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菊之助丈の《俊寛》初日付近の感想:「諦める」ことをしない僧

 菊之助丈俊寛の最後の目の意味が分からない。  初日・二日目・三日目・五日目と四回観て、なおはっきりと掴めない。というのも、  俊寛といえば自己犠牲と凡夫心、孤独と絶望とその先の諦観、というあたりが定型であろうが、岩に登って遠くを見つめる菊丈俊寛の目は、わたしには、諦めているようには見えないのだ……。  俊寛は、はじめ遠くの水平線を見る。遠ざかって姿を消した船をいつまでも見送るように。そのあと、その視線が、ゆっくりと上がっていく。焦点はどこかに合っている。ぼんやりと遠くを見て

    • 《吉野川》感想:玉さまの情深い定高から物語の構造が "見えた" こと

      どうしたって死ぬよりほかは無かったのだ。彼らは。入鹿という最凶権力者に目をつけられてしまった時点で。先々に予期される苦しみを考えたら、あの場で命を絶つのが、誰にとっても最もマシだと思われたのだから。 と、いうのが、9/11(水)の回の《妹背山婦女庭訓:太宰館花渡し・吉野川》の、玉三郎丈定高を中心に観ていて思った総括です。 以下に、そこに至る思考を書きます。 雛鳥は、己の恋の操と命を、秤にかけるまでもなく操を尊んだ。母の定高も娘の尊厳を守るためにその選択を認めた。しかし雛鳥

      • 研の會《摂州合邦辻》右近丈の玉手御前の感想:存在理由を見つけた女性

        第八回《研の會》の、昨日の夜の部の右近丈の玉手御前に強く感じたのは、それゆえにわたしが思いがけず悲しみに突き落とされたのは、凄まじいまでに確固たる、自己肯定感の低さであった。 前半の玉手御前は、時々面をクモラス際に裏の思惑をちらりと見せつつも(※その点、モドリに及ぶまで徹底して本心を隠し通して見えた菊丈玉手より“わかりやすさ”があったと思う。嫉妬の乱行に及ぶ直前に、覚悟を決めたように小さく頷く動きも、菊丈の玉手には無かった気がする)、艶やかな女性美を、芝居としては観客に、物

        • 『狐花』読後感想:歌舞伎版と比べて

          とうとう読みました~~~。こちらは歌舞伎版の「原作」というよりも、「小説版」と呼びたく思いますので、以下もそのように書いています。 【小説版の雑感】 ● 接触の少ない “歌舞伎らしさ” 小説では冒頭、曼殊沙華の原で、中禪寺洲齋が萩之介の腕を掴んでいる時間が長い。歌舞伎版ではグッと短い。これは、役者同士の直接の接触をあんまり行わない歌舞伎様式が影響してるように思った。歌舞伎で本当に接触すると(※立廻りとか濡れ事とかで)、ふだんボカしているぶん、生々しさのパワーが強いのである

        • 菊之助丈の《俊寛》初日付近の感想:「諦める」ことをしない僧

        • 《吉野川》感想:玉さまの情深い定高から物語の構造が "見えた" こと

        • 研の會《摂州合邦辻》右近丈の玉手御前の感想:存在理由を見つけた女性

        • 『狐花』読後感想:歌舞伎版と比べて

          京極歌舞伎《狐花》感想:監物の邪恋と美冬の遺伝子

          昨夜観ていて分かったんですよ、監物という男に対する罰の重さが……! (※当方は原作読んでない状態でコレを書いております  18日以降に拝読します) 歌舞伎版ご覧になって、皆さん『手ぬるい』って思わなかったですか?監物の処遇を。『なんだよ辰巳屋も近江屋も因果応報で死んだのに大元凶が生きてんじゃん!!えっなんで!?なんでコイツ見逃すの!!?』て思ったヒト挙~~~手!!!ハイハイハイハイ!!!わたし思った!!!   そのうえで、憑き物落としに一貫して流れる “非暴力” のポリシー

