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アニエス・ヴァルダ監督 『幸福』 : 「真の幸福」などあるのか?

映画評:アニエス・ヴァルダ監督『幸福』1965年・フランス映画)

映画が始まった途端に、その色彩感覚の素晴らしさに唸らされる。ヌーヴェルヴァーグの祖母」の異名を持つアニエス・ヴァルダ監督の作品を見るのはこれが初めてだが、その際立った映像美おいては、ヌーヴェルヴァーグの中でも、ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』『軽蔑』と並ぶ素晴らしさであった。さすがにどちらも、美術畑出だけのことはある。

さて、そんなヴァルダは、『シェルブールの雨傘』などで知られる、ヌーヴェルヴァーグの映画監督ジャック・ドゥミと結婚して、亡くなるまで彼を支え続けた人でもあるのだが、色彩感覚という点では、明らかにドゥミに勝っている。
『シェルブールの雨傘』1作だけを見て、そう断じるのもどうかとは思うが、同じようにカラフルな画面作りをしながらも、『シェルブールの雨傘』の色彩設計には、いまひとつ垢抜けないところがあったのだが、こちらは完璧なのだ(ゴダールとの違いは、ヴァルダの方が、色づかいが調和的で、いわゆる女性的)。

(この写真でも、映画の色彩設計の見事さは伝わらない)

時系列的に見てみると、ドゥミとの結婚は1962年で、『シェルブールの雨傘』は1964年、本作『幸福』はその翌年ということになって、『シェルブールの雨傘』の段階ですでに結婚していたわけだが、同作の色づかいが本作『幸福』ほどではないというのは、ヴァルダが、『シェルブールの雨傘』に多少の協力はしたとしても、同じ作家として過剰な「口出し」は控えて、ドゥミのセンスを尊重したということなのかもしれない。一一また、本作主人公フランソワの妻テレーズと同様、思っていることをハッキリと口にするタイプではなかったのかもしれないなどとも、つい想像してしまう。

『シェルブールの雨傘』をことさらに貶したいわけではない。だが、本作と比べると、いろんな意味で対照的なところがあり、それでいて、そうして相違によってこそ、本作というか、ヴァルダの才能の素晴らしさが強く印象づけられるのだ。
具体的に言えば、すでに指摘した「色彩感覚」だけではなく、次のような点がある。

(1)内面描写を含む、説明的な描写をしない
(2)ドラマティックな音楽で、ことさらに物語を盛り上げることをしない

言い換えれば、上の2点において、ドゥミはというか、『シェルブールの雨傘』は、ベタ(通俗的)なのである。

まただからこそ、『シェルブールの雨傘』がウケた(ヒットした)ということもあるのだろうが、芸術作品としての完成度では、完全にこちらの方が上だと、そこは強く訴えておきたい。

私がこのように言うのも、もちろんひとつには判官贔屓はある。『シェルブールの雨傘』があれだけ評価されるのなら、本作『幸福』は、もっと知られていいとも思う。
また、本稿を書く前に「映画.com」のカスタマーレビューを覗いたところ、本作の評価が意外に低いのに驚いた。知名度は低くても、少なくとも映画ファンからは、もっと高い評価を受けているものとばかり思っていたのだ。ところが、この作品の素晴らしさが、そこでもやはり、十分に理解されていないのである。

したがって本稿では、そのあたりについて語りたいと思う。

 ○ ○ ○

本作の「ストーリー」は、次のとおりである。

『叔父とともに建具屋として働く若くてハンサムなフランソワは、婦人服の仕立てをしているかわいい妻テレーズと結婚して、快活な二人の子供ピエロとジズーとともに快適で幸せな日々を送っている。家族は郊外の森に出かけることを楽しんでいる。あり余る幸せを感じ、妻と子供たちをこの上なく愛しているにもかかわらず、フランソワは郵便局で働く魅力的な独身の女性エミリーを好きになる。エミリーは一人暮らしで、テレーズととても良く似ている(※ 必ずしもそうではない)。フランソワはエミリーに対して妻と子供たちへの愛と幸せな生活を隠さず、エミリーはフランソワが部屋に来ることを受け入れる。

