天正12年(1584)12月25日は越中富山城主・佐々成政が浜松城の家康を訪れ秀吉との戦いの継続を懇願した日。小牧長久手の戦い後に織田信雄と家康は秀吉と和睦。成政は命がけで冬の北アルプスを踏破し家康へ徹底抗戦を促すも失敗。このあと三河吉良で鷹狩り中の信雄を訪ねるも説得に失敗した。
天正12年(1584)4月6日は小牧で家康・織田信雄と対峙していた秀吉が三河に向けて別動隊を出した日。羽柴秀次を総大将に池田恒興、森長可、堀秀政を擁した三河奇襲作戦。これを察知した徳川軍が翌日夜ひそかに小牧山を出て長久手合戦が始まる。先に動くことが吉と出るか凶と出るか難しいです。
天正11年(1583)4月21日は賤ケ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破った日。信長亡き後の織田家を二分する主導権争いの勝者を決定づけた。一時戦場を離れた秀吉の隙を狙って勝家軍が攻撃。美濃大返しといわれる行軍で戻った秀吉軍が反撃。前田利家の戦線離脱などもあり勝家は越前北ノ庄へ敗走した。
天正11年(1583)5月2日は信長の三男・織田信孝が自刃した日。信長と長男・信忠が本能寺の変で亡くなったとき四国攻めの直前だった信孝。秀吉の中国大返しに乗った後は秀吉や次男・信雄と対立。手を組んだ柴田勝家が秀吉に敗れると岐阜城を囲まれ降伏。知多半島にある野間大坊にて自刃した。
天正9年(1581)9月11日は信長の次男信雄を総大将とした織田軍が伊賀国を制圧した日。第二次天正伊賀の乱。忍者vs織田軍が小説や映画に。2年前に信雄が独断で攻めて敗北し信長が激怒したようで。ゲリラ戦に苦戦したということでしょう。相手を侮っていいことは何もないということですね。
#歴史探偵 織田信雄「楽山園……」
天正10年(1582)12月20日は秀吉が柴田勝家と結ぶ織田信孝(信長三男)の岐阜城を包囲し和議を結んだ日。織田家当主と決まった信長の孫・三法師を信孝が安土城へ送らないことを口実に信雄(信長次男)と秀吉が岐阜城を包囲。越前の勝家は雪で動けず丹羽長秀や池田恒興は秀吉らを支持した。
天正12年(1584)11月15日は織田信雄が家康に無断で秀吉と単独講和を結んだ日。信長の次男・信雄は家康を味方にして台頭する秀吉と対立。4月の小牧・長久手の戦いを中心に睨み合っていたが自分の城を次々落とされていた信雄が所領割譲を条件に講和。戦う大義名分を失った家康は帰国した。
天正10年(1582)10月15日は秀吉が大徳寺で3千人参列した信長の葬儀を行った日。本能寺の変の後に信長の遺体は見つからず木像を棺に入れた。織田家重臣の柴田勝家などは不参加。信長の次男信雄と三男信孝は境界争いで揉めており不参加。秀吉は実質的な喪主を信長四男で養子の秀勝とした。
天正9年(1581)9月11日は第二次天正伊賀の乱で信長の次男信雄を総大将とした織田軍が伊賀国を制圧した日。土豪たちが協力して治めていた伊賀を天正6年から7年にかけて信雄は信長に相談せず独断で攻めて敗北した。激怒した信長は丹羽長秀や蒲生氏郷など名だたる武将を参戦させ制圧させた。
天正10年(1582)6月27日は信長・信忠亡き後の織田家後継者を決める清須会議があった日。通説では信長の次男・信雄と三男・信孝が争う中で4重臣が話し合い秀吉が信忠の嫡男・三法師擁立で場をまとめ主導権を握ったとされた。しかし初めから三法師を支える体制ための会議だったともいわれる。
天正12年(1584)11月15日は織田信雄が家康に無断で秀吉と単独講和を結んだ日。4月の小牧・長久手の戦いを中心に睨み合っていたが自分の城を次々落とされていた信雄が所領割譲を条件に講和。戦う大義名分を失い家康は帰国。頼まれて協力したのに梯子を外すってどういうこと?ってなりますよ