清洲城下町遺跡地元説明会
後期清須城の石垣の一部が検出され、現地説明会が行われるとのことで、行ってきました。
今回の調査区は「23C区」と呼ばれており、現在の五条川のすぐ脇となる場所でした。2012年につくられた後期清須城の想定復元図では、城の北端に当たるとされたところでした。
今回の発掘調査では、下層部から以前に検出された石垣列の延長部と見られる石垣が見つかり、上層部からは瓦溜まりが見つかりました。瓦溜まりは既に埋め戻されており、説明会では下層部の石垣を見ることができました。
今回検出された石垣は、後期清須城(1586~1610年)のものと推定されており、この調査区と連続している「00B区」で見つかっている木簡に記された名前が織田信雄の家臣であることから、織田信雄が城主の時代に築かれたものではないかと推定しているとのことでした。
工法は、胴木を用いず、整地した面に小さめの石を敷き詰め、その上に根石や築石を積んでいくものだということでした。現場でも小さな石の上に大きな石(根石または築石)が確認できました。
これまでの研究では、今回の調査区は城の北端と考えられていたことから、西側に折れる部分が検出されるのではと考えられていたようですが、実際にそれは発見されず、石垣のあった層と同じ土は、北へと伸びていたそうです。そうなると石垣も北へと伸びていた可能性があり、城の北端はこれまで考えられていたよりも北だということになります。しかし、今回の調査区よりも北側は、すでに近代の改変がされているところであるため、もう城の北端を特定する術はないとのことでした。
そもそも後期清須城は、いわゆる「清須越」によって、建物や石垣の一部が名古屋城へと運び出されたため、江戸時代初期にかなり破壊されています。そのため、発掘で見つかるものも、中途半端に破壊された不完全なものばかりになるようです。
現場を見ると、大きな石が西側に延びているようにも見えなくはありませんが、石垣の面が揃っていませんし、基礎の栗石が北側にも散らばっていることから、ここが石垣の北端で、西側に折れているところだとは考えらえないようです。
出土遺物を展示していたテントのそばに、石垣に使用されていたと考えられる石が展示されていましたが、大きさも材質も不統一で、角のない河原石のようなものまでありました。これまでに発掘された石垣も、割石は確認できるものの未加工の石も多いとのことでした。
今回の調査区では、上層部から多くの瓦が見つかったことで、この地区(北の丸、北曲輪と推定されている)が瓦葺きの建物と石垣がある、城内でも重要な中枢部だということが判明したとのことでした。
また、既に埋め戻されてしまった瓦溜まりで大量に見つかった瓦と、石垣付近で見つかった瓦には、時期差が見られることから、これを精緻に検討していけば、この石垣が誰が城主の時代につくられたものかがより明確になる可能性があるとのことでした。
昨年の後半から、いろいろなところの現地説明会に参加するようになりましたが、何か決定的な発見ではなくても、こうやって発掘調査によって少しずつ当時の様子がわかっていく過程はとても興味深いですね。また、説明会が終われば、埋め戻されて保存されるため、見ることのできなくなるものが見られるというのも現地説明会の魅力ですね。
清洲城ふるさとのやかた前に復元されている清須城本丸の石垣は、五条川の河川事業にともなう発掘調査で見つかったものです。こちらの石垣も野面積みであることは共通ですが、今回の現地説明会でのものと違って、軟弱地盤にそなえて、枕木と胴木を梯子上に組んだ梯子胴木を用いて築かれていたようです。
この日は、天気も良く、桜もピークこそ過ぎていましたが、まだまだ薄桃色の花が楽しめる状態だったので、少し模擬天守との写真を撮ってから、三重県方面の別の城跡へと向かいました。
訪問日:令和6年(2024年)4月13日