森にピクニックに来たある週末、テレーズは最近特に幸せそうに見えるのはなぜかをフランソワに尋ねる。フランソワは、今のテレーズと子供たちとの幸せは決して変わることは無いが、エミリーと見つけた新たな幸せがさらに増えたことを説明する。子供たちを木の下で寝かせた後、テレーズはフランソワに彼女を愛することを迫る。フランソワは行為のあと眠りに落ち、目が覚めるとテレーズがいなくなっていることに気づく。必死に探した後、フランソワは釣り人が湖から引き揚げたテレーズの亡骸と対面する。

親戚に子供たちの面倒を見てもらうために少し郊外で過ごした後、フランソワは仕事に戻りエミリーに会いに行く。すぐにエミリーはフランソワとともに暮らし始め、彼と子供たちの面倒を見るようになる。家族は皆とても幸せで郊外の森に行くことを楽しむ。フランソワは新しい妻と子供たちをこの上なく愛し、もう一度あり余る幸せを見つける。』

(Wikipedia「幸福(1965年の映画)」

つまり本作は、ベタに言うなら「夫の不倫」の話なのだが、今の日本人の感覚では、当然のことながら、不倫をされた妻テレーズの方が、文句ひとつ言うことなく自殺したというのに、不倫をした夫フランソワの方は、不倫相手の女性エミリーと再婚し、前妻の遺した子供たちも継母に馴染んで「4人で幸福に暮らしました」というラストは、あまりと言えばあまりじゃないか、ということになる。
妻に自殺されたフランソワに「おまえ、もっと罪の意識を感じろよ。それで、妻を本気で愛していたなんて、よくも言えるな」と、そう言いたくなるのが、まあ人情なのである。

しかも、「ストーリー」紹介からも分かるとおり、フランソワは、この不倫については、心底「罪の意識」が無いようなのだ。
「人を好きになれば、愛し合うのが当然じゃないか」という、言うなれば「恋愛(真情)至上主義」であり、「愛する相手を一人に限定する社会倫理」というものに、まったく価値を見出してはいないのである。

(妻テレーズとフランソワ)
(愛人エミリーとフランソワ)

日本でも、ある俳優が「不倫は文化だ」と言い放って物議をかもしたことがあったけれど、その遥か前に、白樺派を代表する純文学者・志賀直哉が、やはり自己の「不倫」を公然と肯定して、作品化して見せている(妻の立場もあったものではない)。いわゆる「不倫」を「不倫(倫理に反すること)」だとは考えず、「好きになってしまったものは、仕方がないではないか」という態度を公然と採ったのだ(当然、妻の立場もあったものではない)。

しかしこれは、「開き直っている」ということではない。志賀は、「自然主義」文学者らしく、それが「自然なこと」ならば、イデオロギー的に否定する方が「不自然(作為)」であり、そっちの方が「おかしい」という信念を持っていたのである。
そして、本作『幸福』のフランソワの「恋愛」に関する考え方も、ほとんど志賀直哉と同様のもので、自分のしたことは「恋愛」であって「不倫」だとは感じていないから、おのずと「罪の意識」も無いのだ。

ただ、志賀直哉とフランソワの違いは、志賀直哉が「自然主義文学私小説作家」として「あるがまま」を肯定する(「作為」を嫌悪する、という)「信念」において、いわゆる「不倫」が悪いことだとは、断固として考えなかったのに対して、フランソワの方は、ごく素直に「だって、愛してしまったら、愛し合うのが当然でしょう。人が愛し合うことは、悪いことではないはずだ」という感じで、自身の自然な「感情」を、素直に肯定している点であろう。

