須賀敦子 『コルシア書店の仲間たち』 : 朽葉色のフィルター
書評:須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)
本書のレビューは、ponzoh(※ 現在は「 kentaroh」)氏の「頭で読むのではなく心で読むエッセイ」に尽きると思う。
まったく同感だ。
だが、その上で、このレビューが完璧なのは、タイトルの「頭で読むのではなく心で読むエッセイ」という評価の方であり、星5つではなく「星3つ」という、レビューの中身の割には辛い評価の方だ。
なぜ、ここまで誉めておきながら「星3つ」なのか。
それは、本作には、そしてたぶん須賀文学には『頭で読む』部分が不十分だと感じられたからであろう。
ponzoh氏と、結果的評価はまったく同じなので、私は以下に「星3つ」の意味を論じたいと思う。
○ ○ ○
ponzoh氏は、本書の「気に入ったフレーズ」として、次の引用部分を紹介している。
なぜ、ここなのか。
それは、ここに本書の、そして須賀の本質がよく顕われているからだ。
つまり「ガイド・ブックではなく、記憶」とは、「他者の視点ではなく、自己の視点」ということであり「頭(理性)で書くのではなく、心(情緒)で描く」ということだ。その結果「頭で読むのではなく心で読む」作品になっている、という評価なのである。
もちろん私は、本書が「非理性的な作品となっていて、よろしくない」などと言っているのではない。そもそも「文学」というものは徹底的に「個人の視点」に拠るものであって、客観的事実では「文学」にはならない。
しかしまた、では「文学」には「客観性の強度」が必要ないのかと言えば、決してそんなことはないし、須賀自身もそのことは重々承知している。
「客観的事実」などという怪しげな権威に盲従せず、徹底的に「個人の視点」で、著者が全責任を負って書かれるべきが「文学」だからこそ、そこには「主観的視点を厳しく戒める客観的視点」を「著者自身の(主観的)視点」に繰り込むことが必要なのだ。その「個人の中における、主観と客観(理性と情緒)の葛藤」が十二分にあってこそ、個人的な作り事でしかない「文学」は「客観的事実」を越えて行く強度を備えるのである。
そして、須賀自身もみとめる「客観性」の重要性とその強度において、本書『コルシア書店の仲間たち』は、著者自身が思っているほどのものであり得たかという点で、私は(そして、たぶんponzoh氏も)「星3つ」という評価を下した。
と言うのも、私には(そして、たぶんponzoh氏にも)、本書はどこか『童話めいていた』もののように感じられたからである。
たしかに、酔わせる「物語」にはなっている。しかし、これは「須賀敦子という朽葉色のフィルター」を通して「美化されたフィクション」だからだ。
エッセイが「事実そのまま」を語るものでないことは、もはや縷説するまでもないだろう。
こうした意識が、著者の根底に伏在しているのだから、エッセイだって同じなのである。
そして、このような「虚構化」のあることを意識して読み、その演出効果を差し引く(フィルターをはずす)ならば、本書の登場人物たちもまた、意外に私たちの身近に(日本にも)いる「普通の人」でしかない、と感じられるのではないだろうか。
彼らの生きる様が、あのように「切ないドラマ」として読まれてしまうのは、その設えられた「美しい舞台」と「去りゆくものの物語」として強調された陰影が、著者の「願望」の反映として、色濃く与えられていたからではないか。
では、須賀敦子の描く世界を支配する、その「願望」とは何か。
それは「夢見られた理想が色褪せていくなかで、ぎりぎり救い出される記憶(思い出)」である。
例えばそれは、本書冒頭のエピソードで印象的に描かれる、コルシア書店のパトロンである老女ツィア・テレーサや、詩人で左翼で傍若無人なダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の描き方に典型的であろう。両者はともに、最初は一種の「憧れの人」として見られていたが、テレーサは老いてその魅力を失い、ダヴィデ神父はだんだんその雑な思考が明らかになって、著者の尊敬を失う。
また、ミケーレやアショルだって同じだ。彼らは「変わった」かも知れないのだが、著者は「記憶の中にいる彼ら」にこそ愛着する。
そして、こうした経緯は「コルシア書店」の経緯そのものでもある。ありし日輝いていたコルシア書店は、やがて寂しい落日を迎える。
