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日日是好日 【『碧巌録』第六則】

雲門、垂語して云く。
十五日已前は汝に問わず、
十五日已後、一句をち来れ。
自ら代わって云く。
日日是好日にちにちこれこうにち

大森曹玄著『碧巌録』(タチバナ教養文庫)

「日日是好日」という言葉は、日常でも耳にすることがあるため、その文字の雰囲気から、
明るい午後のひととき、お年寄りが縁側でお茶をすすり、「今日もいい日だな」とまったりと日向ぼっこをしている光景を思い浮かべたとしたら、それは大きな間違いです。

『碧巌録』の中に出てくる「日日是好日」は、のんびりとしたひと時とは真逆の世界です。
禅の修行をしている僧侶たちは、常に生きるか死ぬかの瀬戸際で生きています。
わずかでも気を緩めようものなら、師匠や先輩から厳しい叱責が飛んできます。
一瞬一瞬が、悟りと見性を会得するための真剣勝負であることから、「機」に敏感であることが求められます。
「機先を制す」という言葉があるように、師匠や先輩に注意される前に、己の境地の至らなさを自ら覚り改める必要があるからです。
このような瞬間のことを「禅機」と言います。
禅機とは、最高の教育のチャンスでもあります。
師匠たるもの、そのタイミングを的確に捉えて、弟子の悟りを促すことが要求されます。
弟子が「あと一歩で見性しそうだ」という機を捉えて問いを発します。
この時、弟子は長年抱えていた疑問や迷いが氷解し、一気に霊的な覚醒をすることになります。
これを禅の世界では、「啐啄そったく同時の機」と表現します。
鳥のヒナが卵の中にいる時、殻を破って外に出ようとする瞬間に、親鳥が外からわずかに小さな一押しをすることで殻が破れる様子を、禅僧が「見性」する瞬間に譬えたものです。
禅僧の場合、その「殻」とは、「小さな自我」や「迷っている自我」のことを指します。
「見性」とは、小我を捨て、大我に目醒め、真我にいたる時とも言えるでしょう。
見方を変えれば、古い自我をもつ自分が死に、大我の自分が生まれた瞬間とも言えます。
禅では、このような瞬間を「大死一番だいしいちばん大活現成だいかつげんじょう」と表すこともあります。
師匠が発する言葉は、刀や剣のような鋭さで弟子たちの「古い自我」や「迷いの雲」を吹き払います。
これを「殺人刀せつにんとう活人剣かつにんけん」(『無門関』第十一則)と言うそうですが、雲門禅師は、これの名手だったようです。(『碧巌録』第十五則参照)

仏教では、毎月十五日は特別な日とされてきました。
夏安吾げあんごと呼ばれている夏の修行は、四月十五日から七月十五日にかけて行われ、最初の日と最後の日には、師匠から特別な講話があったそうです。
冒頭に登場した雲門禅師の問いも、「十五日」に行われたものなのかもしれません。

十五日已前は汝に問わず、 
十五日已後、一句をち来れ。

【現代語訳】
十五日以前のことは、
もう過ぎたことだから問わんとして、
今日からのちどうしたらよいか、
誰かひと言いって見い

大森曹玄著『碧巌録』(タチバナ教養文庫)P.47

これは時間の相対性について言っています。

前半の部分をさらに詳しく表現すれば、

「十五日」だからといって、
その日だけ本気になっても手遅れだ。
十五日だろうがあるまいが、
毎日の一瞬一瞬を
死ぬ気で古い自我の殻を破り、
新しい大我に至って、
真我に目覚めているのか。
今ここでお前たちの本物の自分、
一無位の真人、
本来の面目を出して見せてみろ!

という修行の状態を確認する厳しい言葉となります。
そのような緊張感があふれた毎日であるならば、
「日日是進歩」
「日日是覚醒」
「日日是見性」
となるので、修行にとって良い日=「好日」と言うことができるでしょう。
このように、一日一瞬の心掛けが大切なのです。

はたして、そんな日々が送れているのか。
この言葉を目にする度に、背筋が正されるような清々しい気持ちになる自分がいます。



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