本能寺の変1582 第102話 13上総介信長 4道三の援軍 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第102話 13上総介信長 4道三の援軍
村木砦の合戦。
同、天文二十三年1554。
正月二十四日。
信長は、村木砦を攻めた。
一、正月廿四日、払暁に出でさせられ、
駿河衆楯籠り侯村木の城へ取り懸け、攻めさせられ、
北は、節所、手あきなり。
東は、大手。
西は、搦手(からめて)なり。
信長の親衛隊が活躍した。
子飼いの若者たち。
激しい戦だった。
南は、大堀、
霞むばかり(霞むほどひろく)、かめ腹(甕のような形状)にほり上げ、
丈夫に構へ侯。
上総介信長、南のかた、攻めにくき所を御請取り侯て、
御人数付けられ、
若武者ども、我劣らじと、のぼり、
撞(つ)き落とされては、又、はひあがり、
手負・死人、其の数を知らず。
信長は、鉄炮を用いた。
自身も、鉄炮を手に取っている。
信長、堀端に御座侯て、鉄炮にて、狭間三ツ御請取りの由仰せられ、
鉄炮、取りかへ取りかへ、放させられ、
上総介殿御下知なさるゝ間、我も々々と攻め上り、
塀へ取り付き、つき崩しつき崩し、
織田軍は、三方向から攻め立てた。
総攻撃である。
西、搦手の口は、織田孫三郎殿攻め口、是れ又、攻めよるなり。
外丸一番に、六鹿と云ふ者、乗り入るなり。
東、大手の方は水野金吾攻め口なり。
信長は、村木砦を落とした。
激戦の末。
今川方が降参した。
城中の者働く事、比類なき働きなり。
然りと雖も、透(ひま)をあらせず攻めさせられ、
城内、手負・死人、次第々々に無人になる様(さま)に、降参申し候。
尤(もっと)、攻め干さるべき事に侯へども、
手負・死人、塚を築き、其の上、既に、薄暮に及び侯の間、
侘(詫び)言の旨にまかせ(申し出を受け入れ)、
水野金吾に仰せ付けらる(後始末を命じた)。
信長は、涙を流した。
信長とて、人の子。
戦死者を哀れみ、涙を流した。
信長御小性衆歴々、其の員(かず)を知らざる手負・死人、
目も当てられぬ有様なり。
辰の刻(8時頃)に取り寄せ、申の下刻(16時頃)まで攻めさせられ、
御存分に、落去侯ひ訖んぬ。
御本陣へ御座侯て、それもそれもと、御諚なされ、
感涙を流させられ候なり。
信長、那古野に帰陣。
翌日。
寺本城下に放火。
そして、帰陣。
翌日(二十五日)には、寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、
是れより、那古野に至つて御帰陣。
信長は、安藤守就に、道三への御礼の言葉を申し伝えた。
信長は、窮地を脱した。
道三の支援があれば、こそ。
一、正月廿六日、安東伊賀守陣所へ信長御出で侯て、
今度の御礼仰せられ、
それに対する、道三の信長評である。
守就は、このことを道三*へ。
その時の、反応である。
興味深い。
廿七日、美濃衆帰陣。
安藤伊賀守、
今度の御礼の趣、難風渡海の様体、村木攻められたる仕合、
懇(ねんご)ろに、道三に、一々、物語申し侯ところに、
山城が申す様に、
すさま(凄ま)じき男、隣には、いやなる人にて侯よと、
申したる由なり。
(『信長公記』)
*【参照】第96話 13上総介信長 2富田聖徳寺
たわけを態と御作り侯よ。『信長公記』
たわけ人と云ふ事、申す人これなし。『信長公記』
道三は、義龍に家督を譲った。
これから、程なくして。
道三は、隠居した。
時は、刻々と流れている。
その死の二年前のこと。
⇒ 次へつづく 第103話 13上総介信長 5清洲乗取り
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