J・D・サリンジャー 『ライ麦畑でつかまえて』 : 優しさと弱さと
書評:J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(白水社)
私が活字本を読み始めた高校生の頃、すでにサリンジャーは人気作家であったし、そのデビュー作にして代表作である本書『ライ麦畑でつかまえて』も、すでに「現代の古典」としての評価を受けていて、まだ活字本を読まなかった頃の私に耳にも、その特徴的なタイトルだけは入ってきていた。
いまさら『ライ麦畑でつかまえて』(以降、適宜『ライ麦』と略記)を読む気になったのは、先日、NHKのテレビ番組で『ライ麦』を取り上げており、「ベトナム戦争」との関連が語られていたからである。
たまたまテレビをつけた時にやっていたので、その番組は最後の15分くらいしか見られなかったのだが、「そうか、あの作品もベトナム戦争がらみだったのか」と、そう思ったのは、近年、SF作家のフィリップ・K・ディックを論じたり、『カッコーの木の上で』『タクシードライバー』『俺たちに明日はない』といった、のちに「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれることになる、一群の映画のレビューを書いたりしていたからだ。
私が若い頃に「現代の名作」と呼ばれたような作品の多くに、「ベトナム戦争」が大きな影を落としていると事実を、ジャンル横断的にレビューを書くことで知ることになったのだ。
そして、本作『ライ麦畑でつかまえて』もまた、単なる「青春小説の名作」というだけではなく、「ベトナム戦争」がらみなのだと知って、新たに興味を惹かれたのだった。
本書は、「朝鮮戦争」のさなかである1951年に原書が刊行され、1964年にアメリカ文学者の野崎孝により『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルで翻訳されて、以来日本でもながらく読み継がれてきた作品である。
また、2003年には、ノーベル文学賞候補の常連で、出す本がすべてベストセラーになる人気作家・村上春樹の手になる新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が刊行され、話題にもなれば、これもよく売れた。
しかし、日本での本作の「書名」は、やはり『ライ麦畑でつかまえて』が浸透していることもあってか、同じ版元の「白水社」でも、野崎孝訳の同書は、今も刊行され続けており、私が今回読んだのも野崎訳の方であった。
なぜ野崎訳の方を選んだのかと言えば、無論『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルに馴染みがあったというのと、村上春樹の方は、村上自身の初期代表作を何冊か読んでいるけれども、それがあまり私の好みではなかったためだ。それで、あの「村上調」で読みたいとは思わなかったのである。
ちなみに、サリンジャーについては、たしか高校生の頃に『フラニーとゾーイー』を読んだはずだが、面白かったという記憶はない。そのためであろう、代表作である『ライ麦』くらいは読んでおきたいと思いつつも、今日まで読む機会を逸してきた。
だから、「ベトナム戦争」がらみだと知ることがなければ、たぶん死ぬまで読めなかったのではないかと思う。
ちなみに、私はここまで「ベトナム戦争がらみ」と書いてきたが、サリンジャー自身が「ベトナム戦争」に従軍したという意味ではない。
「ベトナム戦争」は「1955年〜1975年」で、本書が刊行されたのはそれ以前の1951年であり『朝鮮戦争のさなか』(wiki)であった。そして、刊行当初は、その評価として毀誉褒貶にさらされながらも、サリンジャーは、
するなどして作家的地歩を固めてゆき、やがて『ライ麦』は、「ベトナム戦争からの帰還兵」たちから支持されるなどして、押しも押されもせぬ別格の名作となっていったのである。
またその意味で本作は、「アメリカン・ニューシネマ」にあらわれた「気分」を、先導する作品になってもいたのだ。
