追悼 ・ 酒見賢一
酒見賢一が亡くなった。
まだ59歳なのに、死因が「呼吸不全」だったというのは、何か持病をお持ちだったのだろうか。だが、すでに亡くなられた今となっては、死因などどうでもいい。ただ、いちファンとして、その早すぎる死が惜しいし、残念だとしか言いようがない。酒見さんには、もっともっと、新たな代表作となるような作品を書いてほしかった。
それに、酒見さんは、私より二つ年下なので、年下の「好きな小説家」が亡くなるという経験は、これが初めてなのではないだろうか。年上の作家については、好きな作家も多いことだし、年齢的に言って、その死も珍しいことではないからか、訃報を聞いても「そうかあ」という感じしか受けないことの方が多いが、やはり酒見さんについては、若すぎて、ほとんど不意打ちだったのだ。
ここで「酒見さん」と書くのは、別に知り合いだったとかそういうことではない。ただ、この文章が批評文ではないので、今の気持ちをそのまま素直に語る文章として、「酒見賢一」という(批評)対象化した書き方ではなく、ファンとして「酒見さん」と書いている。それが自然なのだ。
酒見さんの著作は、『泣き虫弱虫諸葛孔明』以外はほとんど読んでいるつもりだったが、どうだろうかと思って、いま「Wikipedia」を確認したところ、結果は下のとおりで、2007年に刊行されていたエッセイ『中国雑話 中国的思想』の存在は、いま初めて知った。これは近々読みたいと思う。
だが、未読の小説『泣き虫弱虫諸葛孔明』が、残された最重要作だ。知人にも「面白いよ」とすすめられていたし、何より、酒見作品で一番好きな『陋巷に在り』と同様の「中国歴史フィクション」なので、もともと期待も大きい。
完結したら一気に読もうと、単行本を途中から刊行時に順次買っていたが、各巻が分厚くて持ち歩きには不向きなため、結局は「文庫版で読もう」と、文庫版の刊行完結を待って、そちらも買い揃えた。まさか、この作品が、酒見賢一の最後の長編小説になろうとは思いもしなかったが、その段階でも「残された最後の未読本」だったし、何しろ長い作品だったから、「これはまあ、後に取っておいて」などと呑気なことを考えているうちに、今日になってしまったのだ。
酒見賢一との出会いは、もちろん大変な話題作となった、デビュー作『後宮小説』である。
たしか賞金1000万円だった頃の、映えある「第1回日本ファンタジーノベル大賞」の受賞作だ。当時は、私もまだ多少なりともウブな読者だったから、大賞受賞作には期待するところが大きかった。それになにしろ第1回である。また、だからこそ、逆に期待外れになる怖れも十分あったのだが、『後宮小説』は、そうした大きな期待をも軽々と超えていった、文字通りの傑作であり、とても気持ちのいい小説だった。
その後、アニメ化もされたけれど、そちらは視ていない。
私は、古いアニメファンだから、アニメには目が肥えているという自負があったし、タイトルをテレビ向けに変更したのは仕方ないとしても、なによりあの原作『後宮小説』の魅力を、映像化なんかできるわけがないと思ったから視なかったのだ。そして、その気持ちは今だって変わってはいない。
『後宮小説』に大感動した私は、当然のことながら、酒見賢一の新作新刊を待ち侘び、そして跳びつくようにして読んだ。
『後宮小説』の2年後に刊行された『ピュタゴラスの旅』と『墨攻』をそうして読んだのだが、正直言って面白くなかった。少なくとも、私の期待したような作品ではなかった。「こんなはずない。何かの間違いだ」とすら感じていた。
その後に書き始められたのが『陋巷に在り』だが、こちらは完結がずっと後になるので、その次に読んだのは、『ピュタゴラスの旅』と『墨攻』から4年後の『童貞』であった。
ひさしぶりの作品だったので期待したのだが、やっぱり面白くなかった。もう、酒見賢一は私を楽しませてくれるような小説を書けなくなってしまったのだろうかと思うようになった。そして、ある程度は私の中で、よく言えば「諦めをつけた」、悪く言えば「切った」のである。
だから、『童貞』の翌年に、ノベルス版で刊行されたSF作品『聖母の軍隊』は、見向きもしなかった、と言うよりも、「酒見賢一も、とうとう売れない中国小説ばかり書いていられなくなって、SFなんか書いたか」と思った。SFが嫌いなわけではなかったが、酒見賢一に期待しているものではなかったから、手に取ることもせずにスルーした。たしか表紙画が生頼範義だったように記憶するが、それは、いかに酒見賢一らしくなくて悲しかった。
そして、その2年後に『語り手の事情』が刊行された。いかにも「メタフィクション」というタイトルであり、私は「メタフィクション」作品が好きだったので、「酒見賢一がメタフィクションを書いたのなら、どんな作品になるんだろう?」と、つい期待してしまった。
