随筆(2021/2/16):小学校算数水準での数の掛け算の「順序」という、しばしば「数学」「教育」上有害にはたらく、公理っぽい何か(F.数の掛け算の「順序」の、社会生活上の副作用の害とは、「無駄なこだわりで周囲に迷惑をかける」ことである。これも致命的である)
2_9.副作用の害とは、具体的には何のことか(社会生活の話)
2_9_1.「場合分け」をしないで「一律やる」パターンのメリットとデメリット
2_9_1_1.異なる単位の順序は、事情があるから辛うじて正当性があるので、そういう事情がないなら、それはやる理由がない
さらに、数学教育と社会生活の間でのデメリットの話をします。
ここが本丸です。
だって、数学に基づくが、数学のためではなく、社会生活に寄与するために、数の掛け算の「順序」みたいな特殊な数学教育やっているんなら。
ここで社会生活に有害に働くんなら、それはジエンドだ。その路線はダメだ。採用できない。と、そういう話になる。
正に、そういう話をします。
***
今まで何度も書いたように、個々の条件や、その性質としての単位などの価値がそれほど問われない時、たくさんあります。
そういう時には、数の掛け算の話には、純粋に数学的な話しか残っていない。従うべきは、純粋に数学的な都合のみです。
で、数学的な都合からすれば、
「「順序」のない数の掛け算に、あえて別の事情で「順序」を設けているのだから、そもそもその事情がないなら、そんな「順序」は完全にない」
以外の話はありえない。
***
じゃあ、そんな、単位について問われていない時にまで、
「そんなことをやらなきゃならない」
あるいはもうちょっと譲歩したとしても、
「やった方が良い」
理由なんか、ある訳ないんだよな。
2_9_1_2.数の掛け算の「順序」の問題は、より大きな見地からは、「一律このようにする」というパターンとして捉えられる
でも。
実際には、
「そうした事情が生じた時のための備えとして、一律このようにすることには価値がある」
こういう運用になる。
現に、九九にも「順序」を導入しようなどという話が出て来ている。
難易度の低い掛け算である九九には、そもそも「順序」などないが、数学教育上の都合で、あたかも難易度の高い場合のように扱う。
これによって、難易度の高い事態に対処できる。リスクも判断コストも下がる。
いいことづくめではないか。そういう話になっても、無理はない。
数の掛け算の「順序」の話は、「異なる単位の並び方に意味がある場合」を意識させるためのものだった。
それを「徹底する」ための手段として、こうして「一律やるよう教えている」訳だ。
***
数の掛け算の「順序」の問題は、より大きな見地からは、
「難易度の高い事情が生じた時のための備えとして、一律このようにすることには価値がある」
というパターンの一環として捉えられる。
(だからこそ、九九にも一般化されようとしている訳だ)
***
しかし、もちろん、社会生活の中ですら、単位の並び方が大事な時と、そうでない時がある。
それを、
「単位の並び方が大事な時と同様にやれば、一貫して間違いはない」
という姿勢で、
「全て決め打ちで臨む方が良い」
という考え方で、話をしようとしているように見える。
そんなことをして、果たして目立った副作用なしで済ませられるのだろうか?
副作用があった時、取り返しがつくのか?
