非二元・ノンデュアリティ、禅の見性で止まるな。
インド系、
非二元・ノンデュリアリティの一瞥、自覚は、
禅の真の悟り、見性、解脱と表現されるものではない。
また、禅の見性においても、
その見性の内容を伺うと、
「悟りぞこね」「道なかば」「真の悟りとは全く違うもの」
である事がほとんどだ。
悟りの探求歴が長かったので、
お釈迦さんが2600年前に指し示した
本物の悟りを体現出来ているのは、
日本では約30名前後だと云う事を把握しています。
非二元・ノンデュアリティ、真ではない禅の見性は
ほんの少し事実を垣間見て触れただけに過ぎず、
完全に六根の意の認識が落ち切っていません。
非二元・ノンデュアリティの体験・体感・気づき、
真の見性ではない、そこの道で立ち止まってはいけません。
精進して
完全に認識が落ち切るまで、
一度だけでいいから逝きましょう。
「気付きが深まる」だとか、
「悟りが深まる」
「悟りがだんだんと浸透して行く」
そんな事は
絶対にあり得ません。
そう感じるとしたら、
お釈迦さんが指し示した
禅・真の悟り、解脱とは違う事をしているのです。
「禅」「悟り」「見性」「解脱」、
すべて言葉を用いて考え方でこしらえた概念です。
言葉すら、観念・概念なのです。
完全に考え方や言葉を離れたところに、
概念から抜け出した所に
もともとの真相があります。
これを見てる貴方ははすでに
無我無心なのです。
頭での理解では悟りは開けません。
手を
「パン!」
あなたが聞こうとしてなくても、
すでに聞こえちゃってますね。
真に悟り、真の見性をされた方なら、
考え方による人間的在り様、生き方
のようなものを沢山書いて、
思想めいたものを教え伝えたりしないです。
本物の悟りは、
聖人君主のように絶対に怒らない
人間的な人格のお話しではないのです。
禅と云うのは、
考え方や概念で
「解かった!」と言うものではないのです。
ありとあらゆる観念知識から離れて、
世の中には出回っていない実践方法で
絶学無為で正しく行じて行くのです。
正しく実践が出来るように
禅を概念的に理解する事は大事なのですが、
今度は習い覚えた概念知識が
実践の障害になってしまい、
理解した所のものも、全て捨て去る必要があります。
考え方て取り上げてしまい
それが固定観念になり、
ますます認識以前の禅・悟りの今の事実の様子
から離れてしまい、
本物の悟り・解脱から遠ざかってしまうからです。