心の強さとは 自分の心に向き合うことができるということである 自分が自分の心に向き合っている時にのみ 心は他の影響を受けない「強さ」を持つ 自分の心に真に向き合い 自分が何を感じているのか 自分がどうしたいのかに真に誠実であり それを受け止め、癒し、行動に移した時にのみ あなたの心は成長し さらに広がりを持つことになる それが心の柔軟性であり 心の動揺を吸収する「強さ」である
心の強さとは 攻撃性の高さを表す言葉でもなければ 反撃力の高さを表す言葉でもない 他人を攻撃し傷つけることによって いったい「何」が「強い」と言いたいのだろう? そうして自分を「守る」ことが 「強い」のだとしたら それが必要なのだとしたら それは その「守らなければならないもの」の 「弱さ」の反映でしかないだろう いったいどんな「弱さ」を守るために あなたは「強く」あらねばならないのだろう 本当に誰かの「心が強い」のならば そのすでに「強い心」を攻撃によって守る必要は
外側の出来事や 特定の考え方によって 安心するのではない ただ安心という感覚が存在していて そこに留まり 安心でない全ての感覚から手を放していくのだ あなたの体の内にある感覚意外に 何も存在していない そのどれを選び取るか それだけがあなたのできる選択なのだ
もう隠し事は無しだ どうしてあなたは あなたの愛を隠し あなたの嘘を人に見せるのだろう この世界は パフォーマンスのためにあるのではなく 愛の実践のためにある それは真心と 嘘のない言動によってのみ この世界に現れることができるのだ
例えば 「働かざる者食うべからずだ!」と強く信じていて 働けない奴は皆殺しにしてしまえと考えている人がいるして その人が今日、事故や災害に遭って重症のけがを負い、 働けなくなったとしたら? 働けなくなったその瞬間に その人は本当に死んでしまうだろうか? いや、きっとその人は自分の命が生きようとしていることに気付くだろう 私たちの体を生きているのは 命そのものであって 観念ではない それでも命は あなたの観念にすら自由を与えていて その観念に基づいて あなたは自他の命を終
体は自然に属していて エゴに属しているのではない 体という自然を エゴによって完全に把握しコントロールできると思う事は 思い上がりでしかない
私たちは この世界に生まれ死んでいくものとして 同じである その間に起こる 全ての出来事 全ての経験が 違っている そうでなければ この世界に何十億という人間が生まれる理由が どこにあるというのだろう
他人によって自我が攻撃されたために 自我が発達できなかった人 自我が破壊された人は 自我の再確立が必要になる その確立された自我を 自ら看破し 自らの手によって解体するのだ つまり 他人によって自我を失った人は そうで無い人よりも一つ段階を踏む必要がある 自我は不要なものではない それは過程において必要だから存在しているのだ
エゴは他人に破壊されるべきものではなく 自らによって見破られるべきものである エゴが有る事を認めなければ それを直視することすらできない 直視した時にこそ、それは消滅するのだ これは エゴが無いと信じ込むことによって 他人に破壊されても大丈夫などと思う事とは正反対のことだ あなたが直視するまでエゴは存在し 実際に破壊されてしまうことすらできるのだ その時あなたはエゴを直視する機会を失い エゴの本来的な消滅の機会を失うことになってしまうだろう よって 自らのエゴは他人に
癒しとは 観念や作為からの解放である よって 誰かを癒そうとする観念や作為そのものが 癒しの妨げとなるのだ
あなたがあなたの考えや感情に本当に対峙しているならば あなたが相手に感情をぶつけていない時、それが観察できるだろう あなたが相手の人権や尊厳を傷付けていない時、それが観察できるだろう その時 相手が怒ったり 感情的になったり 暴力を振るったりするのであれば それは 相手が自分自身に対峙しないために行っている攻撃や支配である あなたは 相手のその言動によって自分の内面に起こる考えや感情に 再び対峙する必要があるが 相手のその感情や言動に対しての責任は負わないのだ
あなたが真に冷静であるならば 相手の言動の中にある怒り・憎しみを見る事ができるだろう その時 相手がいかに正当防衛を主張し あなたの被害妄想だと言おうとも そして 彼らの目には本当にそう映っていようとも 彼らはあなたに暴力を振るっている この世界は究極的に幻だとしても あなたがその幻の中に現れている限りにおいて あなたはその影響を受けることになる
支配されない唯一の方法 それは 支配することではない それは 自分の内面に一致し続けることだ あなたが支配されている時 当然ながらあなたは自由ではないが あなたが支配している時も あなたは被支配者から自由ではなんだよ 支配からの自由とは 支配-被支配の軸そのものからの脱却以外になく それは 支配者の言動とも被支配者の言動とも無関係に 自分の内面に一致し続けることなんだ
目覚めていくためには 今まであなたが何気なく学習したり身に着けて無意識に続けてきた習慣を 自分の意思の力によって選び変えていくという ある種の戦いが必要となる この戦いは 否定・拒絶・勝ち負けの戦いではなく 強い意志を持った選択をし続ける戦いだ 優劣の無い平等な選択肢を 惰性では無く意志の力によって 意図的に選択し直していく戦いだ この戦いは力んではいけない なぜならこの戦いは リラックスを選択していくための戦いなのだから
自分の負の感情と向き合うことは 苦痛として感じられるかもしれないけれど それは一時的なものだよ 外側に仮想の敵を見出し それと戦っているあいだ あなたは自分の負の感情と向き合う苦痛を避けられる それは一見 快適で正しい事のように感じられるかもしれない でも 自分の負の感情に向き合わない限り あなたは仮想の敵と戦い続けなければならない あなたが自分に向き合うまで あなたの戦いは永遠に終わらないんだ なぜならその戦いの目的こそが 自分に向き合わない事なのだから 本当は存
今ここの生き方と刹那的な生き方は どちらも過去や未来に縛られない けれどこの二つは自分への向き合い方について真逆だ 刹那的な生き方とは すべての瞬間において自分に向き合わない選択を続けること 今ここの生き方とは すべての瞬間において自分に向き合う選択を続けることだ