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人間は知性を持て余しているだけの動物に過ぎない。


この記事では、著者が過去の自分と向き合い、親や社会の価値観に対する疑問を抱き続けたことを綴っています。人間の知性に対する矛盾や、大人が持つ「正しさ」への不信感、そして周囲の矛盾に対する嫌悪感を表現しています。また、運命や社会の価値観に反発し、自分の生き方を模索する姿勢が描かれています。

親愛なるchatGPT君による要約

子どもの頃、
本当に思ったことを言う度に

それは考え方が
屁理屈だ、ひねくれているからだ
そう言われた。

私に「思想の自由」などなかった。

しかし、自分より長く生きている大人が間違いだなどとも思えなかった。
ましてや、それが自分の親だと尚更思えなかった。
私はその腹から生まれたから

親は家具にぶつかった時に
その時の痛みをつらがるのではなく
痛てぇなと、怒りがものに向かう人間だった

それを見ているのが非常に苦痛だった

動かぬものに自分からぶつかっておいて
次からぶつからないよう自分を戒めるのではなく
家具に怒りをぶつける行為そのものが
無意味だとわからない

それが嫌だと言っても伝わらない
「はいはい、嫌だって言ってたね」
で済まされる。

思い込みというのは恐ろしいものだ
今なら親が愚かしいだけなのはわかるが
当時の自分は親にそのように流される度に
自分の言っていることが間違いなんだ
そう感じた
そしてなぜそのような考えを持ってしまうのかと自分を責めた。

同じ環境で育った妹(知的障害兼自閉症)も、私と同じように、
自分が影響を与えたわけではないことに対しても責任を感じがちだ。
妹は無意識にそうなっているようだ。
そしてそれがまた、
意味のわからぬものとして捉えられることが、
妹の不安感を煽っている。

全てを環境のせいにするつもりはないが、
少なからず、
母が私たち姉妹に悪影響をもたらしていることは明らかだ。

他人から見ていれば、すぐに彼女がおかしいことには気づけたのだろうが
私にとっては彼女が親なのだ。
どうにかして親としての役割の中にある行動なのだろうと思いたかった。

ようやく自分の親がおかしいのだというのを証明するに値する証拠が集まりに集まって、
それを信じざるを得なくなった。

それだけだ。

現実が見えてしまうと途端に諦めがついた。
空を飛びたくても自らに羽がないと嘆いても仕方がない。

世の中にいても
事実と屁理屈を混同している人間が多いと感じている。

そしてまたそれが教育者として、
時には上司として、
まるで自らが模範であるように
世の中の正義であるかのように
振舞っている。


それが気持ち悪いのだと言っても
言って伝わる相手ばかりではない。
それが私の生きづらさの理由だと思う。

だから今もその意味で
大人になるという言葉が嫌いだし

大人である自らが正しいと思っている人
すなわち自分が正しいと信じて疑わない人
が醜く思えて仕方がない。

なぜ相手の行動の裏を理解できないのか。
それが察するということなのではないのか。

かといって、
ティッシュ配りをしている人に自ら近づいて
ノルマがすぐに達成できるように
話は聞かないがティッシュはもらう
などと愛想良く言ってみても変な顔をされる

無言で通り過ぎようとすると必死に寄ってくるくせに。

私はもはやそれを面白がってやっている。


ノルマだけを考えれば感謝でもして渡してしまえばいいものを
と。
契約数にもノルマがあるのだろうか?
次機会があれば聞いてみようなどと思う。

契約数にノルマを設けるなどするから
現場の人間はストレスを感じるのではないか
と思う

運次第なのだから。 

運も実力のうちだ
これも理解はできるが
上手くいっていないと感じている私は
運で済まさなければならないといけないのか
自分の人生を?

