天文21年(1552)1月2日は南近江を治め幕府に影響力をもった六角定頼が亡くなった日。兄氏綱が病死すると禅僧だった定頼が還俗し家督を継いだ。幕府の中枢に関与して将軍足利義晴や義輝の擁立に貢献し管領代として後楯となる。定頼は六角氏の最盛期を築き畿内に進出してきた三好氏とも争った。
永禄8年(1565)1月1日はイエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラとルイス・フロイスが幕府に新年の挨拶をした日。しかし布教の後ろ盾として期待していた将軍・足利義輝が5月に永禄の変で三好三人衆や松永久通らに殺害される。一時的に京を追われるが上洛した信長に畿内での布教を許可される。
天文19年(1550)11月21日は将軍足利義藤(義輝)が京で三好長慶と戦い近江堅田へ逃れた日。将軍家、細川氏、細川氏家臣の三好氏の三家の中で敵味方入れ替わり争っていた。義藤は父義晴と細川晴元に伴われ京を脱出し近江へ逃れていた。東山に城を築くなど京奪還を図ったが三好勢に敗れた。
文禄3年(1594)1月4日は医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)が88歳で死去した日。道三は正親町天皇・将軍足利義輝・織田信長や毛利元就など戦国大名の診療した医師。医学書「啓迪集」や「雲陣夜話」など数多くの著書を残した。また医学校「啓迪院」を創設し後進を育てることにも力を注いだ。
永禄8年(1565)12月2日は覚慶(足利義昭)が帰京のため上杉謙輝虎(謙信)に援助を依頼した日。5月に三好・松永らに覚慶の兄・将軍義輝が殺害され幕臣の手引きで監視されていた興福寺を脱出。近江へ逃れ諸大名へ幕府再興の御内書を発した。翌年には還俗し義秋を名乗り越前朝倉氏を頼った。
永禄12年(1569)4月8日は信長がイエズス会宣教師ルイス・フロイスに京都居住と布教を許可した日。理解者の足利義輝が討たれた後に京都を追われ4年ぶりの布教再開。キリシタン大名の高山友照(右近の父)らの尽力があったとか。権力者都合で保護されたり迫害されたり状況は変わるものですね。
永禄2年(1559)6月29日は将軍足利義輝が長尾景虎(上杉謙信)に鉄砲火薬調合法の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」を贈った日。上洛後に腫れ物を患って坂本(大津)にいた景虎への見舞い品。もともと大友宗麟より義輝へ献上された秘伝書。景虎は義輝の信任厚く頼りにされていたことがわかる。
永禄9年(1566)2月17日は足利義輝の弟・覚慶が還俗し義秋と名乗った日。永禄の変で兄が殺害され覚慶は興福寺に幽閉。近江に脱出し還俗。越前朝倉氏に庇護され義昭と改名。信長と上洛し将軍に就任するも対立し追放。関白秀吉に臣従し将軍職辞任。僧で終わるはずの人生が兄の死から激動すぎて。
元亀2年(1571)2月11日は鹿島新當流を開いた塚原卜伝が死去した日。将軍足利義輝などにも剣術指南をした剣豪。囲炉裏端で食事中の卜伝に若い頃の宮本武蔵が斬りかかり鍋の蓋で刀を受け止められた創作逸話がある。卜伝死後に生まれた武蔵と戦わせたいと後世に思わせるって面白いなと思います。
永禄元年(1558)6月7日は朽木谷に潜伏中の将軍足利義輝に朝廷から永禄改元の通知が届いた日。室町時代は幕府が関与して改元することが通例だったが三好長慶に追われていた義輝は3ヶ月以上も改元を知らされていなかった。このため元号として弘治をまだ使っていた義輝は朝廷に抗議したという。
永禄12年(1569)4月14日は将軍足利義昭が再興された二条御所へ入った日。前年に信長の助力で上洛し将軍に就任した義昭は本圀寺を居所とした。しかし1月に警備の隙を狙った三好三人衆による本圀寺の変が起きた。このため信長は義昭の兄義輝の二条御所跡を拡張し防備の整った御所を造営した。
永禄4年(1561)3月30日は三好長慶の子義興が相伴衆に加えられた機会に三好邸に将軍足利義輝の御成をうけた日。一昼夜に渡り千人余が参加した饗宴。こうして将来を嘱望された義興は2年後に22歳の若さで病死。弟達に続き嫡男を失った長慶が心身に異常をきたしはじめるのもわかりますよね。
永禄3年(1560)5月19日は信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った日。有名ではあるものの昔からの通説と最近いわれる説では内容が大きく違ってきた合戦。はっきりしていることは今川軍にとって総大将の義元をはじめ松井宗信や井伊直盛といった多くの有力武将が討死する大惨敗な合戦だったこと。
永禄2年(1559)2月2日は織田信長が上洛し将軍足利義輝に謁見した日。目的は尾張統一がほぼ成り支配の大義名分を得るためや将軍の現状を直接見るためだったともいわれる。翌年が桶狭間でこれからいよいよ本格的に東の今川と対峙するとなれば尾張支配のお墨付きが欲しいというのはわかりますね。
天文19年(1550)11月21日は将軍足利義藤(義輝)が京で三好長慶と戦い近江堅田へ逃れた日。将軍家、管領の細川氏、細川氏家臣の三好氏。三家の中で敵味方入れ替わり争う。義輝も後に帰京するも再び近江へ追われる。長慶は将軍の家臣の家臣。権力と権威が分かれていることがよくわかります。
永禄4年(1561)1月20日は将軍足利義輝が今川氏真に松平元康(徳川家康)との和睦を進める書状を出した日。義輝は積極的に戦国大名同士の抗争の調停や自らの名の1字を与えるなど将軍権威の復活を目指した。担ぎたい人達にとって御輿の勝手な動きは邪魔でしかないわけで対立から悲劇へ繋がる。
永禄2年(1559)6月29日は将軍足利義輝が上杉謙信に大友宗麟より献上された鉄砲火薬調合法の秘伝書を贈った日。上洛後、腫れ物を患って坂本(大津)にいた謙信への見舞い品だったとか。秘伝書が謙信に伝わると宗麟は思っていたんでしょうか…。謙信への将軍の信任が厚いことはわかりますけど。