徳川家康さま☘️をたどる#49☘️源家康
初筆 2023年 8月 25日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける:徳川家康さま☘️をたどる#49
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1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著
信長公記 / 太田牛一さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
羽柴秀吉さまが家康さま成敗するための出陣直後、天正の大地震が発生💦京都から愛知県までのエリアはお城が倒壊、町々は壊滅
天正の大地震の被災地は秀吉さま従属の大名や国衆の地域で、城や町の復興のため、とても戦どころではなくなった
天正の大地震を受けて、秀吉さまも、🆚家康さま融和路線に変更。秀吉さま妹・旭姫が家康さま正妻となり、秀吉さまご母堂の大政所さまも岡崎に。人質を得た家康さまは上洛
家康さま、秀吉さまに従属。立場は秀吉さまご一門衆扱い、官位官職は正三位権大納言、これは秀吉さま弟の秀長さまに同じ
⬇️前回はこちら❗️
3 活きる小牧長久手の戦の結果
秀吉さまが家康さまを下にも置かず、
秀長さまと同じ官位官職を朝廷からいただけるように
手配し、また豊臣政権内で、重要な役割につける
ようにしたのは、やはり、家康さまの実力、
徳川軍団の軍事力と家康さまが方々から
頼られる大名に成長していたことが
世間に知れ渡ってしまっているためでした。
小牧長久手の戦での1番大きな戦闘で
家康さまが秀吉さまにボロ勝ちし、
そのとき、家康さまの名声が、これまでの
織田家中での名声から、日本全国の名声へと
拡大されたためです。
そんな家康さまを秀吉さまは下に置くわけには
行かなかったのです。
小牧長久手の戦は、表向きは、織田家中内の
お家騒動なのですが、実質は、
秀吉さまと家康さまの覇権争いでした。
そして、秀吉さまは戦略的に勝ち、
豊臣政権における中部日本地区の従属と
織田信雄さまは羽柴家の家臣ということを
明確にすることができました。
また、家康さまは、天下取りまでは行けなくとも、
名声を日本全国にはっきり見せていくことができ、
それは今後、チャンスさえ、巡って来れば、
天下取りができる❗️という状況を
自身にも、周囲にも知らしめた、という
計り知れないものを得ることができました。
家康さまの天下取りの準備ができたのが
小牧長久手の戦だったのです☺️
4 西と東の天下惣無事
家康さまが秀吉さまに臣従の意を表すために
上洛したころ、秀吉さまは、四国・北陸をも平定し
「天下静謐(てんがせいひつ)」、畿内からその近辺
までの惣無事を実現し、天下=中央=畿内の
羽柴領国化をなしえました。
織田信長さまに追いついたわけです😉🤚
秀吉さまの次の課題は、九州の惣無事実現で
大友氏と島津氏が自領国の境界線紛争の調停です。
ここで惣無事令について考えます。
「天下静謐」を成すのが中央政権の役割で、
そのために中央政権がやらねばならないことが
各国の戦国大名・国衆の政治的・軍事的統制です。
そのために具体的に発令するのが、惣無事令で、
それは、各地の戦国大名・国衆に
私戦の禁止
紛争解決は中央政権に委ねること
を求め、承諾させること、です。
そして、言うことを聞かない大名・国衆には
軍事征伐という最終手段が取られます。惣無事令を発令する者は、日本最大の軍事力を
もっていないといけないのです。
この惣無事令は、成分化された法ではなくて
大名・国衆間で認識されていた中世法、と言えます。
足利将軍が力のあるうちは、やはり惣無事令を
発行して、惣国静謐が成立していました。
足利将軍に力がなくなってきたため、
日本全国の惣無事ならずに、戦国時代となり、その後、
実力を持って惣無事令の効く範囲を広げていったのが、
織田信長さま、引き継いだのが羽柴秀吉さま。
足利将軍も織田信長さまも羽柴秀吉さまも
惣無事令の考え方・やり方はまったく同じです。
そして、秀吉さまの次の惣無事令は
九州地区の大友氏・島津氏に向けて、
いったんは停戦した大友・島津の両家でしたが、
秀吉さまの国分案は薩摩島津氏にとって
領国縮小になるため、薩摩島津氏は秀吉さまの
