理解で被せると、永遠に被せ続けるよ。
「そうなのか」「そうだな」と
理解で上から覆い被さっていってもなぁ…
いつまでたっても
そらもうずっと「そうか、なるほど!」
とやり続けるだろうなぁ…
あのね、
重ねていくんじゃなくて、
なくなって行く方向よ。
このもの自体が、
認識だって言ってるので
上から被さって思考していくのは
認識を(私を)更に生き生きさせていくことに
なるのよ。
で、これ、言葉でいくら言っても
上から被せる、重ねる方にしか
ならないのよね。
だから黙る。
思考が沸くまま黙る。
あ、思考を見たり、
放っておいたりというのとは違うよ。
「私」=思考、だからね。
ここ、もう頭で理解しようとしないでね。
「それはつまり…」ってやらないでね。
思考が沸いてる、認識が起こってる。
それがそのまま自分だからね。
そこが消えてはじめて、確かに…
ってなるのよ。
「全部解釈」「私なんていなかった」
この言葉が「言葉じゃなく」落ちるんよ。
あ、でも
「本質が現れる」とかそういうのじゃないよ。
現れないからね、本質とやら……