なお、前述のとおり、サリンジャーの軍歴は、「ベトナム戦争」のものでも「朝鮮戦争」のものでもなく、その前の「第二次世界大戦」でのそれであり、次のようなものであった。
「第二次世界大戦史」に特に詳しいというわけではない私でも、「ノルマンディー上陸作戦」や「バルジの戦い」は、大戦の帰趨に大きな影響を与えた激戦として映画にもなっているので知っているし、『ダッハウ強制収容所の外部収容所として知られるカウフェリンクIV強制収容所を解放』というのも、「カウフェリンクIV強制収容所」の名までは知らなくても、「ダッハウ強制収容所」の方はあまりにも有名だから知っている。「第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線」に関する本や「ナチスドイツ」に関連する本を少しでも読んでおれば、「アウシュヴィッツ(ビルケナウ)強制収容所」ほど有名ではないとしても、代表的な収容所のひとつとして「ダッハウ強制収容所」という固有名詞は、おのずと目に入ってくるからだ。
そんなわけで、こうした激戦地を転戦し、多くの死と無惨な生を目にしてきたサリンジャーが、帰還後に『戦闘神経症(現在ではPTSDと呼ばれる)』と診断されたというのは、至極わかりやすい話だし、そうならないほうが、むしろおかしい。
その意味で、サリンジャーもまた、一人のトラヴィス・ビックル(映画『タクシードライバー』の主人公)であり、ジョン・ランボー(映画『ランボー』の主人公)だったのだ。
戦争の記憶に苛まれ、それと闘った人だったわけだが、ただ幸いなことにサリンジャーの場合は、「暴力」ではなく、「書く」ことでそれを乗り越えようとした人だったのである。
したがって、彼の小説の場合、直接的に「戦争のこと」を書いてはいなくても、戦争体験者に支持された。
またその一方、ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンが犯行後に『ライ麦』を読んでいたとか、1981年にレーガン米大統領殺害未遂事件を起こしたジョン・ヒンクリーも同書を愛読していたといったことが、煽情的に取り沙汰されもするのである。
要は「戦後の市民社会に適応できず、むしろそれに不満を抱えている、ちょっと頭のおかしいやつは、『ライ麦』に惹かれる」と。
しかし、前述のとおり、マーク・チャップマンやジョン・ヒンクリーたちの逸話は、多分に「煽情的」なものであり、興味本位で「針小棒大」に騒ぎ立てられた、スキャンダラスなものであったということも、決して見落としてはならない。
なにしろ、『ライ麦』はベストセラーのロングセラーなのだから、多くの読者の中に、そうした犯罪性の精神障害者が含まれていても、何の不思議でもないからだ。
しかしまた、本書『ライ麦』が、「反体制的な感情」を抱える人に共感されやすいというのは、その内容からして「わかりやすい事実」でもあり、それが良い方向に働けば「ベトナム反戦運動」などになるし、悪く転べば「暴力的な犯罪」になることもある、ということなのではないだろうか。
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本作の「序盤」は、次のようなものである。
本作は、16歳の少年ホールデンの「一人称」で語られる作品だ。
本作を要約的に紹介する場合にしばしば言われるのは、
といったことだが、無論これは、しごく大雑把な要約にすぎない。
というのも、上に引用した「物語序盤」でも示されているとおり、ホールデンが憎悪するのは、「社会」や「大人」だけではなく、同世代の「インチキ(phony)」だって許さないからだ。
つまり、ホールデンの「インチキ」憎悪は、「反社会的」と言うよりも、「インチキ」を徹底的の憎悪した結果、「大人が回している社会全体」を憎悪する結果となった、と考えるべきだろう。言い換えれば、『純粋で無垢な存在』以外は、ぜんぶ憎んだということである。
したがって、『ライ麦』をして「反社会的な作品」だとか「反社会的行動が肯定されている」などと考えるのは間違いであり、そうした「誤解」を理由に、本書を「悪書」扱いにしたり、「反社会性を肯定した作品」だと考えるのは、あきらかな「誤読」であろう。
