徒然なるままに

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「田嶋家文書」酒井忠次宛佐久間信盛書状の考察

 本稿では、以下の書状について検討してみたい。  本書状の内容を確認すると、下記の通りとなろう。 「なお、先だって馬をお送りいただき、恐れ入ります。また、私が江州を留守にする際には、必要なことは好斎(一用)に綿密に伝えておきます。万一のことがあったら、仰せ付けください。そのため、まずは好斎に対して貴方の所から書状にてご説明するのが良いでしょう。 先だって参上したところ、お取り計らいのため貴殿のご機嫌も良く、丁重に扱っていただき大変嬉しく思います。ご書状の通り信長には詳細を

    • 織田信長から松平信康に対する偏諱授与を「敢えて疑う」

      序論 松平信康は徳川家康の嫡男として永禄二(1559)年三月に駿河にて誕生、織田信長の娘である五徳を妻とし、元亀元(1570)年八月に元服したとされる(『松平記』『浜松御在城記』等、黒田基樹 (1) は元亀二(1571)年八月の出来事と推定)。元服に伴い、岳父信長の「信」、実父家康の「康」を取って実名「信康」を名乗った。  上記の事実から「信康」の「信」は信長からの偏諱授与として説明される場合が多い。偏諱は諱の一字を指す言葉であり、武家社会においては、元服の際に烏帽子親から

      • 大岡弥四郎事件に関する一考察〈史実編〉

        はじめに 大岡(大賀)弥四郎事件については『三河物語』や『武徳編年集成』といった歴史編纂書に基づき、徳川家中で卑しい身分から出世した大賀弥四郎が計画した謀叛であったとして柴田顕正『岡崎市史』や中村孝也『家康伝』などでは描かれてきた。しかし、新行紀一が『新編岡崎市史』中世で大岡弥四郎は「岡崎町奉行」「諸事支配人」といった要職に就いた人物であり、事件は信康の母である築山殿や石川春重・松平親宅といった信康の上級家臣も関与し、西三河一帯を震撼させた「信康家臣一揆」とでもいうべき事態で

        • 大岡(大賀)弥四郎事件に関する歴史的な変遷の考察

          序論 大岡(大賀)弥四郎事件について、これまでは「御中間」もしくは「奴隷」の身分から出世した大賀弥四郎という人物が徒党を組み、武田勝頼の軍勢を岡崎城に引き入れて家康父子を討とうとした小規模な謀叛計画として捉えられてきた。しかし、新行紀一が大岡(大賀)弥四郎を「岡崎町奉行」(『三河(岡崎)東泉記』)、もしくは「諸事支配人」(『伝馬町旧記録』)として信康に仕える上級家臣であったと指摘し、柴裕之が天正三年の武田方による奥三河への侵攻がこの事件に連動した軍事活動であったことを一次史料

          織田・徳川間の取次の変遷に関する考察

          ■ 序論 前回「佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察」をnoteに投稿したところ、著名な戦国史研究家であり、現在は大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を務めておられる平山優先生よりご指摘を賜った。本稿は平山先生が「調査検討すべき」事項として挙げられた「織田・徳川間の取次の変遷」を自分なりに史料の収集を行い、検討を試みたものである。 ※前回記事は下記のリンクを参照のこと。 佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察|徒然なるままに|note ■ 本論 

          織田・徳川間の取次の変遷に関する考察

          「そうだ、越前に行こう」―『越前国相越記』を読んでみる①

           『越前国相越記』は天正三年八月の織田信長による越前一向一揆征伐の時に、興福寺大乗院門跡である尋憲が陣中見舞いと称して越前に下向し、門跡領であった河口荘と坪江荘の回復を信長に働きかけた際の記録である。  本史料は信長による越前一向一揆の徹底的な掃討作戦(神田千里や竹間芳明など)や後に信長から越前の支配を任される柴田勝家の領域支配(丸島和洋など)に関する研究で用いられる場合が多い。  本稿では「『越前国相越記』を読んでみる」と題して史料全体の内容を意訳しながら、失われていた

          「そうだ、越前に行こう」―『越前国相越記』を読んでみる①

          【仮説】天正年間の徳川家中における五徳の立場に関する一考察

           織田信長の息女であった五徳は『織田家雑録』によると「信忠・信雄・岡崎殿三人一腹ニテ、五徳ノ足ノゴトクナリトテ、五徳ト名ツケ玉フト云」と記載されている。永禄六(1563)年に徳川家康の嫡男であった松平信康と婚約し、永禄十(1567)年五月に岡崎に輿入れしたという。しかし、天正七(1579)年の松平信康事件をうけて信康とその母である築山殿が死亡した後、翌年二月に信長のもとに送り返された(『家忠日記』)。彼女が信康に嫁いだ以降の徳川家中における動向は史料上にはほぼ残っていない。

          【仮説】天正年間の徳川家中における五徳の立場に関する一考察

          北畠(織田)信雄の改名に関する一考察

          ※本稿は過去の文章を基本的に残した上で、2024年9月5日に一部加筆・修正した。 本文 全く関係の無い別々のことを調べていたら、それらの点と点とが結びついて新たな発見が生まれるというのは非常に嬉しい。今回の話題はそのような過程を経て思いついた一仮説。  上記の史料は真田家に伝来した『古文書鑑』に収録されているものである。『古文書鑑』とは、利根川淳子の研究によると、所蔵者の手を離れて商品として流通していた文書を買い集め、二巻の巻子として仕立てたものであるという。利根川は各文

          北畠(織田)信雄の改名に関する一考察

          「何某宛佐久間信盛等連署状」に関する推測ー受給者は誰か?

          昨日承本望候、仍安土へ遣候使者、昨夕罷帰候、今度貴所被入御精、松永一類歴々衆討捕候事、御忠節無比類候之間、其旨御懇従我等可申由、被仰出候、随而松永跡幷与力事、未何方へも不被仰付候、知行之儀は、大形被遂御糺明、今度忠節人ニ可被下之由、被仰出候、来月相々必被成御上洛、其刻知行分従是可被仰出由候、可有其御心得候、貴所安土へ御見廻事、先被相延、於京都御礼尤候、相替儀候者、重而可申承候、恐々謹言、    十月廿一日          信盛(花押)                   信

          「何某宛佐久間信盛等連署状」に関する推測ー受給者は誰か?

          佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察

           上記は深溝松平家に伝来した徳川家康書状(「松平千代子氏所蔵文書」江戸時代、18~19世紀)である。写真は下記のURLを参照のこと。 作品詳細 | 伝徳川家康書状 佐久間甚九郎(正勝)・佐々一兵衛尉宛 十一月廿六日 | イメージアーカイブ - DNPアートコミュニケーションズ (dnpartcom.jp)  東京帝国大学名誉教授の中村孝也は『新訂徳川家康文書の研究』のなかでこの書状を考察している。それは、元亀元年~天正元年までの織田信長の動向を概観し、「思うに二年十一月信

          佐久間甚九郎・佐々一兵衛宛徳川家康書状に関する考察