「私はいない」のか「いろんな私がいる」のか、どちらの視点も同じだと考えてます、とコメント欄でらくたさんが言っていた。 https://note.com/lghtctr/n/ncfd67cab74c3 名言だー!!!
"私"について… 未だに私は"私"という存在が在るって認識から脱していないのだけれど"私"がいない瞬間だけは理解出来ている。物事に夢中になってる時、ボーッとしてる時など"私"はどこにもいない。なのに対象がある場合はどうしても"私"が出る。苦しくて後から気づく。 いつも悔しい…
誰かに言ったあの言葉 心の中でこだまするその言葉 言えずに飲み込んだこの言葉 どれもこれもホントのホントは 私に言ってた 私に言ってた 私に言ってた そう考えると、私しかいないみたい そう思えば、私しかいないみたい そう言えば、私すらいないらしい …て事かな( •́ㅿ•̀ )?
「私はいない」「私はただ動かされているだけ」ということを本当に理解するならば、外側に見えている他の身体(兄弟)も同じくそうであることを理解するはずです。そうなるなら、外側に他者という誰かが存在しているとは知覚できなくなります。もはや「非二元」を概念で弄ぶこともしなくなります。
私は悟りたい、私は目覚めたい、私は覚醒したい、と、それを願う者はたくさんいます。ただし、私は消滅する、私は存在しない、私は非実在である、と、そういうことを受け入れたいと願う者はほとんどいません。悟り、目覚め、覚醒はそういうものであるにもかかわらず、です。
「私はいない」にどうしても惹かれてしまうのは、 「私」を強烈に自覚してしまうくらい 何かがしんどいからじゃない?