はじまりの門前で:はじめてのバタイユ①
バタイユへのめまいのような開眼
今はバタイユに入門していいとは言えない。後になって入門してもいいかもしれないが、今はダメだ。
禁止と侵犯。
その後、バタイユの作品から多大な影響を受け、「現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感をもっている人」と自決する前に語った三島由紀夫は、『潮騒』にて初江に「その火を飛び越して来い。」と言わせている。(『シンエヴァ』と『潮騒』とLeap of Faithについてはこちらを。あまちゃんと「潮騒のメモリーズ」と能年玲奈についてはこちらを。)精神的な兄として親しみを感じる理由も分かる。自分よりも自分の思想を理解している人と出会ってしまったのだから。
『はじまりのバタイユ』(澤田直・岩野卓司編、法政大学出版)という本は門番である。たとえめまいが待っていると分かっていても、眼を開けたくなる瞬間がたまに訪れる。しかし、その門番が、今は眼を開けてよいとは言えない、後でなら眼を開けていいかもしれないが今はだめだ、という。
バタイユによれば、カフカは全作品に 「父性圏からの脱出の試み 」というタイトルをつけたかったのだが、実はカフカはそこから脱出したかったのではなく、彼は逃亡者としてその父性圏内で生きたかったのだという。父性圏からの脱出の試み、ではなく父性圏内で逃亡者として生きること。法、掟、道理、大人らしさ、父性圏(何とでも呼ぶがいい)、その前で逃亡者として生き残り続けること、そこにとどまること。
本記事は、逃亡者としてとどまるわけでもなく、文学のように超越するわけでもなく、法や道徳を超えて侵犯すること、いやそれらの限界を不正や違反なしに単に越境することを目的としている。以下は、2024年5月末に私が行ったフランスの哲学者、ジョルジュ・バタイユについての発表内容をDeepLで日本語訳し、それを約4ヶ月後の私が大胆に手直した内容になっている。(以前のフロイトとレヴィ=ストロースの発表原稿はこちらを。)そう、翻訳者の使命とは、翻訳ではない、Translationそれ自体である!
合法的トリップアドバイザー:バタイユとは誰か
ジョルジュ・バタイユという人気の哲学者には合計11件の口コミが寄せられており、その総合評価は5点満点中3.36点というものである。それぞれ見ていこう。
ハイデガー(★★★★☆): フランス最高の頭脳(1955年当時、'der beste denkende Kopf Frankreichs’より)
フーコー(★★★★★): 20 世紀における最も重要な思想家の一人
デリダ(★★★★☆): 自分がどこまで正しいのかわからなかった留保[réserve]なきヘーゲル主義
ボードリヤール(★★★★☆): 「死」を経済に取り戻すことで、「価値の象徴的抹消」を論じた稀有な思想家
ベンヤミン(★★★☆☆): 「あなたはファシズムのために働いているのか!」と私に叱られ、「(そのような批判的な発言を)冷静に受け止めることができない」国立図書館の親切な司書(あるいは2024年現在的にはこう言える。『パサージュ論』に「死後の生[das Fortleben]」を与えた救世主と。)
ラカン(★★★☆☆): 妻の元夫(ちなみに、ラカンとシルヴィア・バタイユの娘であるジュディット・ミレールは、1941年から46年の約5年間、ラカンの生物学上の娘であり、バタイユの法律上の娘でもあった。後にジャック=アラン・ミレールと結婚。)
ブルトン(★★☆☆☆):シュール・ファシスト(超=ファシスト)
アドルノ(★☆☆☆☆): ほら、あれだよ、クロソウスキーの雑誌の、カイヨワと一緒にやってる、そー、あの編集者
サルトル(★★☆☆☆): 「執筆し、国立図書館に勤め、読書し、恋愛し、食べる」「新しい神秘主義者」(Un nouveau mystique, 1943)
バタイユ自身(☆☆☆☆☆または★★★★★): 「私は哲学者ではなく、聖人であり、おそらく狂人である」(もちろん聖人ではなく狂人であることがが満点だ!)
