アビゲイル・シュライアー 『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』 : 現実を直視しよう。
書評:アビゲイル・シュライアー『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』(産経新聞出版)
最近「トランスジェンダー」に関する話題が、一部で注目を集めている。だが、「トランシジェンダー」そのものが話題なのでもなければ、「トランスジェンダーの人たち」が話題なのでもない。
本書のタイトルは、原題の直訳だと『取り返しのつかないダメージ』というものなのだが、一方、邦題の方は『トランスジェンダーになりたい少女たち』となっており、このこタイトルからも分かるとおり、本書で問題となっているのは、「トランスジェンダーになりたい人たち」であり、中でも、その大半を占める「少女たち」でなのだ。
そうした少女たちの人数が膨大なものになっていて、それが欧米では社会問題視され始めているのである。
「本物のトランスジェンダー」がトランスジェンダーなのは当然で、それは「なるもならないもない」のだが、「トランスジェンダーではない」疑いの濃厚な、主に十代半ばの少女たちが、こぞって「トランスジェンダー」に「なりたい」と言い出して、ホルモン注射や乳房の切除手術を望んだりし始めている。そこが問題なのだ。
そしてさらに問題なのは、今のところ欧米先進国限定の話なのだが、こうした少女たちの「希望」に対し、学校や医療機関などの公的機関が、きわめて「協力的」であり、基本的に「当人の希望と性自認を尊重して、反対はしない」というスタンスを採っている点である。
言うまでもないことだが、「性自認の一致しない人」であるトランスジェンダーというのは実在しており、当然のことながら、その「特異なジェンダー」のあり方も、尊重されなければならない。
しかしだ、そうした人たちが、ごく少数だというのは、常識的に考えても分かることで、これまでは全人口の0.01パーセントほどだと考えられていた。
ところが、近年にわかに「私はトランスジェンダーだ」とカミングアウトする思春期の少女たちが、アメリカなどでは、同世代の少女たちの、じつに4割にも達するというのである。
まあ、こうした数字がどの程度正確なものなのかは知らないが、とにかく途方もない人数の少女たちが、自分はトランスジェンダーであり、女性という性を「捨てたい」と訴え出したというのは事実のようで、これを「異常事態」だと考えない方がおかしい。
ところが、「性自認の尊重」という「正論」的な観点が行き渡ってしまい、法制化までされたために、医師であっても「君はそう思っているかもしれないが、それは一時的な錯覚や誤解かもしれないから、薬物治療や外科手術などは、しばらく控えた方が良い」などという常識的な助言が、法的に、できなくなっているというのである。
そんなことを言うと、途端にネットなどで「あの医者は、トランスジェンダー反対派の差別主義者だ」という「悪評」を広められてしまい、仕事にならなくなったり、その地位を奪われたりする。つまり、「キャンセル」されるのである。
こうした点において、少女たちとは縁もゆかりもない、野暮なジジイの私と「トランスジェンダー」問題に接点が生じた。
私は最近になって、「武蔵大学の教授」で「映画評論家」の北村紗衣という人物による「キャンセル」行動への、批判を始めた。
なぜ始めたのかといえば、私の「発言権(言論の自由)」を、北村紗衣によって、一部「キャンセル」されてしまったからだ。
こう書いても、何のことだかわからないだろうから、少し説明させて欲しい。
私が、たまたまネット上で見かけた、北村紗衣という見も知らぬ「映画評論家」の発言について、根拠を示した上で「馬鹿丸出しだ」と酷評した。
すると、思いもかけず、北村紗衣は、私に対し、ひとことの反論や批判もないまま、私の批判の言葉尻だけを捉え、そこだけを「切り取り・改変」して、さも私が「脅迫行為」をしたかのように偽って、そのコメントが掲載されているSNS「note」の管理者に、いきなり「削除要請通報」をしたのである。