だがこれも、少なくとも私が期待したほどの作品ではなく、私の思う「酒見賢一」的に面白い作品でもなかった。それでもう、完全に「酒見賢一を読むのはやめよう」と思ったのであった。
ところが、そろそろ10年ほど前だったろうか、どういうきっかけだか『陋巷に在り』を読み始めて、すっかりハマってしまった。
『陋巷に在り』は、完結してから読むつもりで、初版単行本を最初から刊行順に順次購入していたのだが、なにしろ長期にわたって刊行だったため、後の方の巻を新刊で買った時には、最初の方の間は、未読本の山に埋もれて行方不明になっていた。それでも、なかばコレクター的な意地で最後まで買ったのだが、その頃には「いずれ、文庫版で読もう」ということで放置することになったし、そもそもその頃には、前記のとおり、酒見賢一に見切りをつけていたので、自分でも本当に読むつもりがあるのかどうかは、きわめて疑わしかった。
だから、よほどの、信頼する誰かが『陋巷に在り』を絶賛していたから読む気になったのだろうと思うのだが、もともと記憶力のない私は、そんなきっかけのことなど覚えてはいない。ただ、とにかく、物語の次が知りたくて、ページをめくる手ももどかしいような気持ちで読んだという事実だけは、ハッキリと記憶している。なぜなら、私は元来、小説に「物語性」をあまり求めない人間であり、「ハラハラドキドキしながら読む」などということは、小説を読み始めた若い頃以外は、ほとんどなかったからである。
今も好きな作品というのは、たいがいが、読んでいるときは結構しんどいのだが、読み終えた後に、ズシーンとした重い感動を味わったような作品なのだ。それが私の好みのはずだったから、『陋巷に在り』は、異例の「面白い物語小説」だったのである。
また私は、小説の登場人物に愛着を持つということのほとんどない人間なのだが、この作品だけは例外だった。主人公にもヒロインにも、強く惹かれた。だからこそ、彼らの行く末が気になって仕方のない作品だったのでもあろう。
そんなわけで、『陋巷に在り』は、私にとっては特別に「愛着のある作品」になった。と同時に、酒見賢一を見直すことにもなり、その段階で、まだ読んでいなかった本をすべて入手して読んだ、つもりだった。その頃にはすでに、前記のエッセイ『中国雑話 中国的思想』も出ていたはずで、なぜ見落としていたのかはわからない。だが、とにかくその段階で未完だった『泣き虫弱虫諸葛孔明』以外の、『聖母の部隊』『周公旦』『分解』を入手して読んだ。一一だが、こちらは期待したほどには面白くなかったので、私の期待はおのずと残された第2の巨編『泣き虫弱虫諸葛孔明』に向かったのである。
ところが、『泣き虫弱虫諸葛孔明』が完結し、単行本で揃え、文庫版まで揃えても、ああだこうだと勿体をつけているうちに、思いもかけず、酒見賢一その人が亡くなってしまった。
もう、長編作品が完結したかたちで発見され、刊行されるなんてことは期待できないから、『泣き虫弱虫諸葛孔明』を最後の長編小説だという気持ちで読まなければならない。無論、だからと言って、評価が甘くなることはないのだが、そんなことをしなくても、きっと楽しませてくれるはずだと今は信じている。
前回、酒見賢一を読んだのは、まだAmazonのカスタマーレビューを書いていたかいなかったかの頃であり、当然その後に始めたここ「note」以前のことだから、酒見賢一の作品については、まとまった文章を書いてはいない。
しかし、酒見賢一については、是非とも、ある程度はまとまったものを書いておきたい。なぜなら、レビューを書き残すというのは、私にとっては、ある種の「コレクション」行為だからであろう。だから、好きな作家についてならば、是非とも書いておく必要があるのだ。蔵書は、死ねば散逸するが、ネット公開したレビューは、ある意味では、私と対象作品とが一体化したかたちで、永遠のものとなるからである。
そんなわけで、できれば早々に『中国雑話 中国的思想』を入手して読み、レビューを書こう。その後に、おもむろに最後の未読大作として『泣き虫弱虫諸葛孔明』に取り掛かって、読了後にレビューを書こう。
そして、できればその後に、『後宮小説』を再読してレビューを書き、最後に『陋巷に在り』を再読してレビューを書こう。
それらのレビューをすべてアップした時に、私と酒見賢一との別れは、完全な形で決着がつくことになるのである。
だから、酒見さん、今しばらく時間をください。以上のとおり、決着をつけるまでは、死なないつもりで頑張ります。
(2023年11月16日)
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