まず、ジョルジュ・バタイユという哲学者の専門分野はどこにあるのだろうか。分野が広すぎて何と呼べばいいのかわからないが、あえて言うのであれば、人間性全般[L'humanité générale]と言えるだろう。(翻訳がベケットやブランショのように難しいとされる理由のひとつである。日本では、3B(Bataille, Beckett, Blanchot)とも言われたりしている)。
では、彼の最も適した肩書きは何だろうか。フランスの作家、哲学者、小説家、詩人、エッセイスト、司書、文芸評論家、人類学者、政治経済学者、社会学者、美術史家。多すぎて何と形容していいのかわからない。事実から推察していこう。バタイユは普段、図書館司書として働いている。しかし一方では、最も冒涜的で猥褻なポルノ小説を書く。つまり昼は司書、夜はポルノ小説家版のジキル博士とハイド氏と言えそうだ。
いや、待てよ。そう言えそうにない。なぜなら、彼はコジェーヴのヘーゲル講義やモースの人類学的社会学講義に出席していたり、社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー[Collège de Sociologie], 1937-39)を主宰したりしている。そこで学んだヘーゲル、モース、マルクス、ニーチェ、フロイトなどの理論から、犠牲、宗教、経済、エロティズムに関する独自の理論を哲学的に展開する。またもう一方では、彼はラスコーの壁画、ダリ、ゴッホやマネなどの作品について論じ、美術史家としての顔も覗かせることもある。手がいくつあって足りそうにないが、少なくともスティーヴンソンの例の小説よりは多面的な人間性を持っているようである。
バタイユの場合、それらすべてが互いに不可分であり、その間に断絶はない。そのような活動の根底には、人間一般の解放と解明というパトス(情念)があったのである。そして、この掴みどころのなさ、ピンで留めて動けなくしようとすればするほど、そのぽっかりと開いた傷口から逃れてしまう感じこそが、バタイユという人間であり、その思想(例えば、無形、アンフォルム["L'informe" ("Formless") 1929])でもある。
しかし、一つ疑問だけ疑問が残る。ただの国立図書館の司書である彼をなぜに人々は気にするのだろうか?なぜバタイユは、フライブルク大学学長や20世紀最大の実存主義者、フランクフルト学派、あるいは次世代のフランス知識人たちから、多少なりとも注目されたのだろうか?彼の長い人生を短めに見ていこう。
見ることから解放された眼の傷口.序説
10 Septembre 1897 - 9 juillet 1962(もう127歳だね。生誕日に合わせてこの記事を出す計画だったが、計画は常に狂うものである。)
3~14歳:梅毒で失明した父親の看病
ジョルジュは、その愛が憎しみに変わるまで彼の父を愛した。
狂気の兆候が現れ始める父。不潔で非合理的で野蛮な動物。父から動物へ。父性圏からの不意の脱出。
人間の理性の弱さ、自然の不合理な力の強さを実感。
彼のホモフォビアの根源は、父親が近親相姦的、小児性愛的なやり方で彼に触れたことにあると言われており、そしてまた、ジョルジュは何度かレイプの話までしたことがある。
ハンナ・アーレントと共通する点:彼女の父パウル・アーレントは彼女が7歳のときに梅毒で死亡している。
17~23歳:熱心なカトリック信者で成績優秀だった10代の若者
17歳の時にランスの大聖堂で改宗。父親は無宗教、母親は宗教に無関心だった。10代のジョルジュは、地獄のような人生から自分を救えるのは神だけだと信じていた。
エクスターゼ[Extase]、エクスタシス[ekstasis]、ウニオ・ミスティカ[unio mystica]、神秘的結合[mystical union]
ジョルジュは司祭になることすら考える。しかし、国立古代学校で実証主義的な文学を学ぶこととなる。時代背景的にはフランスにおける科学と理性に対する揺るぎない信仰があり、それらに対する信仰はナショナリズムと植民地化の正当化と直接的に結びついていた。
父の死後、「神よりも強いものがいる:神が盲目であり狂気であるがゆえに強いのだ」と悟る。
23歳の時、『笑い』という本を読んだ後、ロンドンでベルクソンと会食。正確には会食が決まっていたから大英図書館にわざわざ行き、ベルクソンの本の中で1番短いものを借りて読んだ。 会食後に「その人柄には失望した: この慎重な小男、つまりは哲学者!」という感想を残している。しかしその会食でバタイユは解くべき謎は笑いの隠された意味だと知ったという。「笑いの隠された意味という、私が憑依されているとすぐにわかった。その問いは、幸福で親密な笑いと結びついており、それ以来私にとって重要な問題であり、 その謎を何としても解きたい、それ自体がすべてを解決する」。
24~28歳:理性と感情の対立、人間の理性の力を超えた神秘性の強調
クラスで2位の成績を収め、古文書学者に任命される。
スペインでは、グラナダでのフラメンコ歌手のパフォーマンスと、マドリードでの闘牛で、マタドール(マヌエル・グラネロ)が牛に右目を貫かれ、20歳の若さで死んだという2つの出来事があった。『目玉の話(眼球譚)』 (特にマタドールのシーン)で反復されることとなる。
バタイユは素朴なロマンチストではなく、理性の必要性を十分に認めながら、理性を超えた神聖なものへの肯定的な代弁者である。(フローベールの『ボヴァリー夫人』を参照せよ。)つまりは単なる反理性主義者ではなく、理性を極めることによって理性の領域から脱出しようとする。
