Iさんのこと

若いころ禅のH道場でお世話になった先輩に、Iさんという方がいる。ほとんど兄のような存在で、またIさん一家の方々とも親しくさせていただいた。
人間的に素晴らしい方で、禅の見地も抜きん出ておられるように私には感じられた。道場の老師(M老師)も深く信頼を寄せておられたように思う。
この方は坐禅をしてから見性(けんしょう)をしたのではない。見性をしてから禅の道に入って来られた、と言えるかも知れない。

見性という言葉は、本当は軽々しく使うべきではないだろう。字義としては、本性・仏性を見ること、すなわち悟りのことだと考えてよいのだが、一瞥をするという場合に使うこともあれば、深く徹底すると言う意味で用いられる場合もある。(曹洞宗では見性ということを言わないので注意が必要である)

Iさんは、若い頃勤めていた会社でのこと、あるとき意見の対立があって、同僚全員から総スカンを喰らった事があったという。真っ直ぐな性格の人なので、ストレートに自説を主張し過ぎたのであろう。その日、あまりの事に茫然自失して、山手線に乗ったのだが、座ったまま何周も回り続け、「オレはそうじゃない!オレはそうじゃない!」とつぶやき続けていたそうだ。ところがである、その憤懣やる方ない想いの中で、ふと「オレ、オレと言っているが、オレっていったい何なのだ?」と疑問に思った。そこに深く沈みこんでゆくと、突然こう気が付いた、「あれ?オレというものは本当は無いのではないか・・。確かに無いぞ、どこを探しても無い。」とても衝撃的な発見であったらしい。
何かが晴れ渡ったような気分で、自宅に帰って落ち着いてみると、非常に奇妙である。意識はどこまでも広がっていくような感覚である。ふと気が付くと、部屋のコンクリートの壁が透けて、外の樹々が見えている。落葉の一枚一枚が鮮やかに秋の風に乗って、散っていくのがありありと見える。
そんな不思議な経験をIさんは私に話してくれたことがある。仏教も禅もまだ何も知らないころの話だという。

凡庸な人なら、「オレは悟ったぞ」と得意になるかも知れない。愚かな人なら、教祖にでもなろうとするかも知れない。
Iさんの素晴らしいところは、逆に「これは、しかるべき師に付いてこの道を明らかにしなければならない」と即座に思い立った点である。H道場の老師(最初のO老師)を初めて見た時、直感的に「この人こそ私の師だ」と思ったという。こういったことは皆、過去生からの因縁の然らしむるところなのであろうか。

瞑想や禅の世界でいろいろな人達を見てきたが、禅の人々ほど純粋で誠実また謙虚な人々はいないと、ますます思うこの頃である。

(ALOL Archives 2012)

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