そんなわけで、今の日本人が見たら、昔の日本人よりもはるかに、フランソワの「自由恋愛」的な感覚が理解できない。
「なんでそんな酷いことができるの」と、そう感じるのは、今ではむしろ当然のことだろう。

そして、こうした感じ方の背景には「フェミニズム」の浸透ということもある。
昔の「不倫」文化は、基本的に「男にだけ許されたもの」であって、女性には認められていなかった、極めて「女性差別」的なものだったのだ。

志賀直哉の「不倫」肯定が、女性にもそれを認めるほどのものであった否か定かではないが、少なくとも当時の日本では「夫が不倫をしたから、妻もそれを仕返して当然」という雰囲気ではなく、妻の方はそれに「ひたすら堪える」というのが当たり前であった。なにしろ「男の浮気は甲斐性のうち」だと言われ、逆に女性の方は、その事実を知りながらも、眉ひとつ動かさずに家庭を守るのが「出来た妻」であるかのように語られていたのだ。
これが、いわゆる「家父長制」的な女性差別であるというのは言うまでもなく、「フェミニズム」が外国から入ってきて、日本の女性たちに対する、こうした理不尽な差別状況が改められていったのは、当然のことだったのである。

だが、ここで問題なのは、本作『幸福』フランソワの恋愛観は、かつての日本のそれのように「片務的」なものではなく、「僕もそうするが、君もそうしたら良い」という感じのものである蓋然性の高いことだ。
フランソワはテレーズに、一方的に自分の「不倫」に堪えろと要求しているわけではなく、「君もわかってくれるだろう? 僕はおかしなことなんて言ってないよね? 人を愛するのに、人数制限をするようなことは、そもそもおかしいんじゃないかな?」といった風なのである。

(※  ちなみに、フランソワは、ブリジッド・バルドー(BB)がお気に入りようで、職場のロッカーやエミリーに部屋の壁にまで、BBの写真を貼っている。そしてこの点から、BBを一躍スターにしたデビュー作『素直な悪女』を撮った、モテ男のロジェ・ヴァディム監督が、フランソワに重ねられている可能性は十分にある。ヴァディムの華麗な結婚歴を参照のこと)

そして、詳しくは語られていないが、フランソワの「恋愛観」がそういうものだった場合、そんな「自由恋愛観」は、必ずしも否定できないものとなってしまうために、問題は少々複雑になってしまう。
つまり、もしもテレーズが、フランソワの「恋愛観」に、心から納得し賛成できたとすれば、それはそれで、そういう恋愛観も、両者が同意したものとして「あり」なのではないかということだ。
両者が「配偶者以外を愛することも認める」という「思想」を共有するのであれば、片方が「浮気」をしても、両方が「浮気」をしても、それは「不倫」にはならず、夫婦に共有された「思想」の体現だということができるだろう。そしてその場合には、一方が他方を「差別」していることにはならないのである。

フランソワの場合は(志賀直哉とは違って)、たぶん、自分のそんな「恋愛観」を妻のテレーズも理解共感してくれるはずだとそう思って、(多少の不安はあっただろうが)正直に打ち明けたのではないだろうか。事実、本作の描写を見るかぎり、そのようにしか見えない

だから、テレーズがそこで「それは違うわ。私はそんなこと、とうてい認められない」ときっぱり言っていれば、フランソワとて、テレーズの意見を尊重しないわけにはいかなかったはずだし、フランソワは、そういう点ではナイーブなまでに「誠実」な男だったのではないだろうか。

したがって、ここで問題なのは、なぜテレーズは、フランソワからの打ち明け話があったときに、その話に対して「拒絶」を示さなかったのか、どうして「納得したような様子」まで見せてしまったのか、という問題である。

そして、ここで言えることは、人間というのは「自身の正直な感情を、そのまま正直に語れる人ばかりではない」という事実である。「イヤなものはイヤ」と、そう言えない人は、決して少なくないのである。

