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小牧長久手の戦いへの道1

~小牧長久手合戦に至る経緯について~


清須会議

会議の内容

・本能寺の変後の天正10年6月27日、織田家宿老の羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が集まり、織田家の家督は信長の孫に当たる三法師であることを確認した。

・三法師は、羽柴秀吉によって擁立されたのではなく、元々、織田家嫡流として家督を継ぐ人物とみなされていた。つまりドラマで描かれてきたような「策を弄して、強引に秀吉が幼君を祭り上げた」というのは史実ではない。

・家督継承者が幼少であるため、名代を置く必要があったが、血縁で近い織田信雄と、明智光秀討伐の総大将であった織田信孝のいずれを選んでも、禍根が残るとして、四宿老は名代を置かないことを決めた。今後は宿老と傅役の合議制で織田家の運営していくことを合意した。

・また、織田家の所領配分も行われ、秀吉は従来の播磨国・但馬国に加え河内国と山城国が加わり、織田家臣の中で最大勢力となった。山城国を得たことで、天下の中心である京都と常に関わることが可能となった。

その頃、徳川家康は

・本能寺の変の後、織田家の同盟者であった徳川家康は、不安定となった織田領の信濃・甲斐の平定をすすめていた。7月9日、織田家の承認の下(羽柴秀吉書状「三か国(信濃・甲斐・上野)を敵方に渡さないように軍勢を遣わし…」)、甲斐へ進軍した。

織田家内部抗争

内部対立

・天正10年8月、信雄の尾張国と信孝の美濃国の国境を巡る問題が起きた。これに対して勝家は信雄を支持し、秀吉は信孝を支持した。三法師が安土城に移ることになっていたが、信孝が自分のもとから離さなかったという。秀吉は見返りを得るためそのような立場を取った。

・三法師を手元に置いた信孝は、清須会議での決定を無視して自分が織田家の主導者としてふるまうようになった。京都の公家衆らの所領、訴訟に関わり始めたため、山城国を領有する秀吉への干渉となった。

・秀吉は山城に山崎城の築城を開始し、自分こそが山城の統治者であることを京の人々に示そうとした。このことは信孝だけでなく、勝家も刺激したため、反秀吉の立場で両者は接近した。

織田家分裂

・10月15日、秀吉は養子の羽柴秀勝を喪主として、信長の葬儀を京都大徳寺で強行した。信孝・勝家が参加しなかったため、秀吉との関係は悪化した。
(三法師と信雄も参加していない)

・10月28日、秀吉は織田家継承者の三法師を手元に置く信孝と勝家に対抗するため、丹羽長秀、池田恒興と結託し、三法師の名代として信雄と主従関係を結んだ。これにより信雄・秀吉派と信孝・勝家派のそれぞれを支持する勢力に別れ、織田家が分裂したため、清州会議の枠組みは崩壊した。

信孝・勝家派の敗北

・11月、信孝に対する美濃国での叛乱が起きると、信雄・秀吉軍は岐阜城を包囲した。勝家は雪で動けなかったため、孤立無援となった信孝は12月20日ごろ、降伏した。これにより、信雄は三法師の奪還に成功した。

・天正11年2月、秀吉は反秀吉派への攻撃を開始し、まず近江長浜城の柴田勝豊を降伏させた。その後、所領に不満を抱き、信孝・勝家に与していた北伊勢の滝川一益を攻めた。これに対し、勝家は3月に北近江へ出陣した。

・4月になると、信孝が岐阜城で再挙兵した。秀吉は信孝の母(主君であった信長の側室)を磔で殺し、美濃大垣城へ出陣したが柴田軍が動き出したため、21日、賤ヶ岳でこれを破り(賤ヶ岳の戦い)、北ノ庄城で勝家を自害に追いこんだ。

・信孝は信雄軍に包囲されたのちに降伏し、尾張国内海で自害した。また、北伊勢の一益も6月に降伏して出家し、秀吉に仕えた。

その頃、徳川家康は

・織田家で内部対立が始まった頃、徳川家康は天正10年8月、鳥居元忠、水野勝成らの活躍で大軍の北条別動隊を撃破した(黒駒の戦い)。9月になると、真田昌幸が徳川方に転じるなど次第に優勢となった。

・しかし、織田信孝、信雄両者からの勧告もあり、10月29日に北条氏と和睦した。これにより家康は五ヵ国(三河・遠江・駿河・信濃・甲斐)を領有する大大名となった。

・天正10年12月11日、支援要請として勝家からの書状と進上物が家康のもとへ届いた。しかし信雄を支持する家康は、翌年1月18日、尾張国星崎で信雄と対面した。信雄は柴田・羽柴の争いについて今後の対応を話し合ったという。

・天正11年5月、家康は石川数正を使者として羽柴秀吉に初花肩衝を贈り、賤ヶ岳合戦の勝利を祝した。秀吉からは返礼として不動国行の名刀が贈られている。

織田信雄(~小牧長久手)

織田信雄 肖像画
織田信雄(おだのぶかつ/のぶお)
引用 Wikipedia

・織田信長の次男として生まれ(幼名:茶筅)、織田家親類の中では信忠に次ぐ地位であった。永禄12年、伊勢の北畠家へ養子に入るが、やがて反信長派の粛清を行う。

・雑賀攻め、大坂表、播磨などに従軍したのち、天正7年、信長に無断で伊賀を攻め、重臣が討死するなどの大敗を喫した。信長からは「親子の縁を切る」とまで言われるほど叱責を受けた。

・本能寺の変後、信雄は討伐の軍を進めたが信孝(総大将)が光秀を討ち、先を越された。なお、安土城の焼失について、「フロイス日本史」では「御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、彼に邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し給うた」と記されている。

・清須会議の後、尾張国を領有したが隣接する美濃の信孝と国境問題で対立した。その後、信雄は羽柴秀吉らと主従を結び、信孝・勝家に対抗してこれを滅亡させた。こうして信雄は織田家当主として政権運営を主導していくはずだった。。

【参考図書】
小牧長久手合戦(平山優 角川新書)、清須会議(柴裕之 戎光祥出版)、図説 豊臣秀吉(柴裕之 戎光祥出版)、徳川家康の決断(本多隆成 中公新書)、徳川家康(藤井譲治 吉川弘文館)



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