(なお、先に書いておくと、「取り返しはつかない」という話をします)
2_9_1_3.「一律やる」パターンのデメリット
2_9_1_3_1.「一律やる」パターンのデメリット
こういう「過度な備えによる一律化」スタイルには、弊害があります。
別の例を考えてみましょう。
それを通じて、
「ああ、過度な備えによる一律化、ダメなんだ」
と納得してもらうことになるかと思います。
(これから、ちょっと脇道に外れますが、我慢して下さい)
2_9_1_3_2.別の仮定。例えば、「5W1Hを常時完全に宣言する規約」、一見良さそうだが、円滑に喋れなくなるし、書けなくなるし、適応出来なくなる
国語とか英語とかの話ですが、よく、
「5W1H(いつ・どこで・誰が・何を・なぜ・どうやって)」
の話があるじゃないですか(本当はもっとある)。
で、我々は、会話や文書で、常に5W1Hを守っている訳ではない。
というか、
「ギッチギチに5W1Hを守っているが、これ、わずらわしいな」
ということ、たくさんあるじゃないですか。
時と場所が関係ない普遍的な話の場合は、「いつ・どこで」を問う必要がないから、省略したり。
人が関係ない非生物的な自然界の話の場合は、「なぜ・どうやって」を問う必要がないから、省略したり(また、場合によっては、「誰が」を省略したり)。
対象が関係ない自分だけの実践の話の場合は、「何を」を問う必要がないから、省略されたりすることがある。いわゆる自動詞の話だ。
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で、それらのざっくりとした場合分けがあるにもかかわらず、一貫して
「5W1Hはフルセットで喋られ書かれるようにしよう。という努力義務を設ける」
という話が、例えば可能な訳です。
***
ふつう、日本の法制度の用語では、努力義務とは
「やれたらできるだけやってほしい」
という意味ですが、教育での運用を考えると、これは
「とにかく全力でやれ」
という形で実際には使われてしまいがちです。
それでは意味が違う。困る。
***
さて。
これ、
「素晴らしい。是非採用すべきだ」
というであろう人、私の周囲にも何人かいます。目に浮かぶようだ。
こうした方が、何はともあれ整合的であり、
「誤解の余地があまりなくなる」
という実用的な効き目も期待でき、しかもある種整然として美しい。
いいことづくめに見える。
***
が、単純に社会生活はメチャクチャ滞ると思いますよ。
自分の身になって考えてみます。そうやって、果たして、円滑に喋れるか? 書けるか? おそらくすぐに無理になってくるでしょうね。
省略しなかった場合、どういう言い回しにするか、いちいち立ち止まって考えることが多くなるだろうし、明らかに多くなりすぎるからです。
***
そして、これで文句言われたり、査定が下がったりするのだとしたら、そんな社会生活に適応出来るか?
社会生活での脱落者は、しばしば自動的に、就職における劣悪な選択肢を余儀なくされる。
最悪、ドロップアウト側となり、働いても食えなくなる。食い詰めることになる。
(ちなみにこれを、激務で喘いでいるが飯は食えている私が言うのは、端的に盗人猛々しいのです。そういう自覚は、あります)
「5W1Hはフルセットで喋られ書かれなければならない」
というの、ドロップアウトの理由として、正直だいぶ受け入れ難いものがある。
そんなことで、人を脱落させるな。食い詰めさせるな。
生活は、生死の要にして、待ったなしの急だ。
「不要不急の脱落者を何となく出して良い」
という話、そもそも極力避けるべきことではないのか。
2_9_1_3_3.TPOの場合分けがあり、省略した方がいいものは省略した方が円滑である。場合分けを無くして一律化したら、この円滑さは失われる
話をもうちょっと一般化して構わないレベルにまで一般化すると、
「TPO(時と場と場合)をざっくりと分けて、省略した方がいいものは省略した方が、実際としては円滑だ。
場合分けを考慮せずに、何らかの基準を一律厳格に適用したら、この円滑さは損なわれる」
ということは、しょっちゅうある。
ふつう、広く
「何かをする実践」
とは、こういう
「前提となる状況の場合分けによる、適切な実践のカスタマイズ」
と、
「実践コストの低さ、手間のかからなさ、要するに円滑さ」
によって可能になっているところがある。
これらがダメなら、それはどんどん出来なくなる。
起きている事態や問題に適切に合わせていかない。そして実践コストは高い。
こんなんじゃ、そりゃ、碌に出来る訳がない。
2_9_1_4.判断コストの節約より、判断によって手間を節約した方が、基本良い
