雑記:城下町小幡
群馬県甘楽郡甘楽町の小幡は、中世には小幡氏の本拠であったが、江戸時代には織田氏、ついで奥平松平氏が領主となっている。
現在も城下町の面影を残す場所であり、甘楽町も「城下町小幡」として観光アピールをしている(下の写真は城下町の用水路で、春には桜の名所でもある)
織田氏が領主時代の遺構としては陣屋の跡と、それに隣接する庭園・楽山園があり、特に楽山園は群馬県内に残る唯一の大名庭園として国指定の名勝となっている。
近年大規模な整備・復元事業が行われ、館の門や長屋などが復元され、庭園も往時の姿が再現された。
楽山園は江戸初期の作で、戦国武将庭園から大名庭園への移行期の庭園であり、茶室や亭も復元されている。
楽山園の周囲には、武家屋敷の様子を残す家屋もあり、髙橋家の白壁と蔵(下の写真一枚目)や、山田家の石垣(通称「喰い違い郭」、下の写真二枚目、三枚目)などはその代表例である。
楽山園の南方には、織田家の菩提寺の崇福寺があり、それに隣接する織田公公園は近年整備されたもので、園内には織田家の墓所がある。
小幡藩織田家は、織田信長の次子・信雄を初代とする家系で、信雄以下七代にわたって小幡を領有した(七代信富の時代に明和事件に連座して転封となった)。
かつては墓塔が建ち並ぶだけであったが、現在は墓塔には覆屋が設けられている。
墓塔はいづれも五輪塔で、最も大型の石塔は初代信雄のものであるが(下の写真一枚目)、形式からするにおそらく没後かなり経ってから造立されたものと思われる(再建か)。
信雄の隣にあるやや小ぶりな五輪塔は、駿河大納言忠長の岳父である二代信良のものである(下の写真二枚目)。
七代の墓塔のうち、六代信就と七代信富の五輪塔は、破損が激しいが造立年代はおそらく戦国期以前に遡ると思われ、当初の墓塔が失われたために別の石塔で代用したものと推測される(五輪塔の下にあるのは、宝篋印塔の基礎か)。