まさしく、こんなことがあるのかというような事態だ。
だが、その結果、その「須藤にわか氏による、北村紗衣批判のnote記事」への感想として、そのコメント欄に書き込んだ私のコメントは、管理者からの強制介入を危惧した須藤氏の判断によって、その記事ごと「自主削除」されてしまった。
さらには、北村紗衣のそんな、非言論的な「キャンセル」手法を批判した、私の最初の「北村紗衣批判記事」までが、同様の経緯で、今度は「note」管理者によって、強制的に「閲覧停止」にされてしまったのだ。
「削除」こそされていないものの、今も一般には「閲覧不能」状態であり、実質的には「削除」状態になったままなのである。
で、こういうことをされると、普通の人であれば、「note」のアカウントまで停止されるのではとびびってしまい、そこで「北村紗衣批判」をやめてしまうだろう。また、北村紗衣は、まさにそれを狙って、故意に、自身の苦手な(勝ったためしのない)「論戦」は避けて、裏から手を回す「管理者通報」によって、私の「発言権」をキャンセルしようとしたのである。
また、実際「Twitter(現「X」)」の方では、北村紗衣による「管理者通報」や「ファンネル・オフェンス」を利用した「恫喝」によって、「北村紗衣批判」はもとより、北村紗衣の映画作品評価に対して「異論」と唱えることさえ、不本意にも止めざるを得なくなった人たちが続出した。
彼らの場合、「Twitter」をやめてしまうわけにはいかない諸事情があったので、やむなく退き下がらざるを得ないという、屈辱を味わわされることになったのである。
私のように、「アカウント」が停止や凍結になってもかまわないから、言うべきことは言うなどと、気楽に構えている者など、滅多にいない。
有名人は有名人なりに、無名の者も無名の者なりに、使い慣れた「SNS」は、もはや「生活の一部」となっており、そこで築き上げた「人間関係」もあるのだから、それを全部チャラにするなどという覚悟は持ちようもなく、私のような、文字どおりの「一匹狼」でなくては、それは選び得る選択肢ではないのである。
しかし、こんな私だって、初めて「mixi」のアカウントを凍結された際には、かなりのショックを受けた。
もう10年以上も前の話で、その時は、「ネット右翼」とのバトルを派手にくり広げていたのだが、私としては、間違ったことをしているわけではない(これは私にしか出来ない、必要な、批評批判である)という確信があった。
それで、アカウントが停止になるまで、ネトウヨたちによる「管理者通報」が幾度となくなされ、一方、内容のいかんに関わりなく「揉め事」を嫌う管理者からの「警告」を何度も受けていたにもかかわらず、私は「アカウント停止」になる覚悟を持って、徹底的に「ネトウヨ批判」をくり広げたのだった。
そして、その結果として、ほとんど必然的に、私は「mixi」のアカウントを失うことになったのである。一一今の言葉で言うなら、私は「mixi」から「キャンセル」されたのだ。
しかし、こんなふうに覚悟を持ってやっていた私であっても、初めて「アカウント」を奪われた時には、やはりショックであった。「mixi」を通じてできた幾人かの友人もそれで失った。「mixi」を介してのやり取りに慣れていたから、それ以外の連絡方法までは確保していなかったためである。
だが、こうした経験を通じて、私は、「SNSを通じて得た人間関係」といったものと「言論の自由」のどちらかを選ばなければならないのなら、私は「言論の自由」を取ろうと、そう覚悟した。
実際、アカウントを守るために、意に反して「口をつぐむ」などということをしたら、一生後悔することになるとわかっていたからである。
もちろん、みんな「管理者通報によるアカウント停止」を恐れて口を噤むのだから、私が同じことをしたとしても、それを表立って批判する者などほとんどいないはずだ。しかし、そうとわかってはいても、やはり自分の気持ちだけは偽れないし、きっとその屈辱を忘れることもできない。
だから、一一そんな「恥の記憶」をいつまでも抱えていくくらいなら、それでアカウントを失おうと、友人知人を失おうと、私は言いたいことを言う方を選ぼうと、そう決めたである。