2_9_1_4_1.たいていの場合、「判断コストを下げるのと、手間を減らすのと、どちらがマシか」という話にならざるを得ない
かなり多くの人は、何らかの基準を厳格に適用することについて、いちいち考えて生きる訳ではない。
判断して、あるいは習慣化して、TPOに合わせて省略して、要らざる手間をかけずに済ませているのだ。
こうすれば、手間のコストは下がるし、円滑にやっていける。
これは、
「一律同じように考えることで、場合分けを「しない」で、場合分けのための判断のコストを下げる」
という話とは相容れない。
場合分けを「する」話と、場合分けを「しない」話なのだから。
2_9_1_4_2.たくさん何かをやるのなら、手間が減った方が、基本的には安くつく
そして、肝心なことだが。
「いろんなことをしたりしなかったりする。そしてその実践の結果や成果が残る」
という、現実に顕われた部分の話をする限り。
同程度のまとまった出力をもたらすためにかかるコストにおいては、場合分けの判断や習慣による手間のコストの省略の方が、一律化による判断コストの省略よりも、基本的にはうまみがある。
出力は、結局、「やる」ということを省くわけにはいかない。ここが最後の関門だ。
だから、手間のコストが減れば減るほど楽にやっていける。
2_9_1_4_3.判断を節約して、手間が増えることを、何とかしたいなら、せめてそういう社会設計をしなければならない
もちろんこれは、判断力に混乱がない時に限る。
判断力に混乱があったら、判断のコストの方が重たく感じられる。これは当然にありうる事態だ。
でも、じゃあ、
「混乱しないように判断力を鍛える」
という方針で教育できないだろうか。
これも実践の習慣化と同様、馴れでかなり円滑になっていくものだ。
そして、これが教育であり、鍛錬であろう。
あるいは、そこまで高度な判断をしなくても手間がかからなくて済むように、社会設計の方を整えるべきであろう。
今の社会は、先人の努力によって、過酷さを志向するスパルタ式の社会設計ではなくなりつつある。大事な話だ。
2_9_1_4_4.「判断は節約できるが、手間は増えるし、どうにもならない」という話を、「より望ましいからやるべきだ」とお出しされても、困る
だが、教育はともかく、そんな面倒な社会設計の調整などしたがる人は、実際には当然少ない。
そういうことで、判断力を教育で陶冶していかない。社会設計も触らない。という事態が、ふつうに発生する。
となると、結局、
「判断しなくてもいい。
しかしそれによって、無駄な手間はかかる。
そしてこれはどうにもならない」
という話をしていることになってしまう。
これでは楽になるとは限らない。
むしろ、きつくなる場合、かなりあるだろう。
選択肢の一つとしては可能かもしれないが、これを
「より望ましいことであり、これをもって従来のやり方を広く廃す」
と言ってお出しされても、
「個々の事例では知らないが、全体として見た時に、従来のやり方より望ましいようには到底見えないが? 広く廃さないで欲しい」
という話は、当然避けられないだろう。
2_9_1_5.一律化ではなく、場合分けをした方が、基本良い
2_9_1_5_1.「一律このようにする」方式だと、あちこちでたくさん蹴つまづく。TPOの場合分けをした方が、社会生活で蹴つまづくことは減る
「TPOの場合分けをせずに、一番面倒な事態になっていた時のために、一律備える。そういう姿勢で、常に振る舞う」
ということは、少なくとも、個々の事例でしっくりこなくなるから、あちこちでたくさん蹴つまづくだろう。
実践上はかなり邪魔な足枷となり、つまりは有害に働くだろう。
それとも、そういうかなり多くの人たちが、あちこちでたくさん蹴つまずくような、そんな社会設計がいいのか?
円滑に暮らしていけない社会生活を、特段の余儀なき事情もなく、前提とする社会設計、困る。
***
そういうことで、
「この場合はこのようにするんですよ」
と言って、TPOの場合分けをしてからやるべきこと、たくさんある。
TPOの場合分けをした方が、社会生活で蹴つまづくことは減る。
社会生活は、たくさんの物事であり、それは様々なTPOで場合分けされるものなんだから。
これをすっ飛ばしたとしたら、社会生活どころか、やることなすこと、何もかも蹴つまづく。
一律の話は、どうしてもやる場合、そもそも蹴つまづく元だ。そう弁えねばならない。
2_9_1_5_2.狙いの説明のために、しなければならない話
もし、
「数学のためではなく、社会生活のために、単位の扱いを、一律こうせよと教えているんだ」
というのなら、そこに
「TPOの場合分けの話なんかしなくていい」