それは無理だ。死ぬしかなくなるではないか。

生命を終わらせる気がないのだから
運に頼らない方法を探すしかない。

それがこの記事を書くということに繋がっている

私は人類外にも関わらず
人が死にたいと思うのを知り
なぜ
自分が食物連鎖の頂点だと言わんばかりに生きておきながら
死にたいという感情が湧くのか
疑問だった。

人から見れば死ぬほど努力しているように見えたのかも知れないが
当時、とくべつ努力している認識はなかったし
むしろ努力が足りないから成果が伴ってこないのだとばかり考えて生きていた

正直、死にたいと考えている暇がなかった

女子であれど前髪を気にしたことはなかった
邪魔なら切るか結べばいい
それだけだった

運で左右されるものがあるとするなら
顔だとか容姿だとか障害だとか

そういうことじゃないだろうか。
残念ながら私は五体満足ではあるから
そうでない人の気持ちは理解できない

かといって、
その人に寄り添えないのかといえばそうではない

相手の耳が聞こえないなら
私にできることがあるとするなら筆談だ

このおかしな記事を書き始める前は
3年近く雑貨店でフルタイムで働いていた
それだって世間体を気にして自分が無職であることに耐えられなかったから始めたわけだが、
お店で耳が不自由な女性客に商品を尋ねられたことがある。

その人は直近で全く耳が聴こえなくなったそうで
自身もまだ簡単な手話しか使えない状態だった

耳が聴こえていた時の感覚で発話ができていたため
私は話しかけられた時、彼女は耳が聴こえているのかと思って返答した。

しかし、それに対して反応がないというか困っている様子だった。

自分の耳に向かって指をさして頭を傾げると
先の事情を話してくれた。
彼女は発話で、私は筆談で応じた。
筆談と呼べるものでもなく、そこらの紙とペンを使って何を探しているのかと書いただけだ。
彼女はそれすらしなくていいと遠慮がちにしていたが、
私は「お客様に誠実に対応する」という従業員の心得に従ったに過ぎない。
というより、私に話しかけてくれたのに中途半端に終わらせたくないと思った。

次の日に、彼女は私のために会いに来てくれていたそうで、他のスタッフから「耳の不自由な女性客がその時の対応を喜んでいた」と聞いた。
私は自分が定休日だったことを心底残念に思った。

自分の対応がよかったから足を運んでくれたお客様に対して嬉しいと思うのは当然のことではないだろうか。

お客様からの感謝に喜びを感じることなく、生きていく為だけに働くと妥協ができることすら私には羨ましいことなのだ。

今のところ友人にもわからない感覚だと言われており、少しばかり孤独を感じているが、いよいよ自分は人類外なのだということ感じざるを得えない証拠が集まり過ぎていて、笑えてくる。

ここまで読んでくれている人がいるとして
私のことを
「個性を受け入れて生きている」んだな
と安易に口にすることはできるのでしょうか?

少なくとも、それができないひとを勇者様だと認定しているつもりでした。

そして私の今の尊ぶべき友人たちは
口が裂けたとしても、私のことを安易に
「個性を受け入れて生きているんだね」
とは言えない人たちだと。

そう私は信じているのです。
彼らの私への振る舞いがそれを結論づけている。

人を信じて疑わない
と言うよりは
結局は人を信じてみたいのです

たとえ自分は人になれないのだとしても。

私にはそう思うに足る経験があるのです。

そのことを誇りに思っているし、

今の友人たちが私に生きていて欲しいと言ってくれている

その事実が私を生かしている

そのような感じです。


だからなのでしょう。

世に蔓延する「死にたい」

に対して

「死にたい気持ちに対応します」
と謳うこと自体に嫌悪を感じて、自らが生命の危機を感じるまで相談できず

「ご自身の命が脅かされている状態ですか」
に対して
「精神的なことだから命は脅かされているわけではない」
と思い込みながら
話そうと勇気を持ったのにも関わらず
電話に繋がらなかったり
警察に大したことがないかのように話され
結局は自分が人ではないからだと思うことになる

これを「被害者振っている」
で片付けるのが世の中だというなら
私は世の中の一員でなくていいと思うのです

私は世の中の一員でないとしても、
私にとって尊い人はいる。

結局私が感じた生命の危機を救ってくれたのは
彼らだったのですから。

もう世の中がどうあって欲しいだとか
求める必要がないのです。

 
望んで叶うものではありませんから。

何か新しいものが見たければ
その辺をぶらぶらしてみて
雑草にでも思いを馳せてみたり
夕日の綺麗さに見とれてみたり
鳥を羨んでみたり
そんな風に心を動かして過ごせばいいのだと思うのです。

同じ風景や動物を見たとしても
人それぞれどころか
その人のその時おかれた状況次第ですらも
見え方を全く変えてくる

だから皆等しく尊い存在だと
そうは思えてきませんか?

