私の関心は、実のところ、見性でも悟りでもなかった 内的な苦しみをどう乗り越えられるか、あるいは乗り越えられないのか、という一点ばかりであった ここに決着が付かないような悟りには意味がなかったのだ そのようなわけで、私の禅に悟りの文字は存在しない 強いて言えば、苦しみの変容が悟りだ
禅問答で問い自体が壊れて見性するのと、問いの答がユリイカ!するのは、問いから解放されるという意味では同じ一瞥である。