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剣豪将軍と呼ばれた男、足利義輝はなぜ最後まで戦うことを選択したのか

「剣豪将軍」というみょうを持つせいたいしょうぐんがいたことをご存じでしょうか。室町幕府13代将軍あしかがよしてるです。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では向井理さんが演じており、ご覧になった方も多いでしょう。ドラマでも描かれていますが、当時の足利将軍は無力で、ほそかわ氏やよしなどの配下の勢力争いに巻き込まれて、たびたび京都を追われていました。

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しかしそうした中、若き将軍となった義輝は屈辱に耐えながら、「武家のとうりょうと呼ばれるにふさわしい力を取り戻せるよう努めていきます。その過程で剣聖と称されるつかはらぼくでんし、また前回紹介したうえすぎけんしん(当時はながかげとらと出会ったことは大きな意味がありました。今回は、義輝がいだいていたであろう大望と、それに向かって最後まで前進し続けた生涯をまとめた記事を紹介します。


義輝は本当に剣豪だったのか

足利義輝の名が近年広く知られるようになったのは、みやもとまさたか氏の小説『剣豪将軍義輝』の影響が大きいかもしれません。同作品は舞台化もされて、人気を博しています。

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一方で義輝を剣豪と呼ぶのは、あくまでも創作の世界の話とするむきもあるようです。将軍が学んだ剣などたかが知れており、いわゆる「殿様芸」ではなかったのかと。しかし義輝の名はその死後も、剣を学ぶ者の間では知られていました。それは徳川将軍家の兵法指南役を務めた柳生やぎゅうたじまのかみむねのりが、塚原卜伝の弟子の中でも屈指の者として義輝を挙げていることからもわかります。何より、最後の壮絶な戦いぶりが、実力を裏づけているといってもいいでしょう。

塚原卜伝と長尾景虎

義輝の生涯は僅か30年という短いものでしたが、人生を左右する出会いがありました。その一人が、剣聖・塚原卜伝です。卜伝より鹿しましんとうりゅうを伝授されるにあたり、義輝は剣技だけでなく、心のあり方も学んだでしょう。ろうの身をいたずらに嘆き、無力な将軍であることをするのではなく、そうした負の感情を取り払った時に、何が見えてくるのか。とらわれていた心を解放することで初めて、たいする相手や直面する課題のありのままの姿も見えてくる……。それは剣の世界のみに留まらない、生き方の極意に通じるものではなかったかと考えます。

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鹿島神宮

もう一人は長尾景虎(上杉謙信)。「越後の龍」とも呼ばれる乱世の武将でありながら、景虎が私利私欲をさし挟まず、純粋に「秩序の回復」を願っていることが、卜伝の教えでありのままの姿を見ることができた義輝には、痛いほど伝わってきたのでしょう。義輝は景虎を心から信頼し、生涯を賭けた大望をともに抱くことができたのです。

では義輝は具体的に何を目指し、最後に命よりも重んじたものとは何であったのか。それについてはぜひ、和樂webの記事「将軍としての使命とは。足利義輝の壮絶すぎる30年を約15000字で徹底解説」をお読みください。

戦国の世に、こんな若き将軍もいた

さて、記事はいかがでしたでしょうか。辞世とされる歌を読むと、何ともいえない気持ちになります。足利義輝について初めて知ったという方は、戦国の世に、こうした思いを抱いて生きた若き将軍がいたことを心のどこかに留めていただければと思います。

次回は、義輝の死の知らせを受けた謙信の心の内に芽生えたものについて、想像をまじえながらまとめた記事を紹介する予定です。

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