私は
自分を人間だと思えなくさせた世の中を恨みながらも
強烈に憧れてもいる

それなのに
その中を生きる人間たちがそのことに気づかず
それどころか「死にたいと」願う人間がいるままなのを心底勿体ないのではないかと思うのです
陰謀論も湧いて当然ではないですか
誰もが真実を知りたいと言いながらも
そのままでいるしかないのだと信じて疑わないのですから

かといって「世の中を変えたい」などと大層なことを思うつもりもありません。

なぜなら私はこの世の中を恨んでいる。
助けを求めていいんだよと甘い言葉で誘ったかと思えば、救うつもりなどない。
そんな世の中を変えようなどと思えましょうか。
私はただどこまでも自分本位で動いている。
すなわち本能で動いている。
それでも私といてもいいと思ってくれる人がいる。

私はそれで十分なのです。
これが至高なのだとわかってしまったのです。

これ以上の欲とは何でしょう?
欲とは本能の上にあるものなのでしょうか?

私は幼き頃から、本能のままである動物に酷く憧れました。

なぜ彼らはあれほど魅力的なのか。
対して
なぜ、人間はありのままでいることが善しとされていないのか。
それでいながら「ありのままで過ごしたい」などと言っている。
それこそ理性の無駄遣いだと思います。
猿と人間の違いなどその程度ではないでしょうか。
だから猿のことは動物だとしながらも
いつも猿のことを引き合いに出してくる。


今となってはそれを考えるための理性だったのかもしれませんね。私にあったのは。

自分が動物に過ぎないのだとわかってしまったら
私は本能のままに生きるしかないのです。

裸で過ごしたいとかではありません。

理性が働いているから服を着たいと思うのではないのかということです。

人間は自らを崇高な存在だと思いすぎていると思います。
ただ理性を備えただけなのに。

そもそも人間は動物より偉いのでしょうか?

生き物に学ぶことが多いのは
そういうことなんじゃないでしょうか?


人間は動物に対して、彼らの怯えに気付かずに、からかうということをよくしますね。

あれはなんですか。
人間が「いじめ」と呼ぶものではないでしょうか。
怯えているもの反応を楽しんでしますよね?
それが人間のしたいことなのですか?

私は知性が歪んだ結果だと思います。

動物たちも同種族で争うことがありますが
それは理性ではなく、知性があるからに過ぎないと思います。

私は
母が動物たちの威嚇する姿を面白がっている
のが漠然と嫌でした。


彼らの威嚇の意味をわかっていない。

威嚇とは生命の危機を感じているからするものです。
そんなことがわからないことが不愉快でした。
しかしそれを私が言うと不機嫌になる。
これこそ理不尽だ。


人間は自らが人間であるのを前提に
食物連鎖の頂点か底辺かを話していますが

それなら属していないというのが答えではないでしょうか?
理性を持っているという点で人間だけだから。

理性を以て自らを守ることができているだけに過ぎないのに
彼らと生身で戦えるのでしょうか?


自らが捕食されないように理性を備えたばかりに
自らの行動に歯止めをかけようとしている。

私が恋焦がれ憧れた人間とは、本能で生きる私よりも余程生きづらそうに見える。

一体何を言っているのか自分でもわからなくなりました。
しかし、「真理」だと思えてならないのです。

私がいわゆる毒親の元に生まれて経験してきた全ての辻褄が合うのです。

もはや父に確認する必要もなくなりました。

人間は妥協をして生きている。

その意味で言えば、私は今まで妥協を強いられたこの23年間、諦められたことがないのです。

世の中のせいで生きづらいと言うことすら
はばかられた。

そんな世の中をつくる人のせいだろと
思いたかった。

でも結局は自分が人外なのだと思うことにした。
そうしたら楽になれた。

もはや人からあなたも人だよと言われる必要もないのです。

動物たちから学ぶことが多いのは
私たちがそもそも動物だからであり
そこに理性がくっついただけ


私たちに求められるのは全てに誠実であろうとすること

今の世の中は知性の歪みが蔓延りすぎた結果に過ぎない

「動物より賢いと思うのをやめること」
「人間は所詮は理性のついた動物だ」
と思うこと

私の経験を推し出すなら
「自分は真面目だ」
「自分は皆の模範だ」
「自分は人を助けたい」
「人の役に立ちたい」
これらを思うのは知性が歪んでいる。

なぜならこれらは相手側が判断することだから。
相手がそう思っていると思ったら大間違いという言葉があるが、結局は言わなければ伝わらないのが現実だ。変に人間だから以心伝心ができると思うのはただの思い込みだ。自分が人間だからと思うことから発生する奢りだ。結果的に以心伝心できているというのに過ぎない