(娘ジズーとテレーズ)

つまり、たぶんテレーズとしては、夫フランソワの「恋愛観」を、理屈としては「理解できる(わからないではない)」と感じたのではないだろうか。だから、納得したような態度を採ってしまった。
しかし、やはり「感情」の部分では、夫が別の女と愛し合うことなど到底我慢できず、言うなれば「自分自身の理屈と感情」の板挟みになってしまったから、夫を責めることもしないまま、自殺してしまったのではないだろうか。

(森で仮眠している間に姿の見えなくなったテレーズを探す三人)
(テレーズはすでに池で溺死していた)

そう考えると、ここには、人間のコミュニケーションの、本質的な「断絶」という難問があると言えよう。

要は、「感じ方は人それぞれ」であり、その感じ方によって「思想も人それぞれ」なのだから、どういう思想を持っているのかは、「言葉にしなきゃわからない(伝わらない)」というのが「大原則」ではあれ、しかしまた「それが言葉にできない(したくないと感じる)人だっている」という現実があって、それを否定することはできない。
なぜなら、それはそれで「一つの意見であり立場としての沈黙」であり、それを「言葉にしなきゃわからない(伝わらない)」という「言論主義」的な「思想」によって、一方的に否定するのは、「アンフェア(不公正)」だからである。

では、「思っていることを口にできない人」には、どう対するべきなのか。
「思っていることを話してくれよ」といくら言っても無駄なのであれば、それはやはり、相手の気持ちをこちらの方から「推察」するしかないし、これを悪く言えば「忖度」するしかないということになる。

「彼女の性格であれば、きっと 僕のこういう考え方は理解できないだろう」とそう推察できれば、妻にとって認め難い「浮気」など、そもそもしないか、仮に、そのつもりでも「つい、他の女性を好きになってしまって、深い関係になってしまった」場合は、馬鹿正直に話すのではなく、それを妻に隠すことで、自分が一方的に「罪を背負い、結果責任を負う」しかないだろう。

ここで私が、単純に「浮気は不倫であり、絶対ダメ」と言い切ってしまわないのは、私自身が、同時に二人の女性を好きになってしまった経験があるからだ。しかも、私はもともと「一人の女性を愛するべき」という思想を持っていたにも関わらずだ。
つまり、意志に反して否応なく「好きになってしまった」のであり、その事実は否定のしようもなかったのである。

そして、そうした「二人を同時に好きになる」といった場合だけではなく、一人の人を好きになる場合であっても、「恋に落ちる」というのは、所詮「脳科学的な現象」でしかないと、今ではそう考えるから、おのずと「理性だけでは、どうにもならない(制御しきれない)」ものだと、今ならそう考えることもできる。だがまた、これは「だから、それで良い」という意味でもない。
要は、頭の中に存在する「好きスイッチ」が入ってしまったのだ。自分が自由意志でスイッチを入れたのではなく、あらかじめ設定されていた条件に従って、「自動的」にスイッチが入ってしまったのだから、「好きになってしまったこと」自体は、もうどうしようもないのである。

言うまでもなく、私の「思想」は、「自由恋愛主義」ではないし、「浮気」は「不倫」だとする立場なのだが、そういう「思想」を持っていながらも、いつ何どき「スイッチ」が入ってしまうかもしれない、とは思っているのだ。自分の「思想」や「理屈」なんてものは、「動物的本能」の前では、大いに無力だと、そう考えているのである。その点で私は、自分を過信してはいないのである。