という話が眠っていないか、よく考えた方がいいですよ。
***
「一律こうせよという話は、蹴つまづかない適応のことを考えると、どうしても場合分けに劣る」
「だが、そういう柔軟な適応に寄与する話は、判断力に余力があったらやって欲しい」
「判断力に余力がない、混乱している場合に限れば、一律こうした方が、少なくとも判断コストは低い」
こういう話は、なされなければならない。
***
数の掛け算の「順序」の話は、異なる単位の並び方の場合を意識させるためのものだった。
それを徹底するための手段として、一律やるよう教えている訳だ。
「異なる単位の並び方の場合を一律やるよう教える」
ということを、何のためにやっているのかというと、
「一番面倒な場合に備えて、リスクと判断コストを下げさせる」
ためにやっている。
そして、
「一番面倒な場合に備えて、リスクと判断コストを下げさせる」
教育は、
「不適応でなく、適応をもたらす」
ために、そう信じている教師たちの手で行われる。
そういう話をしないと、
「どういう嬉しさがあるのか」
という理由の話に、結局はつながらない。
そういう話は、されなければならない。
2_9_1_5_3.誠実のために、避けては通れない話
そして、
「個々の事例の場合分けに馴れて、判断力を鍛えるという話は、ここでは捨てられている」
「「一律化」という手段は「TPOの場合分け」という手段とは、基本相容れない」
「もしふつうに場合分けをするなら、一律化のための努力は、基本的には無駄な努力になる」
ということも、誠実のためにやるべきでしょう。
2_9_1_5_4.質問されたらうまく答えられなければならない。ここで適切な答えを持たないのなら、その狙いはそもそも正当化出来ないものである可能性が高い
もちろんこの場合は、
「場合分けに熟練する方が、総合的に見て、より望ましいんじゃないんですか」
と生徒から問われた時に、
「そうではない」
と自信をもって答えられなければなりません。
それも、理由を付けて。
付けられないなら、そもそもそういう話はしない方がいい。
総合的に見て、より望ましくない方を、そう認識しておきながら教えるの、およそ正当化できない。
「なぜ一律化の方が、総合的に見て、より望ましいのか」
それも問われたら答えられなければなりません。
私は、これに対する、適切な答えを持たない。
何か特定の個別の話を過度に一般化したら、弊害があった。
しかもそこまでしてやるメリットを説明できない。
説明しようとしたメリットは、何ならことごとく今までの話に抵触している。
これは、ダメだ。
2_9_1_5_5.場合分けをしなくて済むように、単位にこだわり、社会生活に適応出来ればいいが、逆に問題になっている以上、この話はジエンドだ
そして。
最終的に、単位を杓子定規に当てはめるが、TPOはいちいち考えない元生徒たちが、社会に送り出される。
それで、元生徒たちや社会にとって、成功としていいのか?
そうはならないでしょう。結局は、本来だったら避けられて当然であるところで、たくさん蹴つまづくことでしょう。
そうした元生徒たちは、やるべきことにかけるべき労力を、無駄なこだわりに費やして、周囲に迷惑をかけて、社会が困る。
これは、社会生活と言う観点からは、不適応だろう。適応ではなく。
「適応でなく、不適応をもたらす」
という話が、しかも問題として捉えられるほどになってきている時点で、この話はジエンドだ。
これを、諸手挙げて、歓迎する訳がない。
2_9_2.「一律やる」のと同じ弊害がある、その他のやり方
2_9_2_1.「前提の説明がされていない」ため、「適用範囲が前提抜きで拡張される」ことがある。これは結果的に、「一律やる」のと同じことになる
さらにいうと、数の掛け算の「順序」が正当化可能な、必要となる前提が明示されない。という話を、前にしました。
教える側が、話の前提を、伝わるように説明していないし、現に生徒には伝わっていないので、生徒としては理由が分からないまま手癖だけで学習することになるんですね。
しかもその話は、九九の話にも適用可能であるよう、前提抜きでに拡張されている(少なくとも、数の掛け算の順序を肯定する立場からは、これを積極的に除外しようという動きは特にないように見える)。
なので、九九の記憶がある生徒は、いつの日かそのうち混乱することになる。
そういう混乱を避けるために一律化をやっていたはずなのに、一律化によって混乱が生じる。
これでは、困る。
前提が「意図的に」隠蔽されている、とは思わない。
が、要は明示されていないから、効果としては
「TPOの場合分けを、この際いちいち考慮せずに、一律やる」
のと同じことだ。