そしてその結果、「mixi」で2回、「Twitter」で2回、アカウントを停止されてしまった。2回というのは、アカウントが停止された後に、新たにアカウントを作ったからなのだが、もちろん、その段階ではすでに「やりたいようにやる」という、基本的な覚悟は定まっていたので、新たに友人を作るいとまもなく、同じような経緯で、再びアカウントを奪われたのであった。
そして、その後に始めた、人間関係を構築することのない「Amazonカスタマーレビュー」でも、管理者による「レビュー削除」の基準が不明確であったため、その点について、何度も管理者に噛みついた結果、とうとう「投稿禁止」措置になってしまった。
「投稿禁止」というのは、レビューの投稿はできないが、アカウント自体は残してあるので「買い物はできますよ」という舐めたものだったのである。
で、Amazonの管理者を徹底的に糾弾していた頃には、すでに「アカウントを停止されるかもな」と思っていたので、新たに「note」を始めて、そちら(こちら)にレビューの転載作業を進めていたのだが、タイミングよく、それが終わった後に、案の定Amazonから「投稿禁止」となり、「レビューの全削除」がなされたのである。
そんなわけで、もはや私は、ひとつの「SNS」に依存することはしないという覚悟ができた。
つまり、言いたいことを言って、それでアカウントを奪われるのであれば、それも覚悟の上だと腹を括ることができるようになったのである。
それに、私もすでに還暦を過ぎて、自分の寿命を考えるようにさえなったのだから、ましてや「SNS」上のデータが永遠ではないことくらいは、実感を持てるようにもなったのだ。
つまり、「note」に転載したり書き下ろしたりした、1000本を超えるレビューが、仮に、一瞬にして消えたとしても、それはその時だと思えるようになった。
無論、それもショックはショックだろうが、書く場所が無くなっても、本を読んだり、諦めたプラモ作りを再開するなど、やりたいことは他にもあると、そう考えられるようになったのである。
もちろん、今のところ、すべての記事のログは採ってあるから、「note」のアカウントを失っても、他のSNSに移行することはできる。しかし、それは本質的な問題ではない。
いくらデータを他所に移したところで、私が死んだ後まで、それが永遠に残るという保証など全くないのだし、そもそも、死んだ私にとっては、それが残ろうと残るまいと、ぜんぜん問題にはならないと、そのように考えられるようになった。
死ねば、どんな有名人も流行作家も、遅かれ早かれ忘れ去られていくというのが、この世の定めなのだから、私の書いたものが残らないくらいのことは、むしろ当然なのだと、そういう覚悟ができたのだ。
ま、そんなわけだから、私は「SNSのアカウントを守るために沈黙する人」の気持ちもわからないではないので、それを責める気はない。
しかしまた、私個人としては、それは「やっぱりカッコ悪い」という実感も否めないから、自分でそれをしようとは思わないのである。
したがって、北村紗衣に「管理者通報」で恫喝されても、そんなもんは無視して、どんどん批判を続けた。
そして、そんな「北村紗衣批判」関係のレビューがどんどん増えていくと、たぶん北村紗衣の方も、その度に「管理者通報」するというわけにはいかなくなってきたのだろうし、「note」の管理者だって、そう無根拠かつ唯々諾々と削除要請に応じるわけにはいかないかから、北村紗衣の「管理者通報」という「キャンセル手法」は、私には通用しなくなり、今や私を「完全黙殺(無視)」するしかなくなったのである。
つまり、私にとっての北村紗衣は、もはや、手応えがなく物足りない「サンドバック」になってしまったのだ。
そのため、何度も「ほら、殴り返してこいよ」と挑発しても、北村紗衣は、「Twitter」アカウントを持たない私に対しては、「ファンネル・オフェンス」を使役することもできず、手も足も出ない状態になってしまったのである
