本当のことが知りたい。という想い
数日前にこんな記事を書きました。
こういうことにはこれまでにも何度も気づいてきて「またかぁ~」という想いがそのたびに出てきます。
でも、不思議と気づくと肩の力が緩むんです。
今回のことはその緩んだタイミングがよかったのかもしれないのだけど。
私はずっと何年も「本当のことが知りたい」という想いを持っていました。
生きづらさを解消するためにこれまでたくさん勉強したし実践してきたつもりで、苦しくないってところまでは来ることができたけど。
でもなんか、それはどこまで行っても知識上のことで「本当のこと」とは関係がないし、認識の上のことはどこまで学んでもどこにもたどり着かない感じがして。
確かに認識の上だろうが知識に過ぎないと言われようが、そこを整えていくことも大事だったし確実に役に立ちました。
でもなんか、それにはもう限界を感じてもいました。
そんな折、noteで井上哲玄老師を紹介されている方があったのを発見しました。
失礼ながら老師のことを全然存じ上げない状態のまま、一度目のオンライン禅会に出て、その翌日にはすぐに独参が決まりました。
この記事で↓超楽しみにしていたけど娘の発熱でリスケになった予定というのは哲玄老師への独参だったんです。
一刻も早くお会いしたかったのに一週間のお預けとなったこともよかったかもしれません。
やっと正師を見つけたという嬉しさではしゃいでいたところにお預け状態となったことで「どうにかしようとあがかないことだな」って改めて思ったから、それもまた緩む要因になってたんだと思う。
お預け期間に2回目のオンライン禅会を迎えたのですが、この時は何にも考えずに臨んでいました。
そして老師が画面越しに扇子を左右にゆっくり動かしたのを見た時にハッキリしました。
何年も「本当のことが知りたい」と思っていたけれども。
私がずーっと求めていた「本当のこと」はいつもそのまま目の前にありました。
これまでチラチラッと気づくことはあっても、結局それをまた体験や概念として握ってしまうから、目の前がそうであると思いつつもまた無くしたような気になっていたのでした。
見失うはずのないものというのはあまりにも当たり前すぎて、そのことを置き去りにしてどこかへでかけてしまうのだなぁ。
寸分の狂いも過不足も起きようのないことの中にありながら、人間ってどこまででも迷えるんだと思いました。
「心身脱落というけど、脱落する心身がそもそもないように思うのですが」と質問すると「その通りです」と。
うへえ~…!!という感じであららららら…という感じで。
老師を発見してからひと月に満たないうちの出来事でしたので、またたく間という感じでした。
そして一昨日独参してきました。
玄燈庵での滞在時間は5時間でしたが、一瞬でした。
老師に質問するのも対話をするのも楽しくて楽しくて、自分がイキイキするのがわかったし、あっという間でした。
神秘的なことを私たちは期待しているし、本当のことがハッキリしたらなんか高尚なものになるような気もしてた(笑)
でも、なんというか、これは本当に、摩訶不思議としかいいようがないもので、そしてそれが私たちのいつもの日常なのだなあ。
出家して尼になりたいと思ってきたことも、通えるお寺を探し回っていた日々も、尼寺で弟子にしてもらえなかった日も、坐っても何もわからなかった日々も、そしていつしか座ることもなくなってた日々も。
「本当のことが知りたい」ただこの一心は捨てきれなかった。
万策尽きたかと思ってしばらく経っていた。
でもでも。でもでも。
やっとスタートラインに立てたことが今は嬉しいです。
ありがたくて、どうしようもないです。
ここから歩むのだと思うと、嬉しくてたまりません。
より一層の精進あるのみです。