本書はそういう「物語」なのだ。
しかしながら、たぶん著者には、自身が「コルシア書店」やその「仲間たち」に対して、かなりのところ客観的であり得ているという自信があったろう。それは彼女自身、カトリック信者でありながら「教会権力批判」をして見せたりするところや、
と、イタリアの女たちの「情緒性の強さ」に比して、自身の『知的なそっけなさ』を高く評価している点にも、著者の自己認識が窺える。
しかし私は、客観的に見て、著者が『知的なそっけなさ』を十二分に備えた人だとは思わない。
それは、他者を語った場合の、つぎのような評価に明らかだろう。
著者は、自身の「知性」を十二分に自覚していて、自信も持っている。だからこそ、無教養な者の中に本物の知性を見たり、教養高き人たちに死んだ教養を見ることも出来るのだ。
だが、「知性」や「理性」や「教養」のある人が、十二分に自身の「情緒」をコントロールできるとは限らない。
と言うよりも、「情緒」は、「知性」や「理性」や「教養」では、基本的にコントロールできない。それは、性的禁欲の誓いをたてたカトリック神父たちによる「児童虐待事件」の頻発など、人間の「動物的(物理的)本能」に由来する問題に明らかなのである。
「情緒」を単なる「気分」くらいに考えているから、それが「知性」や「理性」や「教養」あるいは「意志の力」でコントロールできるなどと軽く考えてしまう。
しかし、麻酔薬や覚醒剤などを射たれれば、人は誰でもその薬効によって、通常の認識能力を失ってしまうのと同じで、「性欲」も各種の「情緒」も、それらは単なる「気分」などではなく「脳内における物理的化学反応(脳内物質による科学的現象)」だと理解すれば、「知性」や「理性」や「教養」や「意志の力」で「情緒」がコントロールできる、などというお気楽な(情緒的な)思い上がりは、とうてい持てないのはずなのである。
そして、このような「つめたい」までの客観性にさらされたとき、須賀敦子の、自己認識の甘さゆえの「客観性の不十分さ」と「情緒性」も、おのずと明らかになるのだ。
じつは私は、本書を「キリスト教研究」の一端として読んだ。
須賀敦子という「神の実在を信じる人」の、文学者としての「目の強度」を測るために読んだのだ。だから、その「物語」に気持ちよく酔うことを期待して読んだ人とは、おのずと読みの態度や心構えも違っていたのである。もちろん、作品は楽しめばいいし、本書は楽しめる作品だが、私が注目したのは、その「強度」だったのである。
では、こんな私と同じような評価をし、しかしそれを率直に語りはしなかったponzoh氏とは、どういう人なのか。
氏がフォローしている作家が『言ってはいけない 残酷すぎる真実』などの著者として知られる「橘玲」であることを知れば、おのずとその立ち位置も理解もできよう。
橘は前記『言ってはいけない』で脳科学的知見を援用し、好んで、人の「願望充足的幻想」を暴きたてている、「つめたい」どころか「あつい」くらいに「イケズ」な理性の人なのである。そしてponzoh氏は、橘玲ほど「あつい」イケズではなかったものの、「つめたい」客観性は持っていた、ということなのだろう。
近年、「脳科学」が「信仰」の根拠を揺るがせているように、すこしでも橘玲的な「冷徹な視点」を持っている人であれば、須賀敦子の無自覚な「甘さ」や「弱さ」は、彼女がカトリックであることを知らなくても、明らかであろう。
そういう読者にとっては、文春文庫版解説者である松山巖のような「感情移入」的評価は、とうてい下し得ない。そして、その結果が「星3つ」だったということなのである。
しかし、彼女が、このような「現実の黄昏」を受け入れることが出来たのは、たぶん「神」だけは不変であり、いつもそこにいるという安心感が残ったからなのではあるまいか。「孤独」ではなかったからではないだろうか。
しかしまた、「文学」の神は、仲間内の幻想や馴れ合いや依存を排除して、「孤独」を突き詰めた先にこそ立っている。
「古き良き文壇」における忌憚のない相互批評が失われ、商業的な「売らんかな」の提灯持ちが当たり前になった時代に、作家・須賀敦子は生まれた、と言っては、『純粋を重んじて頭脳的なつめたさのまぬがれない』評価だと評されてしまうだろうか。
初出:2019年3月17日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
○ ○ ○
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
・