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法印のこと vol.1: 諸行無常①

仏教の特徴のひとつとして、「法印」に挙げられる形で諸相の特性を説き、実践者をその体験的理解へと導くベく実践がデザインされている、ということがあります。仏教の … と一括りにするのは、いささか乱暴な気がしないでもありませんが、とりあえずのとっかかりとして、そのように書かせていただこうと思います。

ところで、こと坐禅という文脈では、坐ることと法印とが関連づけられて語られることは珍しいかと思います。一方で私自身にとっては、仏教の基本理論としての法印の理解が、仏教の実践を行う過程で役に立ったということもあり、こちらでご紹介することにしました。読まれた方にとって、何らかの形でお役に立つことがありましたら幸いです。

諸行無常と言うと、すぐに思い浮かぶのは、『平家物語』の冒頭部分、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 
おごれるものも久しからず 春の夜の夢のごとし」
というくだりでしょうか。学校で暗唱した覚えのある方も多いと思います。一般的には、「今、大切に持っているものや、ずっと続いてほしい物事なども、永遠には続かない。儚いものなのだ」といった解釈がなされることが多い言葉ですが、この記事では、もう少し踏み込んだところで、諸行無常のお話をしてみたいと思います。

さて、「もう少し踏み込んだところ」の諸行無常ですが、ポイントはどこにあるのでしょうか。あえてポイントを一つ挙げるとするならば、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を通じて、認識の対象が現れ、消えていく様子に諸行無常を見ていくことと言えるのではないかと思います。つまり、「驕れるもの」ではなく、たとえば「腕の痒み」、もっと言うと、痒みというラベルを実際の痒みの感覚から外して、ダイレクトに痒みの感覚のみにフォーカスを置く、という感じでしょうか。

試みに視覚を通じてこれを検証してみます。イスに腰掛けて、目の前にある … 例えば一本のペンを手に持って、それを見てみます。手にペンがあるのが見えています。次に、手を下にだらっと下ろして、視界にペンが入らないようにしてみます。

ここで、「ペンはどこにありますか?」と問われたならば、一般的には手の中、と答えるのが普通でしょう。ですが、この認識、「さっきまでペンは目の前にあった」「その後、ペンを下に移動させた」という記憶に基づいた判断をもとにしているため、ある種の自動的な推論と言ってもいいようなものの見方なんです。


続く

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