          京極歌舞伎《狐花》感想:監物の邪恋と美冬の遺伝子

          七月松竹座《義経千本桜》:ちょっと云いにくい感想

          今回はタグをつけずに置きます。いつぞや、オフレコ喋りっぱなしで玲さんと七月松竹座の感想スペースひらいた際の内容について、"聞いてなくって知りたいです" というご要望を後日受けまして、改めて、ギ……ギリッギリ世に出しても許されるんじゃないかなァ!?? というかたちにまとめたものです。スペースお聞きになった方はドコをドウ書いててナニを書いてないか思い出してお楽しみいただければ倖いです。     《木の実》 小金吾に対して凄むとこ、ニザさまは左の片肌脱いで肩をバッとお見せになる

          七月松竹座《義経千本桜》:ちょっと云いにくい感想

          大阪松竹座《八重桐廓噺(嫗山姥)》の感想

          ※旧Twitterにも熱に浮かされてぼこぼこ書きましたので気になる御方は「from:@sarumal 八重桐」でご検索ください。 八重桐さんのステキさは、歌舞伎の “ステキな女性” が当然備えているべき見た目の美しさ、に加え、廓で培った教養を身に着け、咄嗟の機転が利き、見知らぬ屋敷に乗り込んでいく度胸もあり、ギーッと歯を剥き出して《身替座禅》の奥方同様に怒りを見せる親しみやすさや茶目っ気もある。要素を見てけばキャラとしては《毛抜》の粂寺弾正に近い。 逆に云えば【歌舞伎の「普

          大阪松竹座《八重桐廓噺(嫗山姥)》の感想

          2014年の演劇集団キャラメルボックス《無伴奏ソナタ》当時の感想

          2014年10月30日付で、演劇集団キャラメルボックスの《無伴奏ソナタ》を2度観た感想をTwitterにぼつぼつ書いてたものを拾い上げたまとめです。 以下、当時のをそのまま載せます。自分用です。  プロローグ、《音合わせ》。  初見は、光の輪が波紋状に広がるさまにおぉ、と思い、音と光の共演にただ目をうばわれた。二回目で、こういうことじゃないか、と思ったことを書く。 他の人々がただ発し、消えていくだけの《音=声・挙動=才能》のなか、クリスチャンの《音》だけが、周囲の耳目を引

          2014年の演劇集団キャラメルボックス《無伴奏ソナタ》当時の感想

          七月松竹座《すし屋》の感想:誠実で非力な維盛卿(萬壽丈)

          大阪松竹座七月大歌舞伎の16日と17日の回を3階から観ました。 萬壽丈の維盛/弥助は前にも(しっかり)観ていたのですけども、今回あまりにも清新な人物像を見せられた思いがして、以下に書きます。 ◆弥助の誠実さ・好ましい婿候補ぶり まず萬壽丈の弥助(維盛)のすごいのは、空の鮨桶担いでヨロヨロひぃふぅ帰ってくるのがホントにかわいくって頼りないところ…… どうして……歌舞伎役者は年齢に関係ない可愛さを放つことができるんだ…… 奥から出てきた梅花丈のお米に対する慇懃さも、嘘くささ

          七月松竹座《すし屋》の感想:誠実で非力な維盛卿(萬壽丈)

          《上州土産百両首》牙次郎の感想:がじのどじを腑分けする

          ※ヘッダーの画像はチラシからです。    《上州土産百両首》を前に映像で見たとき(※リアルタイムではチラッと見ただけで「鑑賞した」まで及んでない)は牙次郎役が巳之助丈で、“一般的水準にまで機能的発達が達していない青年” という印象を受けた。他の人より発達に時間がかかるか、時間をかけても膨らむ容積のマックスが小さい、というような、個人の意思や努力がそのまま結実しにくい(/実を結ぶまですごくすごく時間も労力もかかる)タイプの特性を持って生まれた人、と見えた。そのため牙次郎の、ボデ

          《上州土産百両首》牙次郎の感想:がじのどじを腑分けする

          《上州土産百両首》の三次の感想:羨み続けた男の話

           六月大歌舞伎、隼人丈による「みぐるみ三次」が強烈に後をひいて落ち着かないので書きました。  以下は初日から五回くらい見た時点での感想です。お芝居が変わったらまた感想も変わるかもしれません。あと五回は観たい。    三次という男は、悪事を飯のタネにしてることをちっとも後ろめたく思っておらず、むしろ真面目に働くカタギを馬鹿にして、抜け目無く立ち回ってチョロく稼げる奴こそ偉いんだと思ってるようなフシがある。    彼がその主義・思考に至っているのは、一つには、三次の社会的弱みがあ