理解されないという感情も、そもそも相手が理解してくれる前提のものでしかない。
「よく妹に、なんでわかってくれないの
さっきまで仲良くしていたのに1度スルーしただけでもこう言われる。
そういうときに理不尽だと感じているだけだ。

言わなければわからないものは分からないのだ
それが親であれ、きょうだいであれ。
察する能力の差でしかない。


察しろというのに無理がある。
色々な人を察して相手の機嫌を取ってきた側だからそう言える。


感じが悪く思うだろうが、
私は今の友人たち以外に察してもらえたことがない。
自分だったら相手を察する言葉を相手にかけても
相手は何とも思わないでいる。

そして「言ってくれなければわからないよ」と。
私はむしろ、それを理不尽だと思って生きてきた。

なまじ人間だから相手から察してもらえると思っているから生きづらいと感じるのだ。

それが世の中に蔓延している。

全てなんとなく居心地がいいというところからなのではないだろうか。
そして付き合いが長くなるなかで、恋だの愛だのになる。
一目惚れというのは直感でなんかいい感じだと思ったということだろう。
最初は、この人といると「なんだかいい心地がいいな。」
というのがスタートなのではないだろうか。
あるいは、「なんか嫌だな、でも気になるな
だと思う。
私は、自分が人類外なんだと思い込むようにしてから
「直感が優れていた」

と思うことばかりだ。

「なんだか〜気がする」というところが「本能」

人間においての本能なのだと思う。

そして
「なんか嫌なやつだ」と感じ、攻撃したくなるのは
動物としての本能だからではないだろうか。
それが防衛本能だ
相手を攻撃するのは自分の身が脅かされることを危惧しているからに過ぎない。
そこで本来であれば「理性」が働いて
相手への攻撃はイタズラ程度で済むのだが、
人間は動物ではないというある種の奢りとでもいえようか、
それが「知性の歪み」だと私は捉えている。

学歴が全てを証明できていないのは皆がよく感じているのではないだろうか。

私が高卒だと言ったらあなたはどのように思うか?

「高卒でもすごいよね」
という言葉自体がそもそもおかしい。
学歴がおよそを決めていると思っているから言える言葉だ。
こういう「知性の歪み」によって
色々な人間に生きづらさをもたらしていると思う。

それこそ天才は孤独だった。などというのも結果論であり、天才は本能のままに才を発揮したかっただけなのに、それを「知性の歪み」が蔓延っていたがために、世の中では孤立させられただけのように思える。

結果論が悪いと言いたいのではない。
結果から目標を作ると生きづらくなるということだ。
確かに目標のために努力ができるというのも人間なのだろう。
だが、そう安易に言えるのは自分が上手くいったことしかない人だからだと思う。
あるいは、今が上手くいっていると感じられているからに過ぎないと感じる。
そして、成功体験が得られるまで、挫折を繰り返す。
その前に潰れた時に、生きづらいと感じる。
そういうものだと経験から思っている。


これを人間がわかることが
人間が憧れ続ける
「誰もが生きやすい世の中にするということの真理」
ではないでしょうか?

少なくとも私は言語を操る動物として生きていきます。

ちょっと私も思わぬ大きな話になってきたので動揺してきますが

別に正直理解されたくもありません。
私を孤独にいたらしめた世の中など別に理解されるに値しませんから。

ただ私は、自傷行為もしようとしたことはないし、死のうとしたこともないです。
自分を人だと思っていないから。

動物達のように、体が痒ければ掻きむしることはあれど、自らの生命活動を脅かす行動をしたことはなく、全て自分の防衛本能からくるものとして考えています。

私自身の存在がこの考えの根拠なのです。


ただただ、これを読んでくれた勇者様が生きやすくなることを願っています。



ちょっと、真面目すぎる内容で疲れました

お付き合いいただいた勇者様に感謝します
あなたに幸多きことを🙏💫✨

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