惣無事令に応じず、大友氏との戦を続行💦💦
そして秀吉さまが集めた軍勢が九州に向かいます。
島津成敗のため、1585年・天正の13年7月のことでした💦
そして、秀吉さまに臣従した家康さまは、
1586年・天正14年12月4日、
徳川領国の本城を駿府城に移しました。
今の静岡県静岡市ですね。
家康さまは、秀吉さまが進める
天下静謐目的の惣無事令うち
関東・奥羽方面を担当することになりましたが、
そのためには領国内の1番東側が都合がよかったのです。
「関東・奥領国惣無事」はもちろん秀吉さまが
主体となって行うこと、しかし、家康さまには
織田権力に従属中に
相模北条人
北関東国衆
陸奥伊達氏
出羽最上氏
あたりと外交関係を持った実績がありました。
秀吉さまは、この家康さまの外交実績を
利用する方が、秀吉さまが自ら
「関東・奥領国惣無事」を実行していくより
圧倒的に早いと考えたと思います。
これもきっと、秀吉さまが家康さま成敗を
中止にした理由になっているかと思います🤚
5 🆚相模北条氏
秀吉さまの意により動く
家康さまの「関東・奥領国惣無事」は
もっぱら🆚相模北条氏でした。
関東の
常陸佐竹氏
安房里見氏
北関東国衆
は既に秀吉さまに従属していました。
家康さまは、秀吉さまに従属するよう
相模北条氏に働きかけますが、
北条氏政さまはのらりくらり返事を先延ばしに
するばかりではなく、小田原の防衛体制を
強化し、臨戦体制を強めていきました💦
それが1588年・天正16年3月ごろまでの動きでした。
さらに秀吉さまの催促を受けた家康さまは
1588年・天正16年5月に北条氏政・氏直親子に
起請文を遣わしました。その内容は
臣従するならば領国の保証
兄弟衆を上洛させること
臣従しないならば、氏直さまに嫁いでいた家康さま娘の督姫を返すこと
北条・徳川同盟の破棄
つまり、家康さまは相模北条氏に大して
最後通告を行いました。
たぶん家康さまは「なんとかならんのん💦❓」
ていうニュアンスで通告したんだと思います😉🤚
家康さまに同盟破棄されることは
相模北条氏が孤立してへの道を歩むことになり、
ここで相模北条氏は屈服、
1588年・天正16年7月、家康さまは
氏直さま叔父の氏規さま上洛を促し、
8月に氏規さまご上洛、秀吉さまにご対面、
相模北条氏は秀吉さまは臣従の意を示しました。
6 源家康
相模北条氏の秀吉さま従属を取りまとめる間に
家康さまは数回、上洛していました。
そのときに家康さまは官位を進めます☺️
1587年・天正15年8月、上洛中の家康さまは
秀吉さまの執奏で官位を、従二位権大納言に
進めました。
このときも家康さまは秀吉さま弟と同じ官位でした。
また、1588年・天正16年4月の、聚楽第への
後陽成天皇ご行幸時に、秀吉さまに供奉した
織田信雄さま・家康さまは秀吉さまへの
臣従を天皇面前にて誓約、この際の起請文に
家康さまは源家康と署名。
ちなみに織田信雄さま、そして叔父の信兼さまは
平信雄・平信兼と署名、これは、秀吉さまの
執奏と考えられています。
豊臣の氏を第五の氏として賜った秀吉さまは
(4つの氏は源平藤橘、源・平・藤原・橘)
豊臣の下に源や平がいる、ということを、
秀吉さまは示したかったのかと思われます。
またこのとき、家康さまは清華成(せいがなり)と
なりました。
清華成とは、武家が清華家の家格を得ること、
そして清華家とは、最上位の摂家に次ぎ、大臣家の
上の序列に位置する公家の家格です。
簡単に言うと、すごい身分の高い公家と
同格となったということです。
また徳川家家臣では
が官位官職を得ました。
このうち井伊直政さまは公家成をえて、
徳川四天王でも1番若いですが、
表向きには徳川家臣筆頭となりました。
(もちろん徳川家内では酒井忠次さまが筆頭です)
江戸時代を通じて徳川家譜代大名の最高家格の
井伊家はこのときにその基本的地位を得たのです☺️
7 次回
家康さまは武家の中ではNo2の官位官職、
重臣若手も官位官職を得ましたが、
官位官職は名誉に過ぎず、それがあるからと言って
食べていけるわけではない。
頻繁な外交や度重なる上洛は
費用を使います、必要経費は自分もちが基本💦
家康さま❗️
どないしてお金作るのん❓❗️💦💦
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