サリンジャーが求め、本書で描いているのは、単なる「憎悪」ではなく「愛ゆえの怒り」であって、「憎悪を肯定するための、口実としての愛」などではないからだ。根底に「愛」のない「怒り」や「憎悪」を、サリンジャーは決して肯定してはいないのである。
そして、その証拠としては、主人公であるホールデンが「無力」だという点が挙げられよう。
彼は「頭の中」を「反抗的」な考えでいっぱいにし、それをせいぜい「挑発的な物言い」や「態度」に示すことはあっても、所詮それは、「犯罪」的なものでもなければ、「実践」的なものでもない。
ホールデンがまだ「子供」だということはあるにしろ、じつのところ彼自身が『純粋で無垢』な人間であるからこそ、「暴力」を実践することはできないし、ぜいぜいが「憎まれ口」だの「反抗的な態度」に止まるのである。
言い換えれば、そうした「純粋無垢さ」を捨ててしまったがゆえの、「暴力肯定」や「実践的な暴力」というのは、もはやホールデンのそれとは、本質的に別物であり、むしろ真逆なものと考えるべきなのだ。
他人を傷つける「痛み」を失うということは、「純粋無垢さ」を失うということであり、それはホールデンが求めたものではないからである。
そのため、本作に描かれているのは、「アメリカン・ニューシネマ」が描いたような、過激な「無軌道さ」ではない。
そうしたものでありたいと願いながら、そうはなれない「優しさ」のゆえに、自傷的な行為に止まらざるを得ない、見た目上の「ヘタレ」が、ホールデンなのだ。
過激なことを考え、それを口にしているわりには、実際には「反社会的」と呼ぶに値するほどの「実行動」が採れないのは、彼にはそれを「くい止める良心」としての「優しさ」や「愛」があるからに他ならず、それこそが彼の「純粋無垢さ」なのである。
したがって、今の読者が読めば、本作は、いささか「かったるい」作品ではあるだろう。なぜなら、主人公ホールデンの行動には、「アメリカン・ニューシネマ」の主人公たちのような「反抗的な痛快さ」や「カッコ良さ」がなく、いかにも「冴えない」からだ。
だが、そこにこそ、サリンジャーの真骨頂があり、『ライ麦』の真の魅力があると言って良い。
本作が描くのは「叛逆のヒーロー」ではなく、「純粋無垢なもの」のために、みずからはボロボロになることも厭わない「優しさ」だからだ。
「回想譚」たる本作の、有名な(回想部分の)ラストシーンは、ホールデンが、兄思いの可愛い妹であるフィービーを連れ出し、思い出のメリーゴーランドに乗せ、自身はそれをベンチから眺める、というものである。
つまり、ホールデンは「ライ麦畑から転がり落ちてくる子供たちを受け止める役」が果たせるのであれば、自分自身は、雨に打たれて『ずぶぬれ』になっても平気だし、それで幸福なのである。雨を降らせる世界そのものを、ぶっ潰そうなんて気はないのだ。
この後、病院で思い出話を語るホールデンという「外枠物語」に戻るのだか、そこで彼は、次のように締めくくる。
そう。『ストラドレーターやアクリーでさえ、そうなんだ。あのモーリスの奴でさえ、なつかしいような気がする。おかしなもんさ。誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来る』と、そう言うのだから、ホールデンは決して、彼らに「永遠に消えて欲しかった」わけではないのである。
彼らには、イライラさせられたし、いなくなってしまえと思ったこともあるけれど、しかし、やっぱり、本当にいなくなったら『物足りなくなって来る』存在なのである。
つまり、ホールデンは「インチキ(phony)」なものに「怒り」を覚えながらも、それらの問題を抱えた人たちが、すっかりいなくなってしまったような世界を望んでいるわけではないのだ。
そんな、言うなれば、度し難い「半端さ」こそが、ホールデンが持ち続ける「純粋無垢さ」なのだ。
彼の中の「子供」は、ナチスのように「殺して消し去ってしまえば、さっぱりする」なんてことは、金輪際、本気で考えたりはしない、「やさしく弱い」存在なのである。
(2024年4月26日)
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