日記4月20日 見るということ。
昨日朝の体重は66.1kgであった。体脂肪は5%とでたが、一昨日は体重65.7kgで体脂肪率は13%くらいあった。
一体この差異はなんだ、ということであるが、トレーニング直後は高いが、2日くらいすると低くなる感じがある。また当たり前かもしれないが、多めにあるいたり、公園で懸垂などをおこなうと、低くでるようだ。
タニタさんが、脂肪OR筋肉認定を、筋肉のこり?で行っているのだろうか。2日くらいでこれだけかわると、まあ、話半分、中取って平均でいいのかな、とは少なくとも思っている。
見る、ということについて考えている。
単純に、視覚細胞が目のなかにあり、外界からの映像を脳内に取り込んでいる、というイメージでやってきた。
今の時代はほとんどがこのようなものだろう。教科書で画像と目のレンズと焦点があう、合わない、などという図などを見ると、ああ、そういうことか、と思うのである。
だが、そこでの理解は、ある意味とても平面的なものだ。即物的、といってもいい。すべて世界は科学的にこのようなアプローチで理解できているし、それ以外にはない。それが世界だ。
これが「生きる」ということを腑分けした結果である、というイメージを、学校で学ぶ、という「正しい」しぐさのなかで日々実感し、その実感を育て、確認してきた。
だが、最近考えているのは、即物的にはそうである、そうであることは明確なのだが、果たしてそれで「わかった気がしてい」ていいのか、ということである。
見たものは見られるまで存在しない、という少し不思議な言い方がある。
普通であれば、存在しているが見たことがない、ということをただ言っているだけ、となるのだが、
ちょっとそういうことではないことを言おうとしている。
「見る」ことで、世界が瞬間瞬間に生まれている、というような感覚だ。
これは「事実」ということばとは親和性が低い。感じ方、というようなものに近いが、ただものごとをそう感じた、というのとも少し違う。
表現がむつかしいが、そういう在り方でしか世界はあり得ない、というような感覚に近いだろうか。生は一つの夢のようなもの、在るようで無いようで、という世界とつながるものかもしれない。
では「見るまでなかったのか」「見られた瞬間の一瞬前にいきなり存在開始したんか」、といった感じで否定したくなるが、
まあ、別に否定してもいいのだ。
そこは自由。
ただ、「私が考えているだけ」なのだから。
物質を手でつかむ。「物が存在する」のを実感し、われは物体のなかの魂、あるいは精神だ、と感じる瞬間である。
精神、これまた難しい言葉だ。
ただ、考えている脊髄反射的な感覚に近いものとは別に、「魂」といいたくなるものを自身の中に抱えている感覚もある。
個性、や人格、といったもので、魂とまでいうのは「そうであってほしい」という希望があるからだけなのかもしれないが。
そんな堂々巡りと近い感覚で、「見る」を考えると、単に鏡像をレンズが視覚の中に残している、というのとは別の考え方が、あるいはあるのかもしれない、という風に感じている。
(見る、という行為は、もちろん全身の5感を使って感じている行為のことなんですよね、、考えてみれば。。ちょっと自分っでもなにを書いているかわからなくなってますが(苦笑))