さて、私は、これまでこのような経験を積んできた人間なので、当時はまだ、「キャンセル」という言葉こそなかったものの、「キャンセル」的な手法については、実感として、よく知っていた。
しかしながらまた、そうしたやり方は「ネット右翼」のような「卑怯な匿名のクズ」どものやることであり、恥を知る当たり前の人間にはできないことだと、そうも思っていたのだ。
だからこそ私は、いつだって嫌がらせの書き込みをしてくるような匿名者に対しは「自分が正しいと思うんだったら、堂々と反論してこいよ。このヘタレの卑怯者が」とあからさまな挑発と侮蔑をぶつけてきたのだし、こうした言葉は「卑怯者の心」にさえ、「引っ掻き傷」くらいはつけるものだと信じてきたのである。
ところが、弱者の味方であるはずの「フェミニスト」を自称する北村紗衣のような人間が、あるいは「大学教授」という社会的な地位のある人間が、つまり、一般的には「左翼」とか「リベラル」などと呼ばれている、「知識人」とされる人間が、正々堂々の言論にはよらず、まさかいきなり「管理者通報」などというケチな手段を、(多少、表面を繕うとはいえ)当たり前のように採るなどとは、想像だにしなかった。
その現実を目の当たりにして、さすがの私も、激怒する以前に、驚きを禁じ得なかったのだ。
卑怯なのは、何も「ネトウヨ」たちばかりではなく、「左翼」や「リベラル」を自称する人たちの中にだって、当然、似たような人たちはいるだろう。だから、それだけなら、さほど驚きはしない。
問題は、「恥ずかしい行いだからこそ、匿名でしかできない」はずのことを、北村紗衣が、ぬけぬけと本名でやって見せたところなのである。
もしかすると、この「厚顔無恥」は、ご当人がひけらかすように語る「発達障害」に由来する「他人の心への鈍感さ」の故なのかもしれない。
なにしろご当人が、そう証言しているのだ。「私は昔からそうだった」のだと。
無論、「ネトウヨ」から「パヨク」呼ばわりされることの多かった私としては、自分の立場が、大別すれば「左翼」や「リベラル」であるとは自覚していたので、大雑把な説明としては、「私は左翼だよ」とか「リベラルだよ」と言ったりはしたものの、だからと言って、世間で、いわゆる「左翼」や「リベラル」に分類されている人たちのみんながみんな、私と同様の人間だなどと思ってはいなかった。
なにしろ、私が好んで引用する言葉が、SF作家シオドア・スタージョンの、
というものなのだから、当然私は、「左翼の9割もクズ」だし「リベラルの9割もクズ」だと、そう思っていたし、それには止まらず、「私のフォロワーの9割もクズ」だし、「私の友人の9割もクズ」だと、そう思ってさえきた。
自分の周辺だけを「例外」だと考えるほど、私は馬鹿でもなければ、自分に甘い人間でもないから、フォロワーであろうが、友人であろうが、「違う」と思えば、手加減せずに批判したし、それで関係が壊れるのなら、そんな関係など無い方が、よほどスッキリしているとも考えていて、そのせいで縁の切れることを、恐れもしなくなったのである。
友達との関係とは、好もうが好むまいが、続くものは続くし、続かないものは続かないと、そう思うようになったから、是非とも「友達でいてください」などとは、いっさい考えなくなった。「来る者は拒まず、去る者は追わず」が、私の信条となったのである。
ともあれ、そんなわけだから、「左翼」や「リベラル」や「あの人やこの人」の中から、「キャンセル」的な手段に訴える者が出たとして、それは、残念なことではあるが仕方のないことでもあり、想定の範囲内でしかないと思えるようにはなった。
だが、それにしてもそれは「裏ではそんなことをする奴も少なくないだろう」という「想定」であって、まさかそれを、北村紗衣のように「臆面もなく堂々とやる人間」が出てくるとは思わなかったし、ましてや、そうした「キャンセル」的な手法が、「キャンセルカルチャー」と呼ばれるほどに広範なひろがりを持つようになるとは思わなかった。
そんな手法を、「当たり前のように採用する人間」が、「左翼」や「リベラル」の中からも、少なからず出てくるとは、さすがの私にも、「想定外」の事態だったため、「キャンセルカルチャー」は、私にとっても、看過できないものとなったのである。