では、そういう「不慮の(不慮でしかあり得ない)恋愛」というものに、どう対するのかと言えば、「君子危うきに近寄らず」。一一これである。

好きになった相手が、必ずこっちを好きになってくれるのであれば、無防備に好きにもなれるだろう。しかし、自分で言うのもなんだが、結構な面食い(これも、思想ではなくて、脳に仕込まれた条件)なのだから、当然のことながら「片思い」だとか「フラれる」ことの方が多く、フラれれば当然、とても苦しいのだから、それなら「恋愛」なんかしない方がマシなのである。実際、見栄を張らなければ、恋愛は「しなくてはならないもの」などではないのだ。
かつて槇原敬之「もう恋なんてしないなんて、言わないよ絶対」と歌ったが、それはラブソングの話であって、極めて理性的な私は、そんな「割の悪い賭け」をする気はなく、そういう場から身を遠ざける方を選んだのである。

そして、このように「合理的」に考える私が、本作のフランソワとテレーズの夫婦関係を見た場合、本質的な間違いは、双方ともに「恋愛」を、なにか「至高の価値をもつもの」ででもあるように思っていた点にあると思う。
一一そしてこれは、フランソワが、極端な「恋愛至上主義」のバカ者だとか、想いを言葉にできないテレーズが可哀想とか言っている、本作の鑑賞者の多くもまた共用している、「精神論的恋愛観」なのではないだろうか。

わかりにくいと思うので繰り返すが、私が考えるのは、「恋愛」とは所詮「脳科学的物理現象」にすぎない、ということである。
ほとんどあらかじめプログラミングされた「条件設定」に合致する、異性または同性に出会った時、頭の中の「恋愛スイッチ」が自動的に入って、人はその人物を「好き」になってしまう。
それは、「恋」とか「愛」とか、何やら意味深げな言葉で「神秘めかした価値」が与えられているけれども、所詮それは「科学的な、
脳内快楽物質の過剰分泌状態」でしかなく、平たく言えば「生存本能に由来する、一時的な狂気」でしかないということだ。
実際「恋している」時の、あの異常に昂った「気持ち」とは、とうてい「理性的=精神的」なものではなく、「物理的に強制的」なものであって、「麻薬を射たれて気持ち良くなった」というのと、本質的な違いはないと、私は斯様に考えるのである。

だから実際のところ、そうした「好意感情の異常亢進状態」というのは、その対象を自己のものとして確保してしまうと、ほとんど冷めてしまう。結婚してしまうと、そういう状態が自動的に解消されてしまうというのは、「恋愛感情」というものの大半は、「科学反応的なもの」であって、「理性的なもの」でも「思想的なもの」でも「精神的なもの」でもないからであろう。
そこで、多くの人は仕方なく、そうした「一時的な狂気の感情」が失われたことについては諦め、現状を追認して、もっと「親密な愛着感情」を養うことや「子は鎹」ということをもって、半ば「結果としての現状の維持義務」的ものから、夫婦関係を保持しようと考えるのではないだろうか。
当然、それが出来ない人も多くいて、だから離婚をするのだ。

(完璧な家族に見えた4人)

まあ、ここまで言ってしまうと、結婚している人、子供のいる人には申し訳ないのだが、私はこのように「科学的」に、人間の「性行動」を見ているということであり、これが絶対に正しいと言っているわけでも、そう言いたいわけでもない。
一一ただ、ほかの人のように、「紋切り型の恋愛観」を鵜呑みにはしていないというだけの話なのである。

そして、こういう私からすると、本作におけるフランソワとテレーズ夫妻の悲劇とは、結局のところ「恋愛に関するプログラムの違い」による「絶対的な断絶」の悲劇だということになるだろう。
結局のところ二人は、相手の「感じ方」を「実感として理解する」ことができなかったために、その悲劇は半ば必然的に起こったのだ。

だから、フランソワが、テレーズに死なれた後、ぬけぬけとエミリーと再婚し、その再婚家庭も問題なくうまくいって「幸福」になったのも、フランソワに「テレーズに申し訳ない」という「罪の意識」が「無い」のだとしたら、これはもうどうしようもないと思うのだ。
言うなれば、フランソワの「罪の意識の欠如」による「幸福」とは、「心神喪失状態による犯罪」みたいなもので、その「責任能力を問えない」種類のものだと考えられるのである。