こういう「無駄な」難易度の上昇によって、生徒が混乱したらどうなるか。
それは、やはり、「余計な」脱落者がたくさん出る。ということだ。
余計な脱落者という時点で、そもそもこれは、「数学」「教育」上、マズイ。という話にしかなり得ない。
***
前にも言いましたが、実際にここは、数学教育上、致命的なポイントなのです。
教育者が生徒を、育てるどころか、場合によっては潰すことを、基本的に黙認している。
余計な脱落者をたくさん出して、平然としているということは、そういうことに他ならない。
「余計な脱落者をたくさん出して悪びれないこと」
は、その教師の中の
「事情があれば生徒を潰してよい」
という価値観の顕在化した指標として、かなり警戒すべきポイントであると言えるでしょう。
そんな酷い仕打ちの理由には、様々な事情がありうる。
「自分にその能力がないから」
とか、
「自分が忙しくて手が回らないから」
とか、
「とにかくそういう何らかの方針があるから」
とか、
「その方針に、合理的な説明はできないが、得体の知れない魅力を感じるから」
とか。
いずれにせよ、それは世間的には、教育者に「持っていて欲しくない」理由であり、価値観でしょう。
少なくとも私は、そんな人の門下に、自分の子供を通わせたくない。
本人が真面目に勉強した結果、頭が悪くなって、社会生活に支障を来す変な癖を身に着けて来たとしたら、教師に対して文句の一つも言いたくはなるというものだ。
2_9_2_2.「場合に適していない制約を課す」ことは、「一律やる」のに似て、蹴つまづく、という悪い効果がある
あと、
「気を付けるべき前提を不当に無視して一律化することの弊害」
の話に加えて、
「何かの扱いを不当に高めることの弊害」
の話をします。
個々の条件や、その性質としての単位等の扱いを不当に高めると、それらの理解の難易度も不当に上がることになります。
だってそれ、本来の数学的な都合と関係のないところでダメって言われるんだから。
本来不必要であるような、心の棚を作らなくてはならない。
当然これは、余計な手間だ。
「場合に適していない制約を課す」
というの、ダメですよ。
そういうことをしていると、やることなすこと悪影響がある。
生じている問題としては、しっくりこない動きを一律やるのと同じく、適応を妨げる系のパターンのやつだ。
やめた方がいいと思うんですよ。
2_9_3.もうちょっと俗っぽい話
2_9_3_1.無駄なところにこだわる「無能な働き者」扱いされるとなると、数学と数学教育と社会生活の擦り合わせは、実際には失敗ということになる
もうちょっと俗っぽい話もします。
***
数学教育で数学をやって、社会生活で数学を実際に使っているうちに、ある混乱が予想される。
***
単位の並び方にこだわるべきとは言えない時に、つまりは数の掛け算の「順序」が関係ない時に、仕事先で
「これは順序が間違っています。
何で若造の私より大人のあなたの方がバカなんでしょうか。
従ってられません」
と先輩や顧客相手に公言したら、どうなるか。
「その「順序」とやらが、お前の美意識以外に、何か意味があるのか?ぶっちゃけ、仕事に効いて来るのか? そうじゃないんじゃあないか?
そもそも一般的に理論上はそういうルールになってないし、個々の実践面でも、この場合は何らそういうルールにはならない。
そもそも知識が理論面でも実践面でも間違っている時点でクソダサい。
間違っているところにネチネチとこだわって無駄な手間をやるの、倍クソダサい。
そのことに自覚も疑いも反省もないから3倍クソダサい。
しかもそれで他人をバカにして相手の邪魔をするとなると、もう4倍クソダサい。役満クラスだ。
そんなのに巻き込まれるの、大迷惑だし、ものすごく腹が立って来るな。
絶対にこいつに仕事で協力しないでやろうな」
これくらいのことは、思われて当然でしょう。
そんなので人とやっていけるか? かなり厳しくなってくるでしょうね。
***
あるいは、
「何で手間をかけている自分と手間をかけていないあいつらが同じ扱いなんだ。
のうのうとしてるんじゃない。
あいつらのやり方に腹が立って来る」
となったら、その職場でやっていけるか。
もっと悪いことに、そういう人は、しばしば他人のやることなすことに
「あなたは無能だから、これは善意で、もっとよくしてあげよう」
という態度で手を突っ込んでくることがある。
これはもちろん、介入というやつだ。しかも、横槍としての。
要するに
「お前がやるより自分がやった方が出来る。お前のやっていることは意味や価値に乏しい」
という訳だ。
ふつうこれは、やってる人に対する、かなりきつい侮辱でしょう。
「そんなつもりはない」?