したがって、匿名でなくてもそれがやれる神経には驚かされるものの、そうした人たちに対する、今の私の直感的な理解としては、まあ、そういう(恥知らずによる、小理屈だけの)時代になったのだろうと、そんな感じを持つようになった。
きっと「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのの一種なんだろうなと、そう呑み込むことも、いちおう出来たのである。
ともあれ、こうした「恥知らずな行い」が大手を振って行われ、威張り散らすようになり、それで社会が破綻するという結果になろうと、つまり、その流れが止どめ得ないものだったとしても、それでも、私はそれを容認しない人間として、それと対峙しないわけにはいかない。一一そう考えたから、そうした「キャンセルカルチャー」の先端をゆく、「左翼リベラル」のそれをこそ、少しでも知りたいと思い、「話題の」本書を読むことにしたのである。
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本書が「話題の」本なのは、本書の刊行に対して「左翼リベラル」側からの「ヘイト本を刊行するな」という抗議運動が起こり、当初版元となるはずだった「KADOKAWA」が、これにあっさりと屈して刊行を撤回し、それを受けて「産経新聞出版」が同書の刊行に名乗りをあげると、同出版社にも抗議が殺到すると同時に、書店に対してまで「この本を置いたら放火する」といった脅迫がなされ、大手の書店がこれに屈した、というような経緯があったためである。
このあたりの事情については、『情況』誌の「2024年夏号・特集トランスジェンダー」に掲載された、森田成也の、
・「自由に対する左からの脅威 アビゲイル・シュライアー本をめぐる諸問題」
に詳しいので、それをここで繰り返すことはしない。
興味のある人は、そちらに当たってほしいし、本書のAmazonレビューには、そのあたりの事情に触れたものも多いので、あまりお勧めはできないが、眉に唾して読むのであれば、そちらで済ますのも、悪くはなかろう。
森田成也が、この文章で語っているのは、大きく次の2点である。
このようなことだ。
そして、私が実際に本書を読んだ上での感想として言えば、森田のこうした主張は、まったく「正しい」。
たしかに「ヘイト本を出すな」という意見表明自体は良いことなのだが、それが「数の力」となるほどならば、むしろ自覚的にそれを控えるべきだろう。
なぜなら、ネトウヨ と同様、人の尻馬に乗って大騒ぎするような奴らに、ろくな者はいないし、ろくなことにもならないからだ。
そもそも、「言論」とは、中身で説得することを言うのであって、「数の力」で圧倒するというのは、すでに一種の「暴力的な権力行使」に他ならないのである。
さて、本書の著者であるアビゲイル・シュライアーについて言えば、この人は、左翼ではないけれど、右翼だというほどの人でもなく、まあ、普通の「経験主義者」と呼んでいいような人だ。
特に「新しい考え」があるわけでもなければ、「進歩的な立場」に立っている人でもないものの、そうしたものを一概には否定せず、かといって、それの「行き過ぎ」には、その「常識」において、是々非々で注文をつけることも辞さないという、そんな立場の人である。
したがって、本書におけるシュライアーの主張は、そんなに難しいものではない。
要は、本物の「トランスジェンダー」は、もともとそんなに大勢ではないはずであり、それがいきなり「流行」のごとく増えたのなら、それは「本物ではない」蓋然性が高いのだから、少女たちの「自己申告」を鵜呑みにして、薬物治療や手術をさせるのではなく、「大人の良識」でもって、それにブレーキをかけ、様子を見るように助言指導するというのが、むしろ「大人の役目」であり、それは決して「反トランスジェンダー」でもなければ「ヘイト」でもない一一と、おおよそこういうものである。
こうした主張は、日本にいるかぎりにおいては、しごく常識的かつ穏健なものとしか聞こえないはずだ。
