意識的に自分の殻を壊す 私の習慣 その4.40 課外活動本格デビュー 当たり前過ぎて意識しなくなっていること
生まれてからずっと夢見ていた知的パラダイスたる大学。学生運動の名残が少し残っていて、立て看板も絶滅危惧種ながら若干残っていました。
そこで意識的に自分の殻を壊し生まれて初めての部活·サークル活動に本格参加した話。
経緯
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ベビーブーム末期で受験戦争と言われた時代。意識的に自分の殻を壊し、バランスの取れた高校生活を選ばず、醜いまでに受験対策するということに。そのソリューションとした選んた駿台予備校が良かった…
駿台での授業内容は大学での学究生活に向けての準備というスタンスでした。入試なんてその通過点で軽くこなせば良いだけという余裕。感動的ですら有りました。
その辺りまではこちらをお楽しみ下さい。
しかし小学生時代、スタートが2年遅れた分を取り戻せず、その2年遅れを最後まで背負って希望の大学に入学しました。そして、弱冠20歳にて4度目の
意識的に自分の殻を壊す
です。
入試という他人の決めた知の体系から解き放って自分の知的欲求を基にした学究生活を取り戻す。それを真剣に追求しました。
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意識的に自分の殻を壊す意味で、学業に特化した人生から自分を開放し、生まれて初めて部活·サークル活動へ本格的に挑戦しようと思いました。
そもそも、小学校では高学年では体育の授業の一環で部活動の時間が有りました。休み時間は長縄跳びやドッジボール、バレーボールを楽しんでいました。ですから毛色を変えてバスケットボールが好きだったこともありその小学校版のポートボールという競技を選択しました。陸上競技に比べると頭を使って工夫する余地が多く、機敏な動きが楽しくてハマってしまいました。
中学生も小学校の児童会の延長としての生徒会役員への立候補は1年生後期からでした。それまでは部活動をしようと青春ドラマで取り上げられていたサッカーを選んで見ました。しかし、当時からサッカーは人気で、小学校時代から嗜んでいた人のレベルが高すぎて…、そこで早々に辞退してテニス部に入部しました。ですがテニス部も軟式、コートは1面しか無く1年生は使えない、しかも土の校庭なので雨が降ると練習はできずと、まぁ昭和の区立の学校なんてこんなもんでした。
そのうちに後期の生徒会役員選挙になり、当選して部活動は休止しました。中学生時代は極めて中途半端なプチ部活動の連続でした。
高校生時代は学業に選択と集中。
ですから、大学に入ったので思いっきり課外活動をしようと思いました。大学入学前に配布された資料や入学時のオリエンテーションの資料から2択に絞っていました。元々は雄弁会1択でしたが、航空宇宙研究会も良いかなという感じです。
雄弁会は、一旦棚上げした生徒会活動の延長としていよいよ政治分野での人生の地歩を固めるステップという位置づけです。ある意味で学生から社会人へのイグジットを見据えた順当な動き。活動拠点は大学本部とど真ん中。
1902(明治35)年設立の由緒正しい政治サークルでした。まだメディアが発展途上だった設立時、足尾銅山鉱毒事件の惨状に心を痛めた学生たちと共に、建学の母たる小野梓が結成し、政治家でもあった大学創立者が自ら初代総裁。活動原理は、「演練・研究・実践」。
「演練」とは主に言葉を扱うもので、修辞法やレトリックを学んだり、弁論を行ったりすることを指します。
「研究」は主に勉強会を指しますが、最近は各界のOB・OGに取材をすることなどもあります。
「実践」は「遊説」と呼ばれる合宿活動や、議員事務所へのインターンなどを指し、実際に総選挙や自民党総裁選などに当会の会員がお手伝いに行くなど。
だそうです。
数多くの弁論大会での優勝・入賞や、総理大臣経験者を始めとした著名なOB・OGの輩出といった実績も有りました。
しかし活動拠点は理工学部とは異なるキャンパスで、近道を使っても徒歩で20分程度の所にある本部。高校時代封印していた政治家への道との天費でした。
因みに入学当初、欲張って教職課程も選択していました。授業は本部で全ての学部から、各学部の授業が終わってからの授業でした。理工学部から大学本部までは近道を使っても徒歩で20分程度の所でした。しかも本部の敷地は広く、教室までは30分程度。
とてもサークル活動をする時間がなく、結局雄弁会訪問も保留。
教職免許は高校までの教諭用で、教育に携わるなら大学教授で良いかと。結局、理工学部は授業が多くしかも移動に時間が掛かることもあり現実的ではないと諦めていました。これと同時に移動のための追加の1時間は当面割けない、政治家への道は他にもあるとの理由から雄弁会参加も諦めてしまいました。
これはこれである意味で良い失敗経験だったと思っています。
そこで残った航空宇宙研究会。ここは他大学からも含め優秀な方々が集っていました。時間管理もユルく、航空宇宙研究会時間という時間が流れていると皆が言う様な世界でした。
つづく
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