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北畠具教VS織田信長

大河ドラマ どうする家康が始まり戦国時代ブームも再加熱するのではないか?
と思う今日この頃……
改めて、戦国一局地戦最強の大名 北畠具教について書いていこうと思う。
そもそも、効率的に戦っていた北畠具教は何故、拠点である伊勢国への侵入を許したのか?
織田信長自身も何故、自らの息子を北畠家の養子に出さなければならないほど弱腰だったのか?  探ろうと思う。

                信長、伊勢国への進撃
 
    1569年8月岐阜を出陣した織田信長は前もって調略して味方につけていた木造氏の現在、津市久居にある木造城に入って本陣をたてた。
北畠具教も伊勢に進軍した織田信長に対抗する為、居城、現在、津市美杉にある多気北畠城から出陣し現在、松阪市内にある大河内城に移り一族郎党を集め戦に備えた。
この大河内城のある場所だが北畠家の拠点、多気北畠城までの入り口にあり、ココを通らねばネズミ一匹とて多気に近づけないそんな場所に建っておりこの作りは京の都の手前にある大山崎と同じである。
北畠家は代々ココに本物の京の都を超えた都作りをしていた。
故に伊勢国を攻めるには織田信長はココを攻めるのが1番であり、多気北畠城や城下町は喉から手が出るほど欲しかったに違いないのである。木下藤吉郎秀吉の軍勢が大河内城の北側にある阿坂城を大河内城攻略のため攻め落としたが秀吉は負傷し織田信長本隊に合流出来ず。
木造城を26日に出陣した織田信長は翌27日には大河内城の北東に布陣した。
北畠の兵力7千に対して、織田信長は5万の軍勢であった。
よく城攻めには篭城している敵兵の兵数の3倍の兵力で攻めるのが鉄則のようなものになっていた時代で織田信長は決して北畠具教という大名を微塵も侮っていなかった事が伺える。
が、全盛期の北畠具教が大河内城にいるので何人かの一族郎党の裏切りがあったとはいえ、北畠具教は織田信長の軍勢5万に対してたった7千で良いと判断し織田を過小評価したようにも見える。
そう、前記事にも書いて来たが北畠具教は局地戦最強であったが物量に決して負けぬ戦の天才でもあった。
織田信長が兵を四方に分けて攻めるも滝川一益、蒲生氏郷などが攻めるも織田勢の有力武将が討死し続け負傷し、開戦から実に2ヶ月、織田信長は足利義昭に和議の仲介を頼む事で和睦した。
歴史上は織田信長が自らの政略で息子、織田信雄を北畠家の養子にしたという説があるが大河内城の戦況を見るにそれは偽りである事がわかるそもそも、織田信長は戦上手か?にも関わる話である。
織田信長はこの後、石山本願寺の門主、本願寺顕如や三好三人衆らと戦をするがあまり知られていない戦にかかった歳月は驚くことなかれ!
実に10年もかかって、和睦なのである。
しかも、織田方はココでも劣勢を喫していた。
故に伊勢国主 北畠具教の戦も効率の悪い戦を長々進め時間を擁して結果的に和睦を取ってるだけに過ぎず、その後ろ盾になっていたのは常に朝廷や滅びかけの将軍家であった。
織田家自体は津島の湊の貿易で稼いだ財力もあっただろうが…戦略においては現在、伝わるような戦上手ではなかった……
それはきっと本人も自覚していたので後の秀吉や家康のような全国統治が信長には出来ず、京の天皇を掌握するかつて三好長慶や松永久秀が考えた畿内制圧による天下取りしか出来なかった。

               Winner!北畠具教!

ともあれ、後世の時代において織田信長が北畠具教に圧勝したなどという史実はなく、北畠具教が織田信長に勝利していた。
もし、仮に織田信長が北畠具教に勝っていたとして、何故?攻め難い多気の三瀬館まで生かして何故?100人以上の手勢で刀に仕掛けまでして北畠具教を暗殺しようとする愚策に至ったのか?
そして何故、織田信雄の正室は北畠具教の娘、雪姫のままなのか?
色々考えると織田信雄の養父は北畠具教でありよくしてもらっていた事もあるだろう。
キリはないが、織田信長は北畠具教を愚策で追い詰めねばならぬほど敗北したのである。
北畠具教は戦国時代最強の武将だった。
故に時代の引き際も見据えていたのかもしれない。

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担当 中村宙史

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