じゃあますますやるべきではない。
意図するのは手を突っ込んできた側だが、解釈するのは手を突っ込まれた側だ。
相手としては、手を突っ込んできた側を、信頼なんかできる訳がない。
だったら、侮辱と読み取りうる外形的な行為から、侮辱ではない意図を、読み取れる訳がない。
そんなことをするほど甘い訳がない。そういう謂れがない。
それに、場の中で様々な案件があった時に、それらの案件の軽重を問うべきは、手を突っ込まれた側か、そうでなかったとしたら場の偉い人で、ふつう手を突っ込んできた側じゃない。
そうした手を突っ込まれた側や場の偉い人から
「何様のつもりだ」
と反発されるの、かなり当たり前でしょうね。
しかも、これが仕事として効いてきているかというと、そんな保証はない訳です。
是正したい人は美意識でやっているんで、仕事の効率化がなされているかは必ずしもそれと同じ話ではないからです。
というか、同じだと思っている人がいる。そんな訳ないだろう。それらの間には偶然的な関係しかない。
もし、どうしてもカイゼンの真似事をやりたいのなら、美意識なんかに頼るな。仕事効率をダイレクトに見ろ。そういう話になる。
***
こういう「働き者」、よく働くかもしれないが、その場で必要なことより、不要なことに注力している。
「真面目で労力のコストも嫌がらず払うが、実践上何の意味も価値もないところに注力して、当然報われない人」
というの、本人の自覚とは逆に、世間的には「無能」と査定されても、まあしょうがないところです。
昔、(ドイツの軍人ゼークトが言ったとされるが、実際にはやはりドイツの軍人ハンマーシュタイン=エクヴォルトが言ったらしい)「無能な働き者」「勤勉な馬鹿」という、だいぶキツイ言い回しがあります。
「そういう人には責任ある仕事をさせない」
という文脈で出てきます。キツイ。
というか、
「無能な働き者、勤勉な馬鹿に、責任ある仕事をさせない。干す。追放する。真に最悪の場合、殺す」
という動機を持つ、場の偉い人、かなりたくさんいます。
場を滞らせる人を、場の偉い人が問題視するの、そりゃあ無理もない話だ。(法律とかがそういう仕打ちをどれほど容認しているかはケースバイケースだが)
そういうところに、善意と努力を全部突っ込み、挙句の果てに問題行動者としてブラックリストに入れられ、何なら放逐されるの、不毛もいいところです。
これはなんとしても避けねばならないところだ。気を付けましょう。
2_9_3_2.量の概念における、役に立たないこだわりが、理系の仕事や文系の金を扱う仕事への、就職上の選択肢に悪く効くし、そうなると食い詰める
もっとぶっちゃけた話も可能かと思います。
社会生活の中には、金や仕事などの量の概念が絡んでくるものがある。
理系の仕事は、特に量の話は避けられない。
文系の仕事でも、金を扱うところはそうだ。
量の概念のレベルで、役に立たない考え方にこだわって凝り固まっていると、少なくとも理系の仕事や文系の金を扱う仕事をやるのはかなり難しくなるだろう。
そういう前提は採用に影響して来るから、これによって就職上の選択肢は狭まる。
そうなると、食い詰める。そういうかなりひりついたデメリットに直結する。
(私も一時期無職で、赤貧洗うが如しでした。就職上の選択肢が狭まるの、まあ実に嫌な話ですよ)
2_9_4.社会生活へのメリットの話をしたいのだとしても、そもそも社会生活へのデメリットが多すぎる
こうなると、社会生活へのメリットどころか、デメリットということを、真剣に考えざるを得ない。
こうして羅列してみると、だいぶマズイやつばかりだ。
本当に適応のために導入していいのか? 逆に、不適応の危険性というか、リスクや脅威の方が、はるかに高いのではないか? 罠だらけではないのか?
そもそものメリットの話は、それらのデメリットによって消し飛ぶことを考えると、実は成り立っていないのではないか?
そういうことは、真面目に考えなければならないところです。
だって、ここの達成がダメなら、この手段はそもそもダメなんだから。
(次回は、社会生活ということから一旦離れて、単なる生活、そしてそれを支える心身の健康の話をします)
(要するに、無駄な労力を費やすと、潰れますよ。という話になります)