしいから、とうぜん素晴らしいと感じられたのだ」といった書き方をする。しかし、この言明を、より正確に書き直すならば「対象作品が素晴らしいから、(それを正しく理解できる私には)とうぜん素晴らしいと感じられたのだ」となり、「()書き」の部分を補足しなければならないだろう。
言うまでもないことだが、どんなに素晴らしい作品であろうと、読者にそれを鑑賞する能力がなければ、それは「わからない」「(わからないから)つまらない」「(わからないから)退屈」だということにならざるを得ないのである。
つまり、一見「自分のことを語らず」に、その作品を絶賛する人(読者)というのは、じつのところ、暗に自分自身を絶賛しているのである。「私はこの作品が、深く理解できるよ。だからこそ、このように絶賛できるのだ」という「ポーズ」を示して、自分がどういう人間であるかの説明もしないで、つまり「理解している」という主張の「根拠」を示さないまま、自分を売り込んでいるだけなのだ。
こうした指摘を、あたりまえに行なう作家というのは、ほとんどいない。こんなことを書けば、多くの凡庸な読者に「嫌われる」に決まっているからだ。
「上から目線で、偉そうに言うな」というわけだが、じっさいのところ、何の努力もしていない読者が、エーコのような博捜博識の努力家・勉強家であり、かつ非凡な情熱家であり才人に対して、自分が「同等の立場」に立っていると考えること自体が、そもそも「身の程知らずのバカ」でしかないのだ。
だが、職業作家の多くは、本音ではエーコと大差のないことを考えていたとしても、やはり自分も食っていかねばならないから、たとえそれが不誠実な態度であろうと、「お客様は神様です」という態度を賢く選んでしまうものだし、そうしたオベンチャラに馴らされた読者は、自分を勘違いしてしまいがちなのである。
ここには、エーコという人の基本的な構えが、たいへんわかりやすく表出されている。
念のために説明しておけば、エーコがここで批判しているのは、自己正当化にすぎる「印象批評」家たちの存在である。
要は、彼らは「小説を読むのに、難しい理屈など不要である。つまり、記号論だ構造主義だといったようなものは、無価値な戯言である。小説を読むのに必要なのは、素直な感受性であって、理屈ではないのだ」と、そんな「自己正当化」を語りつつ、不勉強な一般読者に媚びて、味方につけようとするような、政治的批評家たちなのだ。
そして、エーコが主張しているのは、そういう「横着で粗雑な読み方は、文学テクストに対する敬意を欠いた、不遜で誤った態度でしかない」という、きわめて真っ当な話なのである。
もちろん、一般読者が小説を読む場合、その読者なりに楽しめればいいのだから、読解力のない読者は読解力がないなりに「浅薄なる楽しみ」を得ればいいし、読解力のある読者は相応に「深甚の楽しみ」を得ればいい。そもそも「深みのない作品」なら、読解能力など必要ないのだから、そういうものしか読まない読者なら、読解能力など無くてもかまわないだろう。
しかし、敬意を持って接するべき「深く完成された作品(テクスト)」というものは存在するし、そういうものに対してまで、読解能力をもたない読者が「感じるがままに評価すればいい」などと無責任に保証してまわる、欺瞞的な「俗情との結託」(大西巨人)は、文学を愛する者の誠意において、決して赦すことはできない。一一と、そうエーコは訴えているのだ。
エーコは、作品を愛し、現実を愛し、人間を愛する、「熱い人」だ。だから、いい加減なところで妥協もしないし、誤摩化しもしない。ハッキリと言ってやらなければわからないことも多いし、必要でありながら誰も言いたがらないことならば、自分が言うしかない、と考える人である。
だから、対象に対して熱意や愛を欠くが故に、不勉強かつ安易な態度を採る者たち、そこに開きなおって自己正当化を恥じない者たちを、エーコは決して許さない。なぜならそれは、「愛」を賭けた戦いだからである。
そして、こうしたスタンスは、なにも「文学」関係者にだけ向けられたものではない。
典型的なものとしては、「宗教」について、「オカルト(神秘思想)」について、「政治」についても、同様のスタンスとなる。
それは、すべてが「現実の中に秘められた真実」への愛に関わるものだからだ。
「神の存在」であれ「隠された真理」であれ「人民のための政治」であれ、「それを本気で求めているのであれば、そんないい加減なところで手を打って妥協し、誤摩化すことなどできる道理がないだろう」という、偽善と不誠実に対する怒りが、エーコにはある。
だが、もちろんエーコは、自分が「真実」を独占的に知っているなどという、傲慢な考えにとらわれているわけではない。
つまり、突き詰めて検証された結果としての「当面の真実」として、「百科事典」に書き込まれているすべての項目について、私たちは、先人による突き詰めの努力を尊重し敬意を払いつつも、それが「最終的な真実」ではないかもしれないという慎重さを常に忘れず、与えられたものを妄信することがないようにしなければならない。そのためにも、つねに観察し勉強する熱意を持たなければならない。
そして、それを可能にするのは、この世界への尽きせぬ「愛」なのであり、エーコという人は、そうした情熱において、文学を愛し、この世界を愛した人なのである。
初出:2020年11月21日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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