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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」しぶとく戦国の世で生き残った織田信雄

13日と20日の大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康が羽柴秀吉と生涯唯一、直接対決した「小牧・長久手の戦い」が放送されました。この戦いのキーマンとなった人物は、織田信長の子・織田信雄でしたね。

ドラマでは頼りなさげで、思慮に欠く人物像に描かれていますが、さまざまな歴史書を見ても、織田信雄の評価は高くありません。信長という偉大な父親と比較されるせいもあって、信雄は「凡将」の代表格のように書かれています。


今回は織田信雄という武将について考察してみましょう。

「歴史・人物伝」では以前にも織田信雄についてコラムを書いています。

そのコラムでも略歴に触れていますが、本能寺の変で討たれた信長の後継者・信忠とは同母兄弟となり、信忠の子で新たな後継者となった三法師とはおじ、おいの関係になるわけです。当然、後見役にはうってつけの血筋となります。

そこに横ヤリを入れてきたのが羽柴秀吉でした。柴田勝家を倒して織田家家臣のトップに躍り出た秀吉は歴戦の雄であり、信雄が太刀打ちできる相手ではありません。家康と組まなければ、とても対抗できなかったわけです。

家康に無断で秀吉と講和した信雄は、尾張などを領有する大名となります。天正18年(1590)の北条氏討伐後の領地替えで、家康が旧北条領の関東に転封され、家康の領国だった駿河など5か国に移るよう命じられました。

ところが信雄は、父祖代々の地である尾張の領有を主張したため、秀吉の激怒に遭い、改易処分が下されてしまいます。ここが家康との大きな違いで、自らの失策によって大名としての織田家を潰してしまったのです。

ただ、ここから信雄の「しぶとさ」が発揮されていきます。

信雄は、織田家すなわち信長の血脈が生き残っていくために、秀吉や家康に臣従していく道を選びます。改易後に流罪となり、出家した信雄でしたが、家康に取り入り、そのつてで秀吉の許しを請い、小さいながらも大名に復帰できたのです。

ところが慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で、信雄は西軍についたため、戦後処理で再度改易となってしまいます。そのまま没落するかと思いきや、信雄は豊臣秀頼のもとに出仕し、大坂方を支えていくことになります。

徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂冬の陣・夏の陣が勃発します。ここで信雄は豊臣家に殉じる道ではなく、城を出て家康に寝返るという行動に出たのです。このあたりにも信雄の「しぶとさ」がうかがえます。

戦後の論功行賞により、信雄は三度小大名として復活しました。その領地は四男の信良、五男の高長によって引き継がれていきます。信良の系譜は天童藩(山形県)、高長の系譜は丹波柏原藩(兵庫県)として明治維新を迎えられたのです。

信雄は、天下人ばかりか、大大名となることすらできませんでした。それが「凡将」と言われてしまう由縁かもしれません。ですが、信長の血脈をしっかりと残したというのは、信雄の唯一無二の功績だったのではないでしょうか。


次回の「どうする家康」では、織田信雄が見事に「やらかし」てくれます(苦笑)
浜野謙太さんの凡将演技が楽しみですね。


★丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジン「戦国ヒストリー」にて、ユーザー投稿で執筆中。よかったらご覧ください。


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マイケルオズ@日々挑戦する還暦兄さん(フリーランスライター)
noteでは連載コラム、エッセイをほぼ毎日書いています。フリーランスのライターとして活動中ですが、お仕事が・・・ご支援よろしくお願いいたします!