だから、今の日本の多くの人が、フランソワに対して感じるであろう「少しは罪の意識を感じろよ」とか「再婚によって得た今の幸福は、本当の幸福だと言えるのか。それが、愛した前妻を犠牲にしたものであっても、幸福になれるものなのか」と、その「倫理」を問い、責めたところで、意味はないのだと思う。
フランソワは、実際に「罪の意識」などは感じておらず、再婚によって得た新しい家庭に「幸福」を感じているというのは、本作における描写を尊重するかぎり、否定できないところだからだ。
したがって、多くの人は、彼のようには感じられなくても、彼にはそう感じられているのだから、それをこちらの「価値観」で、一方的に責めてみても仕方がないのである。

したがって、私たちが本作を見て考えるべきは、他でもなく私たち自身の「正義観」や「幸福観」や「恋愛観」の方ではないだろうか。

たしかに「価値観は人それぞれ」では済まないから、社会には「法律」や「倫理・道徳」や「マナー」といったものが存在して、個人の価値観を、一定の枠内に止めることで、社会がうまく回るようにしてはいる。
しかしそれは、そうした「社会規範」が、そもそも共通の「真理」や「現実そのもの」ではあり得ないからこそ、突き詰めていけば、最後は「分かり合えない」部分が残るのではないか。

そう。私がここで言いたいのは、フランソワの「価値観」や「現実認識」、例えば「幸福に対する現実認識」に対し、「それはおかしいだろう」と責める貴方の「価値観」や「現実認識」だって、実は微妙なところでは人と違っているという事実なのだ。
だから人は、わかり合っていたはずなのに「あんな人とは思っていなかった」などということにもなるのではないか。所詮は「他人」でしかないものを、愛したからといって「わかった」つもりになっていることの方が、よほど「脳内麻薬」の見せた幻想であり勘違いなのだと、そう言えるのではないだろうか。

本作が「わかりにくい」のは、テレーズが自殺した後、エミリーと再婚したフランソワが、何の疑問もなく「幸福」そうにしており、前妻に対する「罪の意識」や「後悔」といったものを微塵も感じさせず、また監督も、それに対して、何ら懲罰的なものを課していない点であろう。
「どうして、こんな男が、のうのうと幸せになるの?」と、多くの「倫理的」な人たちは、その「因果応報」に反した「現実」に、納得がいきかねるのだ。

だが、ヴァルダ監督が、フランソワの「幸福観」に対し、あえて自己の「価値観」を対置して、それを物語上で強制したりしなかったのは、たぶん、それが「意味のないこと」だからだろう。
フランソワを作品の中で罰したところで、それは所詮「違った価値観の押し付け」にしかならないと、そう冷静に理解しているからではないだろうか。

アニエス・ヴァルダ監督はラストシーンで、フランソワの再婚家族の、完全に「幸福」そうな後ろ姿を描くことで、この「幸福」に疑義を呈したと言うよりは、むしろ、これは「彼ら家族」にとっては、真の「幸福」なのだという事実を、あえて淡々と描いたということなのではないだろうか。
そうすることで、私たちの「幸福」が、いかなるものかを問うたのではないか。

(エミリーと再婚したフランソワ。家族4人は仲睦まじく幸福そう)

私たちの今が「幸福」だったとしても、その「幸福」だって、じつはフランソワのそれと大差ないものなのではないのか。
つまり、私たちの「幸福」だって、多かれ少なかれ他人の犠牲に上に立ってのものなのだけれど、そんなことを気にする者など、ほとんどいないのだ。

だがそれを、フランソワの「幸福」を通して反省してみる時に、本作のリアリズムの「凄み」が、多少なりとも理解できないのではないだろうか。

ある意味でフランソワは、本気で「理想」を語る、私たちの似姿なのである。


(2025年1月25日)


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