          《上州土産百両首》の三次の感想:羨み続けた男の話

          芝のぶ丈の八汐きっかけで思うことになった、歌舞伎世界における「女」の話

          ※ヘッダー画像の写真は近代美術館で撮った岸田劉生のコレクションです。内容と密接な関係はありません。  《伽羅先代萩》の八汐は(真)女方が勤めるべきお役でない、というようなお声を複数お見かけした。立役に比べるとどうしても、生々しくなりすぎるから、線が細くなるから、憎々しさの方向が変わるから、等がその理由だったと思う。  どうして生々しくなっちゃいけないんだろう、というところからぼんやり考えてった結果、歌舞伎世界の「女」という像が崩れてしまう恐れがあるから、なのではないかと至っ

          芝のぶ丈の八汐きっかけで思うことになった、歌舞伎世界における「女」の話

          《御浜御殿綱豊卿》の感想:Y字路上に立たされた宙ぶらりんの三者について

          真山青果の会話劇であるからして役者さんの口から出る滔々流麗たるセリフにうっとりと聴き惚れてても満足できる芝居だけれども、それだから初見の初日からとっても愉しんだ自覚があるんだけれども、連続鑑賞の4日目終盤にして「分かった~~~!!!」と思ってから臨んだ翌5日目の観ごたえ聴きごたえがとんでもなかったです泣きましたありがとうございました真山青果御大。ありがとうございましたニザさま幸四郎丈バチバチの応酬を。 人物の心の内は "ぜんぶセリフで言われてる" のだけど、シーンにおける話

          《御浜御殿綱豊卿》の感想:Y字路上に立たされた宙ぶらりんの三者について

          《籠釣瓶花街酔醒》勘九郎丈の次郎左衛門感想

          二月猿若祭初日、勘九郎丈の《籠釣瓶》次郎左衛門は、何よりも顔貌コンプレックスが基盤にある、と感じられた。 (前に観た勘三郎丈版の感想はこちら → シネマ歌舞伎《籠釣瓶花街酔醒》感想|猿丸 (note.com)) ひどい痘痕面で、初めて自分の顔を見た者は(ストレートに表すかどうかの差異は有れど)ぎょっとするのが当たり前で、だから次郎左衛門本人も慣れっこで、それが自分の定めなのだと諦めて、受け入れて、────でも確かにその都度傷つき寂しさを覚えていた人らしく思われた。 しっかり

          《籠釣瓶花街酔醒》勘九郎丈の次郎左衛門感想

          《狐狸狐狸ばなし》感想

          壽新春大歌舞伎、昼の演目最後の《江戸みやげ 狐狸狐狸ばなし》が気色悪かったことについて。 そう感じるに至ったポイントは、整理してみた結果二つあって、一つは物語の中の人間性の否定であり、もう一つは、これはわたしの穿ち過ぎかと我ながら思うのだけど、興行側の非人情的客観性である。 一. 物語の中の人間性の否定 わたしは幼少期から《コレクター》みたいなサイコ・サスペンスに対して恐怖が強い自覚があり、また "自我を剥奪される" 行為や状況に忌避感や嫌悪感を覚える性質である。ので、

          《狐狸狐狸ばなし》感想

          《妹背山婦女庭訓》お三輪と官女たち

           《妹背山…》の演目自体が歌舞伎の舞台で実見するのは初めてで、社頭の場("道行恋苧環")のとこは資料館の映像(求女が松緑丈でお三輪が先代雀右衛門丈)だったり日舞(お三輪が井上八千代氏)だったりで観たことがあるのだけど、全編通したオチまで知らなかったので、最後のほうなんか、あぁここでこうなるんですかぁ!ほへぇ! と新鮮に物語を楽しめた。  あと先月歌舞伎で観た段のさらに前の部分は、春に大阪行って文楽で(吉野川まで)観てたんで、https://x.com/sarumal/stat

          《妹背山婦女庭訓》お三輪と官女たち