ところが、「ジェンダー問題」における先進国である欧米においては、「当人の自己認識を尊重すべき」という「原則論」的な考え方から、少女たちの自己申告の「性自認」を「そのまま追認する」というのが、丸ごとそのまま、正当化されてしまっているようなのだ。
また、十代も半ばになっておれば、当人にもその判断が「できるはず」だと、そんな少々無理のある綺麗事が、まかり通ってしまってもいるようなのである。
要は、「物分かりの良い大人」が増えた結果、医師や教師に対しても、「当人の自己認識と意志をを否定してはいけない」などということが、「法的に課される」ことになってしまったために、もはや歯止めが利かなくなっている。
では、なんで、欧米の少女たちの間では「トランスジェンダーのなりたい熱」が蔓延しだしたのかと言えば、著者が色々と取材し、関係者から話を聞くなどしてたどり着いた考えでは、今の子供たちは、幼い頃からLGBTQなどに関する「反差別的な教育」を受けてきており、むしろ、それをカミングアウトした人たちは、社会から「その勇気が賛嘆される」といった光景を何度も見せられているためだ、ということになる。
これまでの「差別」とは、反対に方向に、その評価が振れきってしまったのである。
また、そのようにして社会的に高い承認を受けたトランスジェンダーたちが、ネット上でインフルエンサーとなって、解剖学的な性としての「女性」から解放されて「救われた」と、顔を輝かせて語るのを数多く見聞きすることで、少女たちは、彼らに「憧れる」ようにさえなったであろう、というのである。
私のような男には分かりにくいことだが、子供の体から大人の体へと変わる時期の女性、つまり十代半ばの少女というのは、肉体的にも精神的にも不安定となり、自分の体を「不自由なもの」だと感じがちであり、「男の子の方が良かった」と、そのようにも考えがちなのだそうだ。
たしかに、社会的にだけではなく、生物学的にも、男の方が「気楽」なのではないかという気が、男の私でもする。なにしろ、妊娠出産をしないで良いのだから。
そんなわけで、少女たちが、そんな「面倒な肉体」から解放されたいという願望を抱えているところに、「男になって良かった」と、その「成功例」を誇らしく語る、トランシジェンダーの「イケてる男の子(になった女の子)」を姿を見て、「自分も、この人みたいに男の子になりたい」という気持ちが募り、やがて「自分もトランスジェンダーなんじゃないか」という気持ちが募ってもくる。
つまり「成功したトランスジェンダーの事例」ばかりを目にするし、社会も学校も「彼らは、自分に正直に生きている、勇気ある人たちだ」と賛嘆するのだから、まだ若い少女たちが、トランスジェンダーに憧れるようになるのは当然のことだし、まして、自分の周囲からも「トランシジェンダー宣言」する少女が出てくれば、その影響を受けて「自分もそうだったんだ」と思いこむ少女たちが「連鎖反応的」あるいは「流行り病的」に出てくるのも、無理からぬことなのではないのかと、シュライアーはそう説明している(かつての「多重人格ブーム」や「抑圧された記憶(偽りの性的虐待記憶)ブーム」、あるいは「拒食症ブーム」などと同様に。あるいはまた「セイレムの魔女裁判」や、カトリックにおける「神がかりの聖女」たちのように)。
つまり、少女たちの気持ちはわかるけれども、それはいっときの「憧れ」みたいなものであって、彼女たちの大半は「仮性トランスジェンダー」に過ぎない。
だから、安易に投薬や手術を認めて、将来に禍根を残すようなことを許すべきではない。そんなことをすれば、彼女たち自身が「取り返しのつかないダメージ」をうけることにもなりかねない。
トランスジェンダーの「自己決定」を尊重するのは良いことだが、それは、自分のことをちゃんと判断できる年齢になってからにすべきであって、それまでは、子供たちから、その「無理解」を責められ嫌われようとも、やはり、子供を守るのが「親のつとめ」であり「大人のつとめ」なのではないかと、そういう主張なのである。
