ムー! 【無門関第一則 趙州狗子】③
無門ガエル「じゃあ、カエル君、無門和尚の公案に対するコメントを、少しずつ見てみよう。」
カエル「いよっ!待ってました!(パチパチパチ)」
無門ガエル「坐禅をするなら、やっぱり悟らないとね、と。祖師の設けた関門というのは、無字の公案のことだよ。無字の関門を通り抜けるというのは、悟ること。悟るには、ものを常に対立的に見て、欲しがり、あるいは嫌がり、あるいは関心を示さず … 執着し、葛藤し、ものごとの本質を見るための智慧が出てこないようにしている、こういう、人の『心』の癖 … 自他を分ける癖ね。その癖を根本からを絶ってしまわないとだめなんだ。
仏教を学ぼうなんて言って、でも悟りの体験がないとしたら、色々な人が言った色々なことに対して、あれはどうだ、これが良い、悪い、こうしたら悟れる、あいつは悟っていないとか、ツボや像を買えば救われる、とか、延々と振り回される。色々な情報に飛び付いては飽きて、次の情報にまた飛び付いて … と、精神世界のデパートをウィンドウショッピングしているみたいになっちゃうんだな(こういう人、見たことない?)。そのうち、ウィンドウショッピングそのものが目的みたいになっちゃう。それを、草木にくっついているお化け(?)に喩えたわけだ。」
カエル「のっけから、結構厳しいこと言ってくれますね。ケロ。」
無門ガエル「まあね。こういう厳しい物言いをしないと、どうしても、そうなっちゃう人が昔も今も多いからだよね。」
無門ガエル「『一箇』というのは、我々が一個、二個、と数える一個ではなくて、一個、二個、と別に二つ三つあるわけではない『一箇』なんだね。理屈っぽく言うと、絶対的な『一箇』で、相対的な『一個』じゃない、とでも言ったら良いかな。実は、この『一箇』が体験的にわかることが、とても重要なんだ。それはつまり、無字がわかることでもある。無字がわかるというのは、お釈迦様や達磨さん、趙州和尚が悟ってわかったことと全く同じことがわかる、ということでもあるんだよ。今まで雲の上の存在のように思えていた人たちと、同じ体験をする … その体験をシェアできるわけだ。これって、けっこう楽しいことでしょ?」
カエル「おお、今度は飴と鞭の飴の方っすね … 上手いな。ケロ。」
無門ガエル「さっきも言ったけれど、体全体を疑問のかたまりにしてしまう感じね。「無字って何だ??無字って何だ??無字って何だ??」と、そう意識しなくても、何となく疑問がバックグラウンドにどっしりと控えているような感じ。それで、『ムー!』と、やっていくわけだ。声に出してもいいし、無声でもいい。力強く、『ムー!ムー!』とやっていくのだけれど、『何にもないんだな』なんていう風に思ったら落第だよ。そうじゃなくて、ただ『ムー!』ってやるんだ。理屈はくっつけないでいい。それで、とにかく無字をいっときも離さないつもりで、四六時中ムームーやっていく。忘れたら、気づいて、またムーッとね。そのうち、もう、無字を忘れようとしても忘れられなくなって、とにかくやるしかない、って感じになってくるよ。」
カエル「なるほど〜。とにかく最初は、無字を離さないっていうのが大事なのかな?ケロ。」
無門ガエル「そうそう、そんな感じ!」
続く