そこで彼は、西洋文明の二大基礎であるキリスト教とラテン語に中指を立てることにした。構想したのは「神のいない宗教」。そしてその参照点となるのが、粗野な[Barbare]な中世である。ゴシック[Gothique]、ゴート[Gothicus]、ゲルマン民族[Germanic Tribe]、非古典主義[Non-Classical]、最終的に野蛮[Barbaric]への執着に行き着く。
26歳(1923年)、アルフレッド・メトローとレフ・シェストフと親しくなり、プラトン、ジッド、ニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキーの読書を指導される。27歳(1924年)、ミシェル・レイリス、アンドレ・マッソン、アンドレ・ブルトン(後の「シュルレアリスムの教皇」)と友人になる。
29~34歳:「売春宿が教会に取って代わった」と雑誌『ドキュマン[Documents]』
この頃バタイユは、娼館を転々とし、放蕩、飲酒、賭博に明け暮れていた。つまりは、死に取り憑かれてしまっていたのである。死に対するへの執着。娼婦ヴィオレットと恋に落ち、バタイユは母親の遺産のほとんどを使い果たしたと言われる。このヴィオレットがモデルとされる小説『マダム・エドワルダ』では、娼婦エドワルダはアソコを露出して「私は神である」と言う。「低俗の中の低俗が、高貴の中の高貴へと変貌する」という若きマルクスが取り憑かれたシェイクスピア的なモチーフである。ちなみに、1930年、母親を亡くした時、「夜、母親の死体の前で全裸で自慰にふけった」というバタイユの文章が残っているが真偽はわからないし、どっちだっていい。
そこで、精神分析医アドリアン・ボレルのもとで精神分析を受けるよう友人から勧められる。治療の一環として、ボレルに執筆を勧められる。しかし、ここで執筆されたものが『太陽肛門』(1927年執筆、1931年出版)であった。精神病症状としての『太陽肛門』から、その治療としての『目玉の話(眼球譚)』(1928年執筆)へ。
1929-31年、雑誌『ドキュマン[Documents]』期と(マルクスとフロイト的な)「低次唯物論[matérialisme bas]」の展開。
異質性[l'hétérogéne]:ルドルフ・オットーの『聖なるもの[Das Heilige]』とフロイトの『トーテムとタブー』
バタイユにとっての物質性[La matérialité]:人間の滑稽で恐ろしい闇、心の底にマグマのように熱く残り、制御不能に流れる力
形のないもの、あるいは無形、アンフォルム["L'informe" ("Formless")]:芸術をその高尚な地位から卑近な唯物論へと引き下げることを提唱。アンフォルムはカテゴリーを破壊し、芸術をその台座から転落させることを目指した。バタイユはヒューマニズムの理想化された形の概念を否定し、代わりに堕落したものを称えたのである。
ちなみに、この雑誌『ドキュマン[Documents]』の寄稿者の1人に、まだ民族学者になっていなかった頃の若いクロード・レヴィ=ストロースがいて、彼は「ピカソとキュビスム」と題する記事を書いて、キュビスムを嫌っていたにもかかわらず、ピカソを賞賛した。また『ドキュマン[Documents]』は、15号にもわたる「シュルレアリスムに対する戦争機械」、つまりブルトンに対する戦争機械であったわけが、ブルトンの名前は一度も出てこなかった。
37-43歳:「コントル・アタック」から2つのアセファルへ、そして、社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー)へ
37-43歳(1934-1939年)、コジェーヴの『精神現象学』講義: ラカン、メルロ=ポンティ、クロソウスキー、クノー、アロンなどと共に出席。サルトル、イポリット、ヴェイユ、ブルトンなども聴講していたと言われている。
雑誌『社会批評[La Critique Sociale]』(1931-1934年)への寄稿とシモーヌ・ヴェイユとの関係。
38歳(1935年)、アンドレ・ブルトンと「コントル・アタック」という運動を開始。ちなみに、日本の芸術家である岡本太郎はこの異質な運動の集会でバタイユと初めて会う。
1936年、雑誌『アセファル』を創刊。そこで、ナチスやファシストによるニーチェの著作の捏造を糾弾する。例えば、 ジョルジュ・バタイユの「ニーチェ年代記」、ピエール・クロソウスキーの「キルケゴールのドン・ファン」。
アセファルには雑誌ではなく、もう1つ同名のそれがある。それが秘密結社である。Acéphale(秘密結社)は、バタイユ自身が『有罪者』(『無神学大全』の序文草稿)の冒頭のノートに書いているように、「共同体」、そして「宗教」のプロジェクトであった:「 そのとき私自身は、少なくとも逆説的な形で、宗教を創設することにつながると考えた」。後に彼は、このプロジェクトを「とんでもない過ち」だったと認めている。この秘密結社としてのアセファルにて、バタイユは生贄として自殺を図ろうともしたと言われている。
40-42歳(1937-1939年)、社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー)。
レリスやカイヨワによる社会学/エスノグラフィー、クロソウスキーによるキルケゴール研究、コジェーブによるヘーゲル研究などがあり、バタイユ自身はニーチェ研究に専念したいた時期である。ベンヤミンもいくつかの議論に参加したと言われており、彼の発表の機会も設けたが、戦争がそれを許してくれなかった。その後、レイリスはバタイユを糾弾し、カイヨワはバタイユを見捨てた。そして誰もいなくなった、孤独なバタイユ以外。
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