したがって、本書を読めば、シュライアーの考え方は、何の新しさも面白さもない「無難なもの」だとは言え、決して「ヘイト」と呼ばれるようなものではないというのが、はっきりとわかる。単に、「無難」で「慎重」なだけで、決して攻撃的なものではなく、防衛的という意味で保守的なだけなのだ。
だが、「左翼リベラル」というのは、基本的に「新しいもの」「最先端」が好きな(理解のある)「冒険主義者」だから、「新しい現象に疑義を呈する」ような考え方が「古い」と見えてしまい、そうした「保守的」なスタンスから「トランスジェンダー」ブームに「待った」をかけるような人は、きっと「考え方の古い右派」なのだろうと、どうしても、そういう色眼鏡で見てしまう。
また、そうしたわけで、つい、読まずに「ヘイト本だ」と決めつけてしまったりして、後でそれが言い過ぎだったと気づいても、「自身の面子」にこだわり、「党派としての影響力(党派力学)」にまで、余計な配慮をして、自己の誤認を、事後的に正当化してしまう。
さらには、「反省」を語ると、「左翼リベラル」の仲間から、「腰砕けの転向者」呼ばわりされるだろうと、それを恐れるために、その過ちを、率直に反省することができなくなっている。一一と、おおよそ、そんなことなのではないだろうか。
なにしろ、人間というのは、右でも左でも、群れたがるものだし、また、群れるのが得意でなければ、社会的に高い地位など得られるものではないのだ。
結局のところ、こうした「左翼リベラル」というのは、「左翼リベラルの中の9割を占めるクズ」でしかないのだが、こうした人たちが、これまで、その「ご立派な建前」で築いてきた「地位や名声」を振りかざして「私は決して、間違ってはいない」などとやり出すと、これはもう「まともな左翼リベラル」の脚を引っ張ることにしかならない。
森田成也も、そこを心配して「自由に対する左からの脅威」だと、いかにも手厳しい表現で批判しているのである。それが前述の(2)なのだ。
実際、Amazonカスタマーレビューを見てみると、驚くほど多くのレビューが寄せられており、その中の少なからぬものが「そうれ見ろ。パヨクなんて、ご立派そうなことを言っても、所詮はこんなものなんだよ」と、そんな感情を隠しきれず、いかにも嬉々としてレビューを書いている「隠れネトウヨ」と思しきレビュアーも少なくない(だから、眉に唾して読まなければならない)。
だが、これは、そう言われても仕方のない「恥ずべき事実」があるのだから、ネトウヨ ごときに嘲笑われた「二流三流の9割左翼リベラル」は、そんな情けない現実を直視すべきなのだ。
ネトウヨ を批判するのは簡単だが、その前に、最も難しい自己批判をして見せてこその「左翼リベラル」なのである。
また仮に、それで「左翼リベラル」の社会的な評価がますます失墜して、この世の中がおかしくなっても、それはもう仕方のないことなのだ。
むしろ、そんな「党派の評判」を気にする前に、「自分の生き方」を反省してみるべきなのである。
ただし、こうした「二流三流の9割左翼リベラル」への批判は、決して「ネトウヨ」の専売特許であってはならない。
むしろ、「二流三流の9割左翼リベラル」の醜態を率先して批判すべきは、「残り1割の真性左翼リベラル」の使命だとも言えるだろう。
もちろん、そんなことをすれば、党派の「9割を占める、左翼リベラル業界」から「キャンセル」されることになるかもしれないが、それを恐れることなくやれてこそ、「真性の左翼リベラル」なのである。
今どき「内ゲバ」かと言われたって、かまうことはない。
「言論」というのは、「頭数」ではなく「中身」で勝負するものなのだから、「恥を知る」人間なのであれば、右であろうと左であろうと、「ダメなものはダメだ」と、「言論において戦う」べきなのである。
もちろん、そんなことができるのは、「1割」どころか「1パーセント」ほどしかいないのだろうが、だからこそそこに、人としての「誉れ」もあるのである。
「キャンセル」を恐れずに、やれてこそ「本物」だと、その覚悟でやれる「左翼リベラル」がどれだけいるのか。
今こそそれが、歴史に